■薄紅の花 04.河口の街-27.水を汲む (2016年01月03日UP)

 三兄弟の休暇が終わるまで、毎日、河川敷へ行き、昼過ぎからは薬を作って過ごした。
 三人をキート港へ見送りに行く頃には、大分、体が軽くなったような気がしたが、気のせいだった。腹肉は、相変わらず同じ厚さをつまめる。
 「オヤジもお袋も、双魚さんも、元気でな」
 「あぁ、お前らも怪我せんようにな」
 「海に落ちたりしないでね」
 「お元気で」
 乗船前、日が昇り始めた港で、別れの言葉を交わす。三兄弟は言葉少なに別れを告げ、出航の準備に向かった。
 大勢の船乗りや荷役が、ひとつの意思を持って働く。
 夜明け前に出港した漁船団が、鴎の群を従えて戻って来た。
 港から、初荷を迎える歓呼の声が上がる。
 大型商船海龍号が、漁船団を迎える歓声を背に船出する。
 雑貨屋夫婦と双魚は、帆船の巨体が水平線の彼方へ消えるまで、手を振り続けた。

 その日は亭主も、午後から職場へ出た。親方達に新年の挨拶をする為だ。
 おかみさんと二人になった時、双魚は気付いた。
 体が軽くなったような気がしたのは、体を動かす事に慣れたからだ。
 何もしなければ、また鈍ってしまう。だが、毎日、河川敷まで一人で行くのは、危ない気がする。そうかと言って、亭主やおかみさんを付き合わせて、仕事の邪魔をする訳にも行かない。
 双魚はこっそり溜め息を吐いて、俯いた。手桶が視界に入った。おかみさんが毎朝、近所の共同井戸へ水を汲みに行き、水瓶一杯分、溜めてある。
 ここに来たばかりの頃、手伝いを申し出たが、おかみさんに断られてしまった。
 双魚は改めて、おかみさんに手伝わせて欲しい、と頼んだ。
 「あの、体が思ったより鈍ってて、これは流石に良くないんじゃないかと思って……」
 「うーん……その分の給金は出せないんだけど、いい?」
 「はい。大丈夫です」

 翌朝から早速、水汲みを始めた。共同井戸は、雑貨屋の区画のすぐ近くにあり、五軒分程しか離れていなかった。おかみさんと双魚の二人で、ひとつずつ手桶を持って行く。
 双魚はこれまで、【無尽】の瓶でしか水汲みをした事がない。術ではなく、手桶で水を汲むのは初めてだ。
 井戸には、木製の小屋のような物で囲いがしてあった。柱が屋根を支えているだけで、壁はない。屋根の中央から綱が下がり、先端には手桶がひとつ、括りつけてあった。
 先客のおばさんが、井戸の縁に乗っていた手桶を、井戸に落とす。くぐもった水音の後、おばさんは綱をするする手繰り寄せた。手桶を引き上げ、持参の桶に水を注いだ。
 順番待ちのおかみさん達がお喋りをしており、井戸端は賑やかだ。話題は主に新年の各家庭での出来事だった。

 「あらあ、珍しい。薬屋さんじゃないの」
 おかみさん達は双魚に気付くと、口々に話し掛けた。
 複数人から同時に話し掛けられ、双魚は面食らった。
 何とか、聞き取れた挨拶や質問に答える。
 水汲みを手伝っている訳を聞かれ、素直に話した。
 「あらあらぁ……ちょいと、猫島さん、食べさせ過ぎなんじゃなぁい?」
 「デブデブに太らせて、何処にも行けないようにする気?」
 「ちょいと、人聞きの悪い事、言わないどくれよ」
 冗談なのか、イヤミなのか、よくわからない言葉を掛けられ、おかみさんが苦笑する。双魚は余計な恥をかかせてしまった、と申し訳なくなり、小さくなった。
 「魔道士狩りの用心の為に、なるべく外へ出ないようにしてるから、体が鈍っちゃってね」
 「あら、それで……」
 「そう言えば、ご主人、市場で薬屋さんを探してらしたわねぇ」
 「あぁ、知ってんのかい。なら、早いよ。あの時も魔道士狩りに攫われて、命からがら、ここまで逃げて来てね……」
 「あらッ! 迷子じゃなくって?」
 「まぁあ、大変だったのねぇ……」
 おかみさんの中では、双魚が自力で逃げて、戸口で力尽きた事になっているらしい。訂正するには話の流れが早く、双魚は口を挟めずにいた。
 自分が市場で迷子になった件が、近所に知れ渡っている事も意外だった。
 双魚は奥の台所で、薬を作っている。店に立つのは、僅かな時間で、常連客の一部しか知らない。
 客たちは、双魚を良く知っているような口ぶりだ。
 恥ずかしいやら申し訳ないやらで、落ち着かない。
 居心地が悪い事この上ないが、逃げる訳にもゆかず、水汲みの順番が回って来るのを今か今かと待つしかなかった。
 井戸端会議の合間に何度か話し掛けられ、相槌を打つ。
 この時間帯なら、この辺りは安全なような気がした。おかみさんと顔見知りで、双魚を知っている人が大勢いる。店からも近い。
 双魚は、井戸端に集まるおかみさん達の顔を改めて見た。店番中に何度か来た人が二人。後は知らない顔だった。

