■汚屋敷の跡取り-36.重力遮断(2015年03月21日UP)
「いや、ちょっ……待て、オレ、共通語は……読解はイケるけど、きっ聞きとりは、その……」
「優一さん、タンスの正面に立ってしっかり抱えて下さい。術が発動したら三枝(さえぐさ)さんが合図します。それから持ち上げて下さい。とても軽くなりますから、気を付けて下さい」
「いや、え……お、おう。わ……わかった」
三枝はタンスの側面に掌を押し当て、多分、湖北語(こほくご)で呪文らしきものを呟いた。
短い詠唱の後、三枝はタンスの側面をポンポン叩いて、俺に頷いてみせた。
オレはタンスにがっぷり組みつき、一気に持ち上げた。
空の段ボール並の軽さに拍子抜けし、勢い余って二、三歩よろよろ後退する。
ああ、これ、ホントにオレ一人で充分だわ。
体勢を立て直したオレは、廊下に出た。
カサカサカサ。
引き出しの中で虫の蠢く音がする。さっさと捨てよう。
足下に注意しながら階段を降りる。
軽くなったタンスを抱えたまま、靴に足を突っ込む。きちんと履いている余裕はない。新品の靴の踵を踏み潰し、玄関を出た。
後はムネノリ君の前に置いて、あの爆炎魔法で灰にするだけだ。
オレは顔だけムネノリ君の方へ向け、タンスを抱えて蟹のように走った。
突然、手の中に重量が戻ってきた。
……しまった! 時間切れ!
手の中からタンスが滑り落ち、左足に衝撃が走る。余りの激痛に声を失った。
思わず両手を放す。
タンスは重々しい音を立てて倒れた。
同時に、左足が解放され、オレは尻餅をつくようにして倒れ込んだ。
「ゆうちゃん、大丈夫?」
ムネノリ君が近付いてくる。
メイドさんと三枝も駆け寄ってきた。
「優一さん、玄関まででよかったんですけど……」
うん。そうだったね。そう言えば、メイドさんは、ちゃんとそう言ってくれてたよね。でも、オレの心配よりツッコミ優先って、酷くね?
三枝がオレの靴を脱がし、左足の甲に触った。
痛いっつーの! 触んな! 空気読めよ!
だが、苦痛のあまり抵抗もままならない。白い靴下の爪先は、鮮血に染まっていた。
三枝が、湖北語で何か言った。
「ゆうちゃん、爪は割れてるけど、骨は大丈夫だって。よかったね」
何が「よかったね」だ。大惨事だよ! 頭沸いてんじゃねーのか、このロリ声は……!
「これだったら僕でも治せるから、ちょっと待ってね」
ムネノリ君はゆっくりしゃがみ、地面にキモい杖を横たえた。
メイドさんがムネノリ君の手を取り、肩を貸して立ち上がるのを手助けする。自力で立つ事すらできねーのかよ。
メイドさんに支えられて、立ち上がったムネノリ君は、朗々と呪文を唱え始めた。
湖北語なのか。何を言っているのかは、全くわからない。
幼い少女のような声が、歌うように滑らかに魔法の言葉を紡ぎ出す。
その詠唱に不可視の力が乗り、オレの体を温かい何かが包み込む。
爪先だけでなく、全身にやさしい何かが行き渡る。
痛みが消える。
体の芯から苦痛の素が消えて行く。
不思議な響きの言葉が耳に心地良い。この幼く甘い歌声をいつまでも聴いていたい。
言葉の意味がわからないからか、オレは純粋に、その響きの美しさに魅了されていた。
ムネノリ君が、しゃがんで杖を拾いながら普通に話し掛けてきた。
「ゆうちゃん、立って」
「えっ? いや、もう終わり?」
もっと聴いていたかった。
「もうって……今ので治ったと思うんだけど……まだどこか痛い? 病気とか骨折とかは僕じゃ治せないんだけど……」
「いっいや、大丈夫。何でもない」
オレは勢いよく立ち上がって言った。
ムネノリ君は杖に縋り、メイドさんに介助されてゆっくりと立ち上がる。
三枝が、タンスを抱えて蔵の前に移動させていた。
オレは左足の指を動かしてみた。本当に痛くない。
しゃがんで靴下を脱いで確認する。爪は何事もなかったかのように、健全な状態で指についていた。
靴下が血染めになっていなければ、怪我をした事こそが、錯覚だったのかとすら思えてくる。
「よかったね。ちゃんと治ってて」
「いや、あ……ああ。うん」
嬉しそうに笑うムネノリ君に、オレはぎこちなく頷いた。
「何でそこで『ありがとう』の一言が言えないのかなー」
それまで黙っていた藍が、オレの横を通り過ぎ様に言った。