■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-30.真名の強制(2016年04月10日UP)
〈サフィール・ジュバル・カランテ・ディスコロール! 身体を貸しなさい!〉
有無を言わさず強制され、ナイヴィスの身体が林へ走る。
「お兄ちゃんッ!」
「ナイヴィス! 止まれッ!」
従妹と隊長の声に、女騎士の声が応じる。
「私が本体を引きずり降ろす。援護なさい」
樹冠から残りの指が襲いかかる。軽やかな身のこなしで、巨大な指を避けた。進路を妨げる指を無造作に斬り捨てる。
普段のナイヴィスからは想像もつかない動きだ。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。漂う力、流す者……」
ナイヴィスの口から、凛とした女性の声が発せられ、力ある言葉を紡ぎ出す。
断面から滴る血が泉を穢す。切断された指先は音もなく塵となり、消滅した。
ナイヴィスの身体を乗っ取った女騎士は、次々に繰り出される指の攻撃を躱しながら、早口に呪文を唱えた。
「……分かつ者、清めの力、炎の敵よ。起ち上がり、我が意に依りて、押し流せ」
泉の水が、女騎士の力ある言葉に応え、起ち上がる。
激しく渦巻き、小石や折れた枝を巻き込み、竜巻のように樹冠に刺さった。
女騎士がナイヴィスの目で、林の中央の梢を見上げる。
頭上に広がる枝に、肉色の膜が張っていた。
人間の足と胴が膜状に伸び、根のようなもので枝や幹にしがみついている。
胸から上だけが、いかにも人の良さそうな、小太りの中年男性だ。
手指が肥大化し、別の生物のように捻じれながら、林間を自在に動き回り、魔剣使いを追う。
ナイヴィスを使う女騎士は、それを巧みに躱す。
水の柱が魔物の上半身を捉えた。【霊性の鳩】学派の【操水】だ。普通の生物が相手なら、肺に流し込めば溺水させられるが、三界の魔物はそんなことでは殺傷できない。
三界の魔物は、人間だった頃の名残なのか、溺水を免れようと、首を仰け反らせた。
細く伸びた水流が、幹にへばりつく膜を樹皮ごと引き剥がす。一部が剥がれると、連鎖して水に巻かれて流れた。
ナイヴィスの身体が、魔剣で林の外を示す。
三界の魔物を呑んだ水が、水平に流れた。
「さぁ、トドメはあなたが刺しなさい!」
ナイヴィスの口が女騎士の声で告げ、一文字に引き結ばれる。
「あッ、ちょっと、待って下さいッ!」
次に口を開くと、ナイヴィスの情けない声が飛び出した。
身体の主導権は戻ったが、膝が笑って力が入らない。
水が林の外で力を失い、唐突に落ちた。魔物の胴と足が、だらしなく地面の上に広がる。
上半身を逸らせ、魔物が頭を巡らせた。緑の手袋小隊を順に見る。その顔は、ただの中年男性だ。
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ」
普通に話しかけられ、ワレンティナがたじろぐ。その隙を突き、巨大な指が捻じれながら伸びる。トルストローグの剣が一閃し、それを斬り飛ばした。
隊長とムグラーの【光の槍】が、魔物の頭と上半身を貫く。穴を穿たれた頭が、ワレンティナに向けられた。穴から流れる血は妙に粘つき、糸を引きながら垂れている。
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ」
魔物の口が動き、何事もなかったかのように呟く。切られた指が跳ね、ワレンティナに近付く。
〈何、呆けてんのッ! あれは三界の魔物、普通の剣と魔法じゃ無理なのッ!〉
「えっ、あ、あのっ、そんな……そんなこと、急に言われても……」
ナイヴィスは、泣きたいのを堪えるだけで精一杯。林の中央でへたり込み、動けない。
退魔の魂の魔剣が叱咤する。
〈あれは、私とあなたでないと倒せないの!〉
林の外では、緑の手袋小隊が戦っている。
剣で斬られても、術で撃たれても、三界の魔物は痛痒を感じないのか、平然と同じ言葉を繰り返す。
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ」
その口元は笑みの形に歪んでいた。
斬り離された肉片は、個別の意思があるかのように動いた。涎並に粘つく血飛沫をまき散らし、四人を襲う。
明らかに、主な獲物はワレンティナだ。それを阻む隊長とムグラー、トルストローグを排除しようとしている。
汚い爪が鎧の防護を上回り、騎士の身体を傷付ける。
〈まぁ……いきなり本体は無理でしょうから、細切れになったのを討ちなさい。あれも放っておくと独立して、育つから〉
へたり込むナイヴィスの前で、赤黒い土が盛り上がる。粘つく血が染み込んだ土塊が、意志を持って起き上る。
〈これもそうよ。ほら、早く〉
震える足は、根が張ったように動かない。
ナイヴィスは柄を両手で包み、魔剣を逆手に構えた。先日の雑妖退治を思い出す。
「垂直に、柄をしっかり持って、落とすように突け」
隊長の言葉が脳裡に蘇る。
実体化した刃を、蠢く地面に突き立てる。それを支えに、体重を掛けて立ちあがった。
土だった場所が、生命なき砂となり、さらさらと崩れる。
ナイヴィスはそれを見届けると、林の外へ向かって叫んだ。
「トルストローグ! 来て下さいッ!」
「今、取り込み中だッ!」
跳び付く肉片を斬り伏せ、トルストローグが怒鳴り返す。
ナイヴィスは再び叫んだ。