■汚屋敷の跡取り-01.廊下 (2015年03月21日UP)

 自室のドアを細く開け、隙間から身を滑らせて、廊下に出た。
 冷たい木の床に足の裏から体温を奪われ、思わず身震いする。
 部屋の灯を受けた吐息が、丑三つ時の闇に白く浮かび上がった。
 足音を殺して爪先立ちで歩き、各段の障害物を慎重に回避しつつ、階段を降りた。
 手探りで壁のスイッチに触れる。
 目の前の光景に思わず声を出しそうになり、息を呑んだ。

 ……何もない。

 廊下に、何ひとつ物がない。
 壁、床、天井は磨きこまれ、蛍光灯の光をうっすら反射していた。
 生物の気配すら、感じられない。
 しゃがみ込んで床を指でなぞったが、埃ひとつ落ちていなかった。
 ……どうなってんだ?
 
 しかし、まずは当初の目的を果たすべく、トイレに向かう。
 廊下に障害物がないせいか、数秒で辿りついた。
 先週、トイレに行った時は、廊下の壁際には戸棚とカラーボックスが隙間なく設置され、それらに入りきらない日用品や保存食が各棚の上にも置かれ、中身が詰まった段ボール箱が身長より高く積み上がり、キャットウォークのような通路には脱ぎ捨てられた作業服や古新聞、古雑誌、空の段ボールが分厚く敷き詰められ、お裾分けの野菜や漬物が入ったままのビニール袋や紙袋が幾つも朽ち果て、異臭を放っていた。
 オレが住む歌道山町(うどうやまちょう)は、田舎の農村地帯なので、収穫期になるとご近所さんによる「お裾分け玄関放置」が多発する。
 作物の種類や大きさから、誰がくれたのかを鑑別して間違いなくお礼をすると言う、高度な近所付き合いスキルが要求される。
 同時期に複数の人から大量に貰う為、冷蔵庫に入りきらないお裾分けが、玄関や廊下で袋に入ったまま、ひっそりと朽ちて行くのだ。
 夏場は足下をゴキブリやムカデ、カマドウマが這い回り、時にはそれらが天井から降ってくる。室内で発生したハエだけでなく、蛾やカナブン等、野生の虫も、室内であろうと容赦なく飛び交う。
 夜間には一年を通してお裾分けを狙うネズミが徘徊する。
 それらの物品や危険生物を回避し、足場を確保しながら体を横や斜めにして通る為、階段からトイレまでの数メートルの移動に少なくとも一分半は掛かる。
 今月頭にババアが何かを回避し損ねて転倒した。
 足を折って月末近い現在も入院中だ。
 この家の日常は、そのくらいハードモードなのだ。
 注意力や判断力の足りない者や、身体能力の劣る者は生きて行けない。
 ババアは来週、退院するらしい。正月休みで職員の手が足りなくなる為、生命に別条ない患者は帰宅させられるのだろう。
 ババアの入院以来、ネットで取り寄せた保存食とカップ麺とミネラルウォーターと菓子類で暮らしているが、そろそろ飽きてきたところだ。
 八十目前のババアでも、流石に一カ月も休めば回復しているだろう。久々にかわいい孫の為に正月料理を作る楽しみを与えてやる事にするか。
 ババアは、オレが飯を残さず食ってやるだけで、「ゆうちゃんが今日も元気でいてくれてありがたい」と、ドアの前で泣いて喜ぶ。
 そんなババアが、一カ月もオレの飯を作れなかったのだから、さぞかしストレスが溜っているに違いない。
 ぶっちゃけ、ババアの飯は塩気が強すぎてマズイ。
 マズイ飯でも一応、残さず食うのは、オレが豪農・山端(やまばた)家の跡取りだからだ。
 一週間ぶりにケツの荷が降り、スッキリした気分で手を洗っている最中に気付いた。
 トイレもキレイになっている。

 物がない。

 前回までは、手洗い場の壁沿いにトイレットペーパーや洗剤、芳香剤の買い置きの段ボール箱が天井まで積み上がり、使いかけの洗剤や芳香剤のボトルが床に林立していた。
 洗濯が面倒なのか、床のマットは汚れる度に上に新しい物を重ねていた。誰かが定期的に再起不能になった汚れマットを捨てていたらしく、一定以上の厚さにはならなかったが、足元は常にふわふわしていた。
 トイレのドアの内側には、何年も前のカレンダーがぶら下がって厚い層を成し、ジジイとオヤジの煙草のヤニで変色していた。
 現在、足元のマットは、清潔な物が一枚敷いてあるだけだ。
 カレンダーは一枚もなく、アンモニアやヤニの臭いもしない。
 ヤニと埃で茶色く煤けていた壁や天井も、廊下同様、うっすらと灯を反射している。
 便器からは黄ばみや黒ずみがなくなり、新品同様に白く輝いている。もしかすると本当に新品と交換したのかもしれない。
 蛇口やパイプなどの金属は、鏡のようにオレの姿を映していた。
 手洗い場の鏡は一点の曇りもなく、パイプよりもはっきりオレの姿を映している。
 最後に風呂に入ったのが何年前だったか、正直、覚えていない。
 皮脂とフケでコーティングされた髪が、ベッタリと頭にへばりつき、テカテカと黒光りしている。前髪もサイドも後ろでまとめ、輪ゴムでひとつくくりにしている。腰まである髪の重量は相当な物で、ぶっちゃけ、重くて邪魔だ。髭は胸まで伸びている。
 コピー用紙のように白い顔に垢が付着して所々黒ずみ、眉毛周辺のムダ毛も伸び放題で、左右の眉毛が繋がっている。
 目が充血しているのは、エアコンで空気が乾燥しているのと、ディスプレイを見続けているせいで、ドライアイになっているせいかも知れない。
 服は今冬、初雪が降った日に裏起毛のジャージとトレーナーに着替えて、そのまま着た切り。前面に食べこぼしのシミ、袖口には黒い輪ジミ。襟首と袖口は伸びきって、全体に毛玉が付いている。
 靴下には伸びた爪で穴があいている。
 手の爪はキーを打つ時に邪魔になる為、噛み切っているが、足の爪は歯で切るには汚すぎる。そもそも、口が届かない。
 鏡の中のオレは、このトイレに場違いな程、汚れた人間だった。

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