■飛翔する燕 (ひしょうするつばめ)-48.普通の魔獣(2016年04月10日UP)
各自、簡易結界の中で別の方角を見て、思い思いの姿勢で警戒する。
ガサリ。
一斉に、音の方を見る。木立の間を埋める闇で、双眸が輝いている。
「兎です」
ムグラーの声で、ナイヴィスの膝から力が抜けた。その膝を抱えて座り、顎を乗せて自分の持ち場の方向を見詰める。
何事もないまま、時が過ぎる。
遠くで梟が鳴く声を聞きながら、交代で夕食を摂った。
いつ、魔獣が襲ってくるのか。ナイヴィスは気が気でなく、携行食の味もよくわからない。水で流して、無理矢理、飲み下した。
〈そんな怖がらなくても、大丈夫よ〉
……そうでしょうか?
〈三界の魔物より、ずっと楽よ〉
……どうしてです?
〈三界の魔物は、私たちでないとトドメを刺せないけど、普通の魔物や魔獣なら、他の人でも倒せるもの〉
ナイヴィス一人に重責が掛かるのとは、訳が違う。他の四人は、普通の魔獣が相手なら、実戦の経験を積んでいる。
〈あなただって、ついこの間、農具小屋の魔獣と戦ったばかりでしょ〉
あの時の情けない自分を思い出し、ナイヴィスは小さく溜め息をついた。
……せめて、足を引っ張らないように、自力で結界に逃げるくらいはしよう。
気合いを入れ直し、闇に目を凝らす。
「来ました」
月が高く昇る頃、ムグラーが警戒の声を発した。
「何体だ?」
「二体です」
隊長の問いに剣で方向を示し、短く答える。
「一度に二体も……」
「手間が省けていいじゃない」
〈早く帰れるんだから、頑張りなさい〉
震え上がるナイヴィスに、ワレンティナと魔剣ポリリーザ・リンデニーが同時に言った。
柄に手を触れると、平素よりはっきりと、手を繋ぐ感触があった。いや、手を掴まれたと言うべきか。
間もなく始まる戦闘に、魔剣の戦意が高揚している。反対にナイヴィスの心は、恐怖に萎縮していた。
「ナイヴィス、ムグラー、【白銀の網】で右の奴を抑えろ」
「はいッ!」
ムグラーが素早く歩み寄る。ナイヴィスは震える膝に力を入れ、何とか立ち上がった。
「ナイヴィスさんは、結界の中でじっとしてて下さい。【網】は俺が広げます」
「だっ、大丈夫かい?」
「任せて下さい」
余裕のある笑顔に、ナイヴィスは頷き返し、年下の先輩と声を合わせて、呪文を唱えた。
「白銀の蜘蛛の糸編み網と成し 妖かしを絡める綾に現世の物は掛からじ 魔を捕る網よ」
震えてはいるが、とちることなく、詠唱できた。
ムグラーが、合わせていた掌を離すと【白銀の網】が発動する。すり足でじわじわ、ナイヴィスから距離をとる。
「天地の間隔てる風含む 仮初めの不可視の壁よ、
触れるまで 滾つ真水に姿似て ここに建つ壁」
隊長が【真水の壁】を建て、左の守りを固めた。トルストローグとワレンティナは、抜き身の剣を構え、左右に展開する。
ナイヴィスの目にはまだ、魔獣の姿は見えない。
幽かに、葉擦れの音が聞こえた。
「来た」
ムグラーが、更に【白銀の網】を広げる。【灯】の範囲内に緑の巨体が現れた。
まず、太い二本の角。雄牛に似た頭部。筋肉の盛り上がった肩。太い前脚。蹄は手桶程もある。魔獣が一歩踏み出し、足を上げる。踏まれていた枝が勢いよく跳ね上がり、元に戻った。
〈図体は大きいけど、まだ、少ししか魔力のあるものを食べてないのね。一応、実体はあるけど、スカスカ。体重は軽いみたい〉
魔剣が言うように、巨大な足で踏まれた灌木は、枝がしなるだけで折れていない。
外見は巨体で筋骨隆々だが、やわらかいらしい。木々の隙間をふにゃりとすり抜け、近付いて来る。固体と液体の中間的な動きで、泉の手前まで出てきた。木々の間で立ち止まり、こちらの様子を窺う。荒い息遣いに混じり、涎が滴った。
〈落ち着いて、【網】を消しちゃダメよ〉
「……はい」
声に出して答えた瞬間、魔獣が身を躍らせた。巨体に見合わぬ素早さで、手近のムグラーに襲いかかる。
ムグラーは両手を広げたまま、横へ跳んだ。【網】が更に広がる。
魔獣は、先程までムグラーが立っていた場所、【白銀の網】の中へ飛び込んだ。【網】に掛かっても、巨体の勢いは止まらない。二人は【網】を掴んだまま引っ張られる。体重こそ軽いが、力は強い。踏み留まれなかった。
〈【網】を放して、私を抜きなさい〉
「えっ、で、でも……!」
ムグラーが、魔獣の背後を回り、ナイヴィスに駆け寄る。【網】が一周すると、ムグラーも剣を抜いた。ナイヴィスも慌てて、魔剣を鞘から外す。
魔獣は泉の縁、ギリギリの位置で止まった。首を巡らせ、散開する人間を値踏みする。
「想い磨ぎ 光鋭き槍と成せ」
「夢醒まし 石よ意志持ち 地より出で 頚木逃れて 地より降れ」
魔獣が狙いを定めるより先に、隊長とワレンティナの術が発動した。草刈りをしたばかりの地面から、石の雨が降り注ぎ、土煙が上がる。
泉越しに飛んだ【光の槍】が、魔獣の眉間を貫いた。
「やったか?」
元よりこの世に在る真っ当な生物とは、体の造りが違うらしい。魔獣は苦痛の咆哮を上げるが、倒れはしなかった。乱れた土に青黒い血が流れる。
地を揺るがす咆哮。驚いた鳥が羽音を立て、あちこちから飛び立った。
夜の森がざわめく。
魔獣の姿は雄牛に似ているが、口から覗く鋭い牙は、肉食獣のそれだ。
のっそりと振り向く。【光の槍】を放った隊長ではなく、【白銀の網】を掛けた二人に向き直った。足に【網】が絡みつく。
ムグラーがナイヴィスを背に庇い、緑の巨体と対峙する。
〈三界の魔物じゃないんだから、自力でなんとかなさい〉
「えっ、そんな……ッ!」
「ナイヴィスさん、落ち着いて。【網】で動きは鈍ってます。結界に戻って下さい」
ムグラーが振り向かずに指示する。
ナイヴィスは言われるまで、簡易結界の外へ引きずり出されていたことに気付かなかった。慌てて戻る。