■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-33.幼いあの日(2016年04月10日UP)

 薄青い空に蝶が舞っている。
 石畳の道に沿って、ひらひら、ひらひら。
 黄色い蝶は、丁度ナイヴィスの目の高さを飛んでいた。
 ナイヴィスは蝶を追いかけた。

 どこかの庭で花が咲いているのだろう。
 王都の家々には前庭がない。
 中庭を囲んで□型に建っているので、外からでは何の花があるのかわからない。
 黄色い蝶は、誘うようにゆっくり、ひらひら、ひらひら。
 石畳の大通りから、家と家の間を通る細い道に入った。
 ナイヴィスは夢中で追いかける。
 人通りのない道をしばらく飛んで、蝶は高く舞いあがった。家の屋根を越え、中庭へ舞い降りる。

 知らない道だ。蝶を追って、随分、遠くへ来ていた。
 急に日が翳り、心細くなる。
 誰も居ない細道を戻る。
 人にぶつかって転ぶ。
 「坊や、大丈夫かい?」
 大人は、大きい。
 顔はずっと上。声が高い所から降って来る。
 立ち上がっても、届かない。
 小さい自分が可笑しくて、ナイヴィスは笑いだした。

 くすくす笑いながら、大通りへ向かう。
 歩いても歩いても広い道に出られない。
 家と家の隙間には、落ち葉や埃が溜まっている。雑妖が漂い、何か話し掛けて来る。

 こわい。

 気が付くと、ナイヴィスは一人だった。ぶつかった大人も居ない。
 日の射さない隙間は、猫の子一匹通らない。鼠が居るような居ないような、よくわからない気配。怖くて振り向けない。

 「坊や、かわいいねぇ」
 知らない大人の声で顔を上げる。
 そのおじさんは、胸から上は、普通のおじさんだった。その下は薄っぺらで、ひらひら風にそよいでいる。
 狭い道いっぱいに、肉色のひらひらが広がって、通れない。
 「坊や、迷子なんだ。かわいいねぇ」
 おじさんはニヤニヤ笑いながら、ナイヴィスに手を伸ばす。指が大きくなり、捻じれながら迫る。巨大な爪には、垢が真っ黒に詰まっている。
 「いやぁああぁあぁあッ!」
 叫びと同時に目の前が真っ白になる。
 目を開けているのか閉じているのか。
 何もわからない。

 真っ白だ。

 誰かが、遠くで、何かを言っている。

 まりょくのぼうはつ
 ちからがつよすぎる
 さんかいのまものが
 このこはきけんなこ
 いちぞくでいちばん
 まりょくがつよいこ
 さふぁいあのひかり

 「サフィール・ジュバル」
 女性の声が真名を呼ぶ。母ではない。
 「サフィール・ジュバル」
 姉ではない声が、真名を呼ぶ。
 「サフィール・ジュバル・カランテ・ディスコロール。しっかりなさい」
 知っている声だ。でも、顔はわからない。会ったことのない女の人。

 しらないひとだ。
 しらないひとに、おへんじしちゃいけないって、とうさんが……

 「バカね、何言ってんの。よく知ってるでしょ? 私を忘れたの?」
 呆れた声で言われ、恥ずかしくなって、俯く。
 小さな足、子供の足。細くて白くて頼りない。
 こんなに弱いのに、誰かを守るなんてできっこない。
 自分を支えるだけで精一杯。魔剣使いなんて、無理に決まってる。
 だって、怖くて、心細くて、自分の魔力も制御できないのに。
 あのおじさんも雑妖も、みんな居なくなって、真っ白なのに。

 だれかたすけて。

 「あのおじさんはね、人間じゃなかったの。あなたは何も悪くないのよ」
 女の人の声が優しく言って、ナイヴィスの頭を撫でた。
 左隣に女騎士がしゃがんでいる。
 生成りの厚い生地に青色の糸で、防禦の呪文がびっしり刺繍された服……騎士の鎧。
 目の高さをナイヴィスに合わせる。女騎士の目は、強い意志の光が輝いていた。

 つよいけど、こわくない。

 「あれは、三界の魔物。過度の欲望に呑まれて、歪んだ心。歪んだ心が穢れを生んで、その膿んだ魂が、三界の魔物の瘴気に触れた……成れの果」
 ムルティフローラ城の地下深くから、滲み出す瘴気。三界の眼でなければ視えない。三界の魔物の出す魂の毒。
 毎年、大晦日に国を挙げて穢れを祓う。瘴気のかけらから、新たな三界の魔物を生まないように……

 しってる。

 何もない真っ白な空間に、ナイヴィスと女騎士が居る。
 その前に細切れに千切れ飛んだ肉片が散らばっていた。
 肉片は、それぞれが別個の意志を持つように、好き勝手に蠢いている。
 「思い出してご覧なさい。今のあなたなら、大丈夫よ」

 おもいだす?

