■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-44.森の虫たち(2016年04月10日UP)
「お兄ちゃん、遅れると危ないよ」
気が付くと、ナイヴィスは十歩ばかり離れていた。
ワレンティナとトルストローグが立ち止まって待っている。
ソール隊長とムグラーが、村人から借りた草刈り鎌で、生い茂った草や蔓を伐り払い、道を作る。
「まぁ、長い間、人が立ち入ってないから、道も消えてるし、歩き難いからゆっくり行こう」
トルストローグに、急いでも大した意味はない、と言われたが、ナイヴィスは早く追いつきたくて走った。
慌てたせいで、蔓草に足を取られ、転倒する。
〈たった今、言われたばっかりなのに……〉
魔剣が呆れる。
ここ数日は晴天が続いていたが、森の落ち葉はしっとり湿っていた。
眼の前で、足の多い灰色の虫が何匹も走り去る。
ナイヴィスは息を呑んだ。全身が硬直する。悲鳴を上げることすらできず、額に脂汗が滲む。
幸い、今回は両手が空いていたので、手をついて、カボチャ畑でのような顔面強打は免れた。
魔剣となった女騎士が、半笑いの思念を送る。
〈あなた、それ好きよねぇ。畑でもやったじゃない〉
……別に、好きじゃありませんよ。
魔剣使いは、頭の中でぶつくさ言いながら、立ち上がった。虫たちが落ち葉の下へ退避し、ナイヴィスの行く手から姿を消す。
虫への恐怖で硬直したナイヴィスの体が、魔剣の一言で、動きを取り戻していた。
魔剣ポリリーザ・リンデニーは、ナイヴィスに気取られないよう、こっそり笑った。
今度は足元を見ながら、大股に歩いて追い付いた。
「ムグラーが、この辺にはヤバそうなのは居ないって言ってるから、落ち着いて行こう」
トルストローグが、ナイヴィスの肩を叩いて励ます。ナイヴィスは無言で頷き、辺りを見回した。
蝉の声は煩いくらいだが、どこで鳴いているのか、姿は見えない。
大きなトンボが、森の奥へ向かって飛んでゆく。ナイヴィスは、見たこともない巨大な虫に足が震えたが、辛うじて、遅れずについて行く。
「お、珍しいな。タカヤンマじゃないか」
「タカヤンマ……?」
トルストローグの嬉しそうな声に、ナイヴィスとワレンティナが同時に聞き返した。
「鷹みたいに強くて獰猛だから、タカヤンマ。肉食で、虫だけじゃなくてネズミや小さいトカゲとかも食べるんだ」
ナイヴィスは、タカヤンマが去った方を見て、背筋に冷たい汗が伝った。
〈何、怖がってんの? 大きいだけで、普通の虫よ。毒もないわ〉
……でも、あれ、人間の腕くらいあるんですけど……?
タカヤンマの体は、太さも長さも、成人女性の片腕と同じくらい。頭部は、ギラギラ光る目だけでも、握り拳ふたつ分の大きさ。広げた半透明の翅も含めると、更に大きい。虫でありながら、ネズミやトカゲを捕食する上位消費者。虫は、食物連鎖の下位に属する存在ではなかったろうか。
〈まぁ、指の一本や二本、軽く食い千切っちゃうけど〉
……やっぱり危ない虫じゃありませんかッ!
〈そんな怖がらなくていいじゃない。田舎の男の子が度胸試しに捕まえる程度の虫よ〉
……その子たち、無事なんですか?
〈大抵は無事ね。そもそも、人間くらいの大きい生き物は、アレの獲物じゃないから、捕まえようとしても逃げられることが多いし〉
ナイヴィスが内心ホッとすると、女騎士はニヤリと笑う思考を寄越した。
イヤな予感に耳を塞ぎたくなったが、繋がった心に容赦なく伝えられる。
〈捕まえ方が下手だと、咬まれて指を食い千切られるのよ〉
想像しただけで、膝から力が抜けた。思わず、手近な木の幹に掴まる。
〈あ、そこ、危ない〉
「えっ?」
手をついたすぐ横、ナイヴィスの手すれすれの位置に、派手な色の毛虫がいた。
〈毒毛虫よ。どうしてそんなわかりやすいのの傍に手をつくの?〉
「うわぁあぁッ!」
思わず悲鳴を上げる。何事かと前を行く三人が立ち止まり、後ろのトルストローグが駆け寄る。
慌てて手を引っ込めた。各種防禦魔法の掛かった革手袋に守られ、手は無事だ。
トルストローグはナイヴィスと木の幹を見て、ホッと息をついた。
「あぁ、毒毛虫か。こいつの毛は柔らかいから、普通の手袋でも防げるぞ」
「そ、そうですか……ありがとうございます」
震える声でぎこちなく礼を言い、絶対、木に触るまいと決心を固めて歩きだす。