■薄紅の花 04.河口の街-16.冬の夜空 (2016年01月03日UP)
心配に曇ったおかみさんの顔が、明るくなった。
「大丈夫? どこか痛い所、ない?」
双魚はぼんやりと、自分を見詰めるおかみさんを見詰め返した。頭の中に芯のように痺れが残り、何を心配されているのか、状況が呑み込めない。
「市場ではぐれて、探し回ったんだが、帰ったら店の前で寝てたんだ」
「え……? あ……あの……」
亭主の言葉で、記憶がバラバラになった絵本のように頭の中に散らばる。
何か言わなければ、と思うが、何を言おうとしていたのか、言葉が砂のように零れてまとまらない。
「目を離してすまんかった。でもまぁ、命があってよかった。話はもうちょっと落ち着いてからにしよう」
亭主は双魚の頭をガシガシ撫で、部屋を出た。
「あのね、お医者さんの所へ行ってから、丸一日寝てたのよ。お粥作るから、食べてね」
おかみさんは、布団をポンポン叩いて出て行った。
一人になった双魚は、二人に言われたことをぼんやりと考えた。膜一枚隔てたように、感覚の全てに現実感がない。
夢でアーモンドの小枝が折れたことの方が、はっきりと心に刻まれている。
窓の外は暗かった。
暫く考えていると、頭の芯が小さくなってきた。だんだん現実感が戻って来る。
ノックの音で横を向く。
おかみさんは、返事を待たず、お盆を片手に入って来た。
木皿の中で、羊乳で甘く煮た麦粥が、湯気を立てている。
おかみさんはお盆を机に置き、双魚を起き上らせた。背に添えられた手のぬくもりで、漸く帰って来た実感が湧く。
「さ、食欲がなくても、何かおなかに入れないとね。丸一日、何も食べてないんだよ?」
おかみさんは、双魚の膝の上にお盆を乗せた。
双魚は小さく頷き、皿を手に取った。普段では考えられない程、重く感じる。危なっかしい手に、おかみさんが手を添え、木皿を支えた。
匙に一口掬い、息を吹きかけ、冷ます。
香草で羊乳の臭みが消してあった。口に含むと、羊乳と蜂蜜のやさしい甘みが、とろりと口の中に広がった。温かい麦粥を飲み下す。
腹の中でポッと小さな灯が点ったように、体の奥からぬくもりが広がる。
空腹感はなかったが、一口食べると、するする腹に納まった。
空になった皿を引き揚げ、おかみさんは、ホッと息を吐いた。
「じゃあ、あんまり無理しないで、ゆっくりしておいで」
おかみさんは、お盆を持って階下に降りた。
双魚はふらふらする足で、窓に近づいた。見上げると、建て込んだ屋根の隙間で、初冬の星座が瞬いている。
随分、遠くに来たと思ったが、星座は故郷と同じ姿で、夜空を彩っている。自分の呼び名になった双魚の星を探す。
屋根に区切られた狭い空では、双魚の星は見当たらなかった。今の時期は、空の低い所にあるからだ、と気付く。
幼い日に、アーモンドの木の下で見上げた空を思いだす。
冬の星は、湖を渡る冷たい風の中で冴え冴えと輝き、葉を落とした枝の先で、花の代わりをしていた。
手洗いに階下へ降りる。
夫婦ももう眠ったのか、一階の灯は全て落としてあった。
双魚は二人を起こさないよう、小さな声で【灯】を点した。魔法の青白い灯が、廊下を照らす。用を足し、台所で水を起ち上げて体を洗い、水を少し飲んで、自室に戻った。
半年の間にすっかり馴染み、この家は安心できる場所になっている。
部屋の灯を消し、術の【灯】も消して寝床に入り、目を閉じる。
市場の出来事が、記憶の底から湧き上がり、眼が冴えて眠れない。
子供じゃあるまいし、知らない人について行くなんて……
猫島さん達に迷惑掛けてしまった……謝らなくっちゃ……
自分の迂闊さに身を捩る。
魔道士狩りに、自分を引き渡そうとした男の顔が浮かぶ。小太りで、人の良さそうな、普通の男だった。
魔力が強そうだ、と双魚を推したが、断られていた。魔道士狩りについて、よく知らないのかも知られない。
恐らく、何人も焼き殺したであろう、人影達の冷たい声を思い出す。
闇の中で双魚を値踏みし、「使えるから生かしておけ」と冷静に解放した。
他所者の双魚の口から、自分達の身元が割れることはない、との判断もあったのだろう。地元の住人なら、口封じに殺されていたかも知れないと気付き、背筋が凍った。