■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-46.新しい家族(2016年04月10日UP)
森の土は思いの外、やわらかかった。火を焚いたからか、虫も居ない。
空の明るさと不安で眠れないと思っていたが、そうでもなかった。慣れない森林内の移動と草刈りで、すっかり疲れていたようだ。いつの間にか意識を手放していた。
「お兄ちゃん、交代よ」
ワレンティナの声に起こされた。
日が傾き、影は伸びているが、まだ夕方ではない。二、三時間は眠っただろうか。二交代で、最初の休みは隊長、ムグラー、ナイヴィスだった。
ワレンティナは髪が汚れるのも気にせず、ナイヴィスが寝ていた跡に横たわった。
泉で洗えば済むとは言え、ナイヴィスは従妹の豪快さを年頃の少女として如何なものか、と心配になった。
〈あなたは大人の男性として心配だわぁ〉
ムッとしたが、ナイヴィスには反論できない。
幼い頃は、外に出ることすらできなかった。
出られるようになってからも、他人が恐ろしく、親の影に隠れてやり過ごした。
身内はナイヴィスの事情を知っているので、ナイヴィスも安心して接することができた。
他人と話ができるようになったのは、ナイヴィスが十八歳の頃だ。
長兄の結婚が決まった。
兄嫁予定の女性が、その両親と共に挨拶をしに来た。
兄と婚約者はずっと外で会っていて、この日が家族との初顔合わせだ。
家族として当然、ナイヴィス……三男のサフィール・ジュバルも同席させられた。
サフィール・ジュバルは自宅で、他所の大人と会うのは初めてだった。しかも、一度に三人も。これまで、家は家族だけの、絶対に安全な場所の筈だった。
祖父母と両親と兄姉も一緒だったが、掌にイヤな汗が滲んだ。
三人とも温厚で、小春日和の中庭のような人物だった。
長兄から事情を聞いていたのだろう。無口な三男に何かと気を遣ってくれた。
それでも、家に居る「他所の大人」が怖かった。
終始、俯いたまま、一言も言葉を交わすことなく、結婚挨拶の食事会を終えた。
その後、婚礼と新生活の準備で、婚約者母娘が度々、雪晶家を訪れるようになった。
サフィール・ジュバルは、訪問予定日を自室に引きこもって、やり過ごした。
「兄貴の嫁、優しそうな人じゃないか。そんな怖がってやるなよ」
見兼ねた次兄に窘められたが、それでも、怖いものは怖い。
サフィール・ジュバルが答えずに俯いていると、次兄は真剣に首を傾げた。
「なぁ、ジュバル。お前、おっさんが怖いんじゃなかったのか? 兄貴の嫁、女だぞ?」
そう言われてやっと、顔を上げた。
今まで一度も、兄嫁をしっかり見ようともしていなかった。
ただ、知らない大人が家に居ることが、怖かった。
何故、他所の大人が怖いのか。全く考えてみたこともない。
自分では、単に人見知りが激しい性格なのだと思っていた。
サフィール・ジュバル自身は知らなかったが、家族は「思い出させて、また怖い思いをすると、可哀想だから」と、例の事件について話すことはなかった。
「兄貴の嫁、優しそうな人じゃないか。何がそんなに怖いんだ?」
「……わかんない」
「うん……まぁ、そうか……わかんないのか……」
次兄は弟の返事に曖昧な顔で言った。
「でも、これからは、あの人と兄貴は真名を教えあって、家族になるんだ。それなら、怖くないだろ?」
末弟のサフィール・ジュバルは、次兄の言い分を尤もだと思い、次の訪問日には、中庭で過ごした。
天気が良く、風が心地よい日だった。
降り注ぐ初夏の陽光に、アーモンドが若葉を輝かせていた。
サフィール・ジュバルは風を読み、天の様子をじっくり観察した。今日も一日、晴天になる。
アーモンドの梢で、風の精が戯れていた。
ふと視線を感じ、気配の方を見る。
中庭へ出る戸口に、長兄と婚約者が立っていた。
婚約者がやわらかな微笑を浮かべ、会釈する。サフィール・ジュバルも、小さく会釈を返した。
長兄と婚約者の顔が、花開いたかのように明るくなった。
サフィール・ジュバルは、さっきのは作り笑いだったのか、と少し落ち込んだが、まぁそんなものだろう、とすぐに気を取り直した。
「何してるんだ?」
「天気を見てるよ」
兄の問いに即答する。
「あいつは【飛翔する燕】だから、天気のことはなんでもわかるんだ」
「まぁ、すごい」
兄の説明に、婚約者が感心する。
「今日の天気は何だ?」
「一日中晴れ。夜は少し冷えるよ」
「そうか。じゃ、あったかくして寝なきゃな」
「教えてくれて、ありがとう」
「……うん」
サフィール・ジュバルは、何とか小さな声で答え、二人には聞こえないかもしれないと思い、頷いた。
「じゃあ、また……」
二人は中庭へは降りず、そのまま家の奥へ戻った。
足音が遠ざかり、サフィール・ジュバルはホッした。
動悸が治まると、何がそんなに怖かったのか、わからなくなった。
次の訪問では、廊下で会った兄嫁の母に「こんにちは」と挨拶された。
声は緊張で掠れて震えたが、辛うじて「こんにちは」と返すことができた。
当たり前のことだが、サフィール・ジュバルにとって、大きな勇気を要する一言だった。
兄嫁の母は、驚いた顔で、時が止まったように娘の義弟を見詰めた。
それはほんの束の間のことで、すぐに顔を綻ばせ、「お邪魔してますよ」と会釈して通り過ぎた。
その後、兄嫁やその家族と会うたびに、交わせる言葉が少しずつ増えた。
近所の人とも、声に出して挨拶できるようになり、話せる相手が増え、ナイヴィスの世界は広がった。
その一人に、官吏登用試験を勧められたのだ。ナイヴィスは官吏を目指すことも、どの試験を受けるかも、自分の意思で決めた。
人間にはなんとか慣れることができたが、まだ、虫は怖い。
魔剣使いナイヴィスの記憶を読み、魔剣となった女騎士は、小さく溜め息をついた。
ナイヴィスには、自分の何を見られたのか、知ることができない。それどころか、見られたこと自体がわからない。
〈まぁ、気長に慣らして行きましょ〉