■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-25.成人の儀式(2016年04月10日UP)

 七月の空は青く、白い雲が南の山脈の彼方を流れて行く。
 麦刈を終えた畑で、鳩や雀、ナイヴィスが初めて目にする色とりどり野鳥が、落ち穂をついばむ。
 なだらかな丘陵地に、柵で区切られた畑と牧草地が、交互に並んでいる。収穫を待つ野菜畑の東には、森が静かに佇んでいた。
 丘の西では大河ベルーハの支流が、豊かな水量を湛えて滔々と流れ、地を潤している。

 ナイヴィスは、【白銀の網】の中で雑妖が消えるのを見届け、北に目を遣った。
 農村が、影絵のように小さく見える。
 その遥か北に、国土を囲む山脈の主峰ヒルトゥラ山が聳えていた。

 〈あら、あなた、成人の儀に行ってないのね〉

 女騎士ポリリーザ・リンデニーの声が驚いている。
 ムルティフローラ王国では、多くの若者が主峰ヒルトゥラ山の祭壇で、成人の儀を行う。
 年齢や時期は決まっていない。
 自分が一人前になったと思った時、山へ登る。
 祭壇では、騎士ヒルトゥラの魂が待っている。遠い昔、結界の最外周となる山脈を隆起させる為、人柱となった英雄だ。
 主峰の心となった騎士ヒルトゥラは、若者の心に溜まった穢れを祓い、大人としての心構えを説き、新たな一歩を踏み出す勇気を与える。
 全く何の隠し事もできないので、ナイヴィスは正直に答えた。

 ……山は、魔物がいっぱい居るんですよね? 遠いですし、その、道中も……野宿なんて、イヤですから。
 〈まぁ、別に絶対、行かなきゃいけないものではないし、実際、山で亡くなる子も居るけど……〉
 ……そうでしょう。

 女騎士ポリリーザ・リンデニーの言う通り、成人の儀は義務ではない。
 自分の家系に伝わる成人の儀式だけで済ます者も居る。主峰での儀式は、一種の度胸試しのようなものなのだ。

 〈でも、大抵の男の子は行ってるから、驚いたわ〉

 ……騎士団の人たちと一緒にしないで下さいよ。戦う力もないのに、魔物がうようよ居る山なんて、登りたくありませんよ。
 ナイヴィスは騎士になるまで、王都の外へ出たことすらなかった。

 つい先月、六月に行われた野営訓練で、初めて、城壁の外へ出た。
 王都から石畳の街道が、結界の最外周である山脈まで続いている。
 街道の両脇には、見渡す限り畑が広がり、緩やかな丘陵地に点在する町や村が、遠くに霞んで見えた。
 初めて目にした森は、どのくらい離れているのか見当もつかない遠くで、黒々と蹲っている。
 黄金色に実った麦が、初夏の風に揺れる。
 柵の下に白詰草が生え、緑の帯が麦畑を縁取っていた。その白い花の上を、蜜蜂が忙しなく飛び交っている。
 ナイヴィスが柵から身を離すと、隊長が笑った。
 「蜜蜂が怖いか?」
 「……はい。刺されたら痛そうなので」
 「この鎧なら、蜜蜂程度の針なら完全に防げる。無闇に恐れるな」

 あの日の気マズさと気恥ずかしさを思い出し、ナイヴィスはヒルトゥラ山から目を逸らした。

 ナイヴィスは、茂みや岩陰で雑妖を祓うことには、幾分か慣れてきた。
 牧草地脇の木陰で、携行食を摂りながら、隊長が今後の予定を説明する。
 「今朝も言ったが、王女殿下は夕刻には結界を完成させ、村で休まれる。十五日間はここに滞在なさり、結界を補強される」
 隊長はそこで言葉を切って隊員を見回した。

 小枝で地面に近辺の簡略図を描き、続ける。
 「我々も同じ期間、ここに留まり、結界内に元々居たモノを倒す。結界の補強が終われば、中の雑妖は一掃される。実際やってみてどうだ? 質問はないか?」
 ナイヴィスは少し考え、小さく挙手した。
 「お、ナイヴィスか。何だ? 言ってみろ」
 「あの、たった十五日で、こんな広い範囲を全部、できるんでしょうか?」
 「そんなもん、無理だ」
 「えっ?」
 あっさり断言され、隊員の声がひとつになった。

 隊長は、若い騎士達に微笑んで言った。
 「作業は四日続けて五日目は休む。最終日は撤収。実働は十二日間だ。そもそも、全て排除するのは不可能だ。こうしている間にも、新たな雑妖が発生している。だが、少しでも減らせば、それだけ村人は安全になる」

 〈完璧にできないなら、何もしないんじゃなくて、少しでも、出来る限りのことをすれば、その分、確実に状態は良くなるのよ〉

 ナイヴィスは、隊長と魔剣の説明に頷いた。
 ……ホントに、普通の掃除と同じなんだ。毎日、ゴミも埃も出るし、完璧にキレイになんて、できっこない。だからって、掃除しなかったら……
 暗い想像に身震いした。
 一番よくないのは、完璧を目指したが故に何もできなくなることだ。穢れや問題を放置すれば、後々大きくなり、本当に手に負えなくなってしまう。面倒でも、禍の芽が小さい内に摘み取る方が、結果的に少ない労力で済み、楽なのだ。

 「できる者が、できる時に、できるだけのことをする。何でもそうだ」
 「できる癖に他人に押し付けるような奴は、イザと言う時、真っ先に見捨てられるんだ」
 隊長の言葉を受け、トルストローグが遠くを見て言った。星座の雪羊を称する騎士の視線の先で、本物の羊が、のんびり草を食んでいる。
 騎士になる前の仕事で何があったのか、詳しく聞きたいような、でも、聞いてはいけないような、怖い気がして、ナイヴィスは黙っていた。
 魔剣ポリリーザ・リンデニーが、ナイヴィスの脳裡でわざとらしく溜息を吐いてみせた。
 「じゃあ、早く次の場所へ行って、雑妖とか倒しましょうよ」
 ワレンティナが勢いよく立ち上がる。隊長は苦笑し、手振りで座るように促して言った。
 「急いては事を仕損じるとも言う。休むべき時には休み、動くときには動く。そういうことも大事だ」
 最年少の新米騎士は、恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。ナイヴィス越しに見ていた魔剣が、つられて笑う。
 〈あなたと従妹ちゃんを足して二で割れればいいんだけどねぇ〉
 ……無茶言わないで下さいよ。
 ナイヴィスは眉間に皺を寄せ、地面を見詰めた。

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