 「小さい頃、一人で遊びに行って、人気のない道で、三界の魔物に出遭った。人から化したばかりの個体。あなたを襲った魔物は、あなたの魔力で、肉体と幽体を吹き飛ばされたの」

 ちがうよ。それ、ぼくじゃないよ。

 「あなたは何も悪くない。人殺しなんかじゃないのよ。ご覧なさい」
 女騎士が、ナイヴィスの肩に手を置き、もう一方の手で、前を指差す。
 ナイヴィスは首を横に振り、ぎゅっと目をつぶった。

 ちがう。ぼくじゃない。やってないもん。

 「思い出してご覧なさい。あなたは王都のみんなを助けたのよ」
  ぼく、おおきくなっても、きしになんて、ならないもん。
 「今のあなたは、もう大人で【飛翔する燕】の術者よ」
 やっぱり、ぼく、きしじゃないんだよね。

 喜んで顔を上げる。
 女騎士の目は厳しかった。
 「あなたは、その強い魔力を活かして、天候を操る学派を修めたの。自然の息吹を感じて、心を静かに落ち着けて、ちゃんと魔力を制御できるようになったの」
 ほんと?
 「ホントよ。ほら、ちゃんと【飛翔する燕】の徽を持ってるでしょ?」
 ナイヴィスの胸元で、銀の首飾りが、確かな重みで存在を示している。手を触れると、ひんやりとして固い。
 「ねっ? ホントだったでしょ?」
 うん。
 小さく頷く。女騎士が頷き返す。
 「そして同時に、退魔の魂を振るう魔剣使いでもあるの」

 やだ。ぼく、けんなんてつかわないもん。

 「怖いの?」
 こわいよ。

 断言して女騎士を見る。何を当たり前のことを聞くのかと首を傾げた。
 「どうして怖いの?」
 女騎士が優しい声音で聞く。他に誰も居ない。

 だって、ちがいっぱいでたもん……

 「あれはもう人間じゃないから、流れてるのは血じゃないのよ。見てご覧なさい」

 やだ。

 横を向き、目を閉じる。
 「怖いと思うのは、結果をちゃんと見届けないからよ」

 だって、こわいもん。やだもん……

 小さな拳が震える。
 問いと答えが堂々巡りする。
 女騎士は辛抱強く、幼いナイヴィスに言い聞かせる。
 「でも、騎士の私が居るから、今は怖くないでしょ?」
 暫しの沈黙。
 小さなナイヴィスは、目を逸らしたまま、幽かに頷いた。その目から、涙が零れ落ちる。
 「あぁ、よしよし、そんなに怖かったの」
 女騎士が、ふわりと抱きしめる。
 幼いナイヴィスは、声を上げて泣いた。
 「怖かったのね。もう大丈夫、大丈夫よ、もう怖くないのよ」
 よしよし、と女騎士がナイヴィスの小さな背を軽く叩いてあやす。
 ナイヴィスはその腕の中で、恥も外聞もなく、感情のまま泣いた。
 涙を堪えることを思いつきもしない。

 どのくらい泣いたのか。
 ふと、涙の理由がわからないことに気付いた。
 女騎士にしがみつき、しゃくりあげながら、考える。
 どうしてこんなに泣いたのか。
 どこか痛かったろうか。……違う。
 何か悲しかったろうか。……違う。
 誰かに叱られたろうか。……それも、違う気がする。
 ここには、自分と女騎士しか居ない。誰も怒っていない。

 幼子の頭をやさしく撫でながら、女騎士が言う。
 「もう大丈夫よ。私がついてるから」

 ほんと? ほんとに?

