■汚屋敷の跡取り-02.洗面所(2015年03月21日UP)
廊下に出て隣の洗面所に入る。
洗面所の横は脱衣所で、その奥が風呂場だが、深夜なので誰もいない。
思い出した……
今、この家、オレ一人だ。
ジジイとオヤジと異母弟妹は毎年、冬休み期間中、オヤジの後妻の実家に滞在する。今年は、留守番のババアも入院で居ない。
オレ一人だ。
じゃあ、誰が片付けて壁や天井まで磨き上げたんだ?
先週はこうじゃなかった。
洗面所と脱衣所、風呂場にも物がなく、隅々まで磨き上げられたように輝いていた。
勿論、元はそうではない。
先週までは廊下、トイレと同様、大量の在庫と不用品と灰色の綿埃が積み上がり、天井からは黒い埃にまみれた蜘蛛の巣が垂れ下がっていた。水場だからか、虫の種類も豊富だった。洗面台の引き出しは、化粧品等の試供品が溢れ、閉まらなくなっていた程だ。
今は、何もない。
脱衣所には、脱ぎ散らかされた衣類もバスタオルもなく、ネズミに齧られた石鹸もない。
鏡の前には、新品と使い古しの歯ブラシがごちゃ混ぜに入った茶筒の代わりに、プラスチックのコップにパッケージに入ったままの歯ブラシが立ててあった。
コップ五つに歯ブラシ五本。家族の人数分に足りない。オレ、ジジイ、オヤジ、ババア、異母弟(おとうと)の賢治(けんじ)、異母妹(いもうと)の真穂(まほ)で六人だ。
後妻で賢治と真穂の母・美波(みなみ)は、随分前に入院して、それから実家に帰ったとかで戻って来ない。
「実家に出戻っていても正式に離婚していなければ、世間で肩身の狭い思いをしなくてもいいだろう」と言うオヤジ達の配慮で、離婚届にサインはしていない。
毎年、遠路遥々、離島の実家まで出向いてやり、身体を壊して出戻ったダメ嫁に子供の顔を見せてやっている。
ジジイの見立てでは、離島育ちの田舎漁師の子だから、ウチみたいな由緒正しい豪農の嫁は務まらなかったのだろうとの事だ。
ウチの財産目当てですり寄って、軽い気持ちで分不相応な結婚なんかするからこうなる。ちょっとはこっちの迷惑も考えろっつーの。
ババアは「片親になったら子供らが可哀想」と、ひたすら異母弟妹(きょうだい)に同情している。
先妻であるオレの母・晴海(はるみ)は、オレが七歳の時に行方不明になった。そのせいでババアは異母弟妹に同情しているのだろう。
オヤジは七年後に失踪宣告をして、美波と再婚した。
近所の下衆共は、オフクロが男を作って駆け落ちしたと噂した。
顔見知りばかりの小さな集落なので、大人たちの噂話は、小学生のオレの耳にも当然、入ってきた。
オレは「これだからアバズレの子は……」と言われないように必死で勉強した。医者になってこの無医村で開業して、あいつらの生命を握ってやる為に。
由緒正しい豪農の跡取り「山端優一(やまばたゆういち)」の名の通り、優秀なオレは小中高と常に学年トップだった。
大学受験が上手くいかなかったのは、直前まで無学なジジイに農作業の手伝いをさせられたのと、三歳児だった賢治がうるさくて、殆ど勉強時間がなくなったせいだった。
翌年、四歳になった賢治が、隣の矢田山(やだやま)市内にある私立の保育園に通い始めてやっと静かになると思ったら、真穂が生まれた。昼夜を問わず泣き喚くから、勉強どころじゃなくなり、このクソ田舎には予備校なんて気の利いたものがなかったから、教科書改訂の後は完全に受験勉強から取り残されてしまった。
大体、既に跡取りのオレが居るんだから、子供なんか要らねぇのに結婚翌年に産むし、農家で女なんて糞の役にも立たないのに雌ガキ産むし、あの後妻はホントにどうしようもない糞ビッチだ。子供が生まれたら、それだけ財産の分け前が増えるとでも思ったんだろう。しかも、自分のガキがまだ小学生の時に育児放棄して、片道に最低三日は掛かる離島に逃げ帰りやがった。
あの女は責任って言葉の意味すら知らないクズだ。これだから、財産目当てのビッチはダメなんだ。
長男の勉強の邪魔をした件について、一言の詫びもない。クソ田舎の離島住民には、日之本帝国本土の常識ってもんがわからんのかも知れんが。頭の中に脳味噌の代わりに魚醤でも詰まってんじゃねぇのか。
財産目当ての糞ビッチとそのガキ共の事を思い出して、胸糞が悪くなった。
髭でも剃ったら、少しは気分が良くなるかも知れない。
洗面台に山程あったシェービングクリームや整髪料は、一本も見当たらなかった。
洗面台の引き出しを開けると、中はすかすかだった。
物は入っているが、ぎっしりではなく、隙間が空いている。
T字カミソリはすぐに見つかった。その隣に散髪用の梳き鋏が並んで入っている。
髭が長過ぎる。いきなりカミソリは無理だ。
そう判断し、まずは梳き鋏を手にとり、ゴミ箱の前にしゃがんで髭を切った。梳き鋏では一気に切れず、イライラしたが、何とか肌から数ミリの長さに切り揃えられた。
左の蛇口でぬるま湯を出し、石鹸をしっかり泡立てて顎にこすりつける。
泡は濁ってしぼみ、トレーナーに灰色の滴がぼたぼた垂れた。
この石鹸、古いんじゃねーのか?
石鹸に消費期限があるかどうかよく知らないが、流石に古過ぎるのはダメだろう。一体、いつの在庫を引っ張り出して来たんだ?
……誰が?
誰が片付けて、チリひとつない状態に磨き上げて、石鹸を出して来たんだ?
今、この家にはオレ一人なのに?
背筋に鳥肌が立ったのは、洗面所の寒さのせいばかりではない。
蛇口を閉めて耳を澄ます。
外の風の音と雨戸がきしむ音が邪魔で、家の中の音はわからなかった。
そもそもこの家は大きく、部屋数も多い為、人が隠れられる所は幾らでもある。
暫く固まっていたが、気を取り直して再びぬるま湯を出し、石鹸を泡立てる。今度は先程よりも泡立ちが良くなった。
T字カミソリでそっと顎を撫でる。泡と一緒に髭が消え、青々とした剃り跡が現れた。
数年振りの髭剃りだったが、何とか肌を傷つける事なく終え、残った泡を濯ぐついでに顔も洗った。
手で顎を撫でるとスベスベになっていた。
カミソリを石鹸の横に置き、洗面台の取っ手に掛けられたタオルで顔を拭く。
タオルはふわふわで、暖かい日溜まりの匂いがした。顔を拭きながら深呼吸する。
……こんなタオル、家にあったっけ?
そう言えば、トイレのタオルも、ふわふわになっていた。
前回のタオルは雑巾のような色合いで、ゴワゴワで穴があき、あまり水を吸わない代物だった。皮脂か何かが染み付き過ぎて、水を弾いていたんじゃないかと思われる。
本格的に体が冷えてきた。部屋に引き揚げよう。