■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-50.戦う意志を(2016年04月10日UP)
「ムグラーッ!」
ワレンティナが悲痛な叫びを上げる。
盾の展開が間に合わない。角を振り立て、雄牛が突き上げた。躱し切れず、脇腹が抉られる。騎士の身体を引っ掛け、雄牛が首を大きく横に振った。長身のムグラーが、軽々と跳ね飛ばされる。
「あぁッ!」
ムグラーが背中から地に叩きつけられ、激しく咳込む。
ナイヴィスは、自分が攻撃を受けたような衝撃を覚えた。勿論、ナイヴィスの身体は無事だ。自分もムグラーに駆け寄り、助け起こしたいが、足が竦んで動けない。
雄牛は草地を駆け、木立の手前で大きく泉を回り込んだ。今度は、小柄なワレンティナに突きかかる。
「霹靂の天に織りたる雷は、魔縁絡めて魔魅捕る網ぞ」
ワレンティナは呪文を唱え、横へ跳び退きながら、剣を横に薙いだ。稲妻のように輝く網が広がる。
魔獣は頭から【紫電の網】の中心に突っ込んだ。網が魔獣の上体を包み、収縮する。緑の雄牛は激しく身を捩り、苦痛に吠えた。もがけばもがく程、上半身が網目状に切り刻まれ、青黒い血を迸らせる。
ワレンティナは、魔獣の動きを目で追いながら、木立の間を移動した。
〈あなたは、どうしたいの? 攻撃? 防禦?〉
「たっ……たすっ……」
全身が震え、言葉にならない。
ワレンティナが雄牛の背後に回り込んだ。苦痛に跳ねる雄牛へ、再び【紫電の網】を投げる。輝く網が右腿に食い込み、巨体が倒れる。
……ムグラーを……助けたいのに……ッ!
焦燥感に胸が締め付けられるが、身体は恐怖に囚われ、動かない。
ムグラーが脇腹を押え、片膝をついた。剣を支えに立ち上がろうとする。鎧の【防護】でも防ぎきれず、出血が酷い。
「う……う、後ろーッ!」
ワレンティナとムグラーが、同時に振り向く。
濃紺の長い魔獣が、立ち上がろうとするムグラーの背後に迫っていた。ムグラーは横へ倒れ、その一撃を紙一重で躱した。そのまま地を転がり、距離を取る。
魔獣は地面で強か鼻面を打ち、その勢いで牙が数本折れ、跳ね上がった。
ナイヴィスは、自分の大声に驚いた。
生まれてこの方、腹の底からこんなに叫んだのは、初めてだ。
〈はい、大変よくできました。で、あなたはどうしたい? 攻撃? 防禦?〉
「なっ、何でもいいので、ムグラーを、助けたいです」
木の幹を背に震えながらも、今度は言えた。
〈そう。じゃ、攻撃ッ!〉
命令と同時に「攻撃」を選択した理由が、幾つも同時に提示される。
簡易結界は突破された。
ナイヴィスに使える【不可視の盾】は、不慣れな上に使い捨て。
身を守る手段は、鎧の各種防護魔法のみ。それも突破された。
ナイヴィスは、まだ【壁】を建てられない。
まだ、攻撃の呪符も使いこなせない。
魔獣はどちらも手負い。魔力を持つ人間を喰らい、傷を癒したがっている。
負傷したムグラーは、恰好の標的。
まず、緑の雄牛にトドメを刺す。
繋がった心が、大量の情報と、言葉にならない思いを、瞬時に伝えあう。
〈さあ、あのコの所へ走りなさいッ!〉
真名への命令ではない。ただ一言の命令が、ナイヴィスを突き動かした。
右手で柄をしっかり握り直す。女騎士の見えない手が、強く握り返した。
雄牛が、【紫電の網】に締めあげられたまま、力任せに立ち上がる。隆起した筋肉に【網】が食い込む。血で地面を青黒く染めながら、鼻息荒く足を踏ん張る。
雄牛はワレンティナに狙いを定め、角を赤熱させた。
従妹もムグラーに倣って【不可視の盾】を展開する。
〈従妹ちゃんが引きつけてくれてる間に、一気に叩くのよ!〉
「はいッ!」
脳裡に次の動作を示され、ナイヴィスは力強く応えた。
魔剣となった女騎士の手と、魔剣使いナイヴィスの手が、ひとつに重なる。
ナイヴィスの腕が、流麗な軌跡を描き、雄牛の横腹を紙のように切り裂いた。魔剣が、異界から迷い出て実体を得た魔物の「存在の本質」を断つ。
肉を断つ手応えはなかった。緑色の厚い皮膚、隆々と盛り上がり固い筈の筋肉の塊、臓物、骨すらも、何の抵抗もなく両断された。
存在の核を破壊され、魔獣のこの世での肉体が崩壊する。
一滴の血も流れず、次の瞬間には灰となり、さらさらと風に散った。
あまりのあっけなさに、ナイヴィスは呆然と立ち尽くす。
〈存在の核を壊したから、この世の肉体も、元居た世界の体も、消滅したのよ〉
……えっ、じゃあ、あの牛はどうなったんです?
〈あれは三界の魔物じゃなくて、ちゃんと魂があるから、ふたつの世界で同時に死んだだけよ〉
女騎士が、ナイヴィスの脳裡に「世界」と「存在」の模式図を示す。
物質界は所謂「この世」、冥界は俗に言う「あの世」。その間を繋ぐ幽界。
存在は、その核によってひとまとめにされている。魂と幽体、肉体が「存在の核」で串刺しにされて繋がっている。
肉体から串が抜ければ、物質界での死。
真っ当な生物は、幽界を経て冥界へ赴く。
魔物は、元居た幽界へ戻る。
魔法や魔剣など魔法の武器で倒すと、魔物も死に、冥界へ送られる。
三界の魔物は、その串を自らの意思で自在に抜き差しし、三つの世界を自由に行き来する。
核の移動で存在の位相をずらし、別の世界に身を隠す。監視の目を逃れ、秘かに獲物を捕食するのだ。
魂がない為、肉体や幽体を破壊しても、すぐに再生する。退魔の魂で「存在の核」を破壊しない限り、消滅せず、一時凌ぎにしかならない。
〈普通の魔物や魔獣なら、この世の肉体を壊すだけでも無害化できるから、安心して〉
知っているつもりで、知らなかったことを一気に教えられ、頭が痛くなった。
騎士となった今、退魔の魂の使い手となった今、それらと戦わなければならないのだ。
トルストローグが、濃紺の魔獣の腹の下に潜り、剣で突き上げた。そのまま、尾に向けて振りぬき、腹を裂く。流れ出る血と苦痛にうねる胴を避け、横腹を斬る。
濃紺の魔獣は、その身の長大さ故に動きが鈍い。
頭部に近い部分だけは素早く動くが、樹木に巻き付く胴は攻撃の手段も持たず、隙だらけだった。
隊長が頭部を引き付け、【光の槍】で貫く。
ワレンティナも森へ入り、【刃の網】で魔獣の胴を絡め取って刻んだ。
倒れたままのムグラーが低く呻く。ナイヴィスは我に返り、駆け寄った。