 「本当よ。私は、退魔の魂。生きた人間や、真っ当な生き物は斬れないのよ」
 女騎士は、ナイヴィスの両肩に手を置き、そっとその身を離す。
 「きちんと向き合ってご覧なさい。あなたの破壊の結末を」
 ナイヴィスの右手を握り、立ち上がった。そのまま前を見る。

 ナイヴィスの前、何もない筈の空間が、王都のあの細道に変わる。
 両脇の家は、【巣懸(すか)ける懸巣(カケス)】学派の【防護】の術で守られ、無事だった。
 細い石畳の道に、肉片が散らばっている。よく見ると、壁にも貼りついているが、血は一滴も流れていない。
 飛び散った肉片は、それぞれが意志を持つ生物のように動いている。
 「あれを放っておくとどうなるか、わかる?」

 えーっと……けがれやしょうきをたべて、ひともたべて、いぬもねこも、すずめもちょうちょも、おはなも、みんなたべられて……

 「そうよ。ちゃんと知ってるのね。偉いわ。あれは、何?」

 三界の魔物。

 ナイヴィスの脳裡に、魔剣ポリリーザ・リンデニーから与えられた知識が、鮮明に展開された。
 あの日以来、何度も繰り返し受けた説明が、分厚い本のページをめくるように繰り返される。

 並行して、カボチャ泥棒の判決文も見えた。
 カボチャを盗んだ老人は、終身刑と決定した。
 強制労働はないが、一生を終えるまで特別房で魔力を奪われる。吸収した魔力は、水晶やサファイアに蓄積され、結界の維持など、正しい目的に使われる。

 判決文には、簡潔に理由を記してあった。
 老人は秘かに【深淵の雲雀】学派の情報を集めていた。
 今では禁じられた魔法生物の製法を編み出した学派だ。

 その魔道書は、各地で焚書され、【深淵の雲雀】の術は、細々と口伝されるようになった。
 時折、遺跡などから生成直後で休眠状態の魔法生物が、発見されることがある。
 現存する魔法生物の使用は、禁忌を守って創られた固体に限り、禁じられていない。

 数千年前に生みだされた一体の軍用魔法生物。
 人の手を離れ、際限なく増殖、成長した暴走の結果が、三界の魔物だった。
 三界の魔物による大破壊で、鯨大洋を隔てたもうひとつの大陸アルトン・ガザでは、魔力が失われたと言う。

 千年に亘る戦いの末、増殖した三界の魔物を倒し、最後の一体をこのムルティフローラの地に封じた。
 封印の年を「封印歴紀元元年」として、新たな時代が始まった。
 最強最大の「最初の一体」は、存在の核があまりにも巨大で、そのままでは倒せない。やむを得ず封印し、肉体と幽体の再生を止めた。二千年以上経た現在も、少しずつ核を削って消滅させている。
 休眠状態でも、瘴気を撒き散らす。厄介な存在だ。

 魔法生物は、三界の魔物となり得る能力の付与を禁じた上で、細々と製法が伝えられていた。
 新しい時代になってからも、【深淵の雲雀】の伝承者は、各地で迫害を受けていた。
 その数は次第に減り、五百年程前に、最後の伝承者の一族が絶えたと言う噂だった。

 老人はムルティフローラなど、湖北地方を中心として、ラキュス湖周辺の各国を巡り、僅かな伝承を掻き集め、製法を復元させていた。

 現存する魔法生物を使っていいなら、無害なものを新しく創り出すことも、許されるべきだ、と言うのが、老人の主張だった。

 多くの人は、三界の魔物の恐ろしさを知っている。
 何をしているか、人に知られる度に、工房を引越した。
 正直に理由を説明して、素材を譲ってもらえるとも思えない。
 未熟な実では、食用と偽ることも出来ない。だから、魔獣に盗ませた。
 老人に戦う力はなく、騎士に逆らう気力もなかった。

 「悲劇と惨禍を繰り返さぬ為に、二度と創ってはならないのよ」

 完全に禁じると、逆に地下へ潜って伝えられてしまう。その為、時の権力者たちは、自然に忘れ去られるよう、緩やかな規制に留めたのだった。
 失われた現在は、世界各国で全面的に禁じられている。

 〈サフィール・ジュバル・カランテ・ディスコロール〉
 「はい」
 大人の声で応じる。ナイヴィスも、騎士の鎧を纏っていた。

 〈強い魔力のサファイアの光(サフィール・ジュバル)。あなたと私で、三界の魔物を倒すの〉

 ナイヴィスは右手に力を籠めた。
 隣に女騎士ポリリーザ・リンデニーの姿はなく、その手には輝く刃の魔剣が握られていた。
 先程と同じ、右手を握られた感覚のまま、剣を振るう。
 刃が触れた瞬間、道を塞ぐ肉塊が消えた。

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