 漸く順番が回って来た。
 水を汲んでそのまま、井戸の周りで洗濯や皿洗いを始めるおかみさんが、幾人も居る。
 雑貨屋のおかみさんが、綱付きの桶を井戸へ落とす。
 頭上でカラカラと乾いた音がした。見上げると、屋根には滑車が取り付けられていた。綱の動きが軽くなる工夫だ。
 おかみさんが、綱を引き上げ、手桶に水を移す。
 双魚も見様見真似で水を汲む。
 桶を落とし、綱を引く。思った以上に重い手応えに驚いた。おかみさん達は、こんな物をお喋りしながら、軽々と引き上げていたのだ。
 綱に体重を掛け、滑車に任せて引き上げる。桶は揺れながら上がり、暗い井戸の底から姿を見せた。手が届く所まで引き上げ、手繰り寄せる。やっとの思い出桶を井戸の石組に乗せた。桶の把手とそこに手を添え、手桶に中身を移す。
 何とか、こぼさずに移し終えたが、今度はこれを、手で持って雑貨屋まで運ばなければならない。
 「じゃ、帰ろうかね」
 おかみさんは、手桶を片手で提げ、先に立って歩きだした。
 双魚も片手で持ち上げた。重いが、持てなくはない。一歩、足を踏み出す度に桶の中身が揺れ、運び難い。
 たぷたぷ揺れる桶の水面に気を取られている間に、随分、引き離されてしまった。
 おかみさんに追い付こうと、足を速める。
 水の揺れが激しくなり、溢れてしまった。
 足に掛かり、石畳を濡らした水に力ある言葉で呼び掛ける。
 「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
 漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
 起ち上がり、我が意に依りて、ここへ戻れ」
 息が切れ、声は何度か途切れたが、術は発動し、こぼれた水は桶に戻った。
 おかみさんに追い付くことは諦め、ゆっくり慎重に運ぶ。
 おかみさんは、遥か先を歩いていた。たったご検分しか離れていない筈なのに、雑貨屋の戸口が遠い。
 把手で掌が擦れて痛い。右手から左手へ持ち替え、左手から右にまた持ち替える。頬が上気し、息が上がる。
 おかみさんは、とっくに雑貨屋について、戸口で双魚を待っていた。特に疲れた様子はない。

 ……魔法の使えない人って、女の人でも、力もちなんだな。

 漸く戸口に着いた。へとへとで、何もする気が起きない。桶を水瓶の傍に置くだけで精一杯。移し替えようにも、腕が上がらなかった。
 「お疲れさん、朝ごはんできたよ」
 戸口で荒い息を吐き、汗だくになっている双魚に、おかみさんはいつも通り、声を掛けた。双魚は頷き、今汲んだばかりの水で体を洗った。
 亭主が降りてきて、食卓に着く。
 「お、水汲み手伝ってくれたのか。ありがとよ」
 「……いえ……あの……却って……足手纏い……で……」
 「あぁ、いいから、いいから。無理しないでいいからね」
 恐縮する双魚に、おかみさんが軽やかな笑みを向けた。亭主も軽く励ます。
 「しばらく続けてりゃ、体も慣れて来るさ。気長にやれや」
 「は……はい」
 重い物を持ったせいで、匙を持つ手が震える。双魚はいつもより時間を掛けて、朝食を摂った。
 既に疲れ切って、何もする気が起きない。だからと言って、薬を作らない訳には行かず、のろのろと仕度した。
 術の行使に支障はなく、作り始めると、いつも通りに作業を進められた。
 昼食前には手の震えも落ち着き、小袋の口紐を括る事ができた。

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第04章.河口の街
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