■薄紅の花 04.河口の街-15.夜の領域 (2016年01月03日UP)
「よぉ。雑貨屋の薬師さん。何かお困りかい?」
不意に、知らない中年男性に声を掛けられた。
記憶を手繰ったが、覚えがない。小太りな男は、この辺りではありふれた防寒着姿で、目を離せば、人混みに紛れ、見失いそうになる。
俺が忘れてるだけなのかな? 俺を知ってるってことは、お客さんとして、来たことがあるんだろうな。
「猫島の旦那さんと、はぐれてしまって……」
「ん? 薬師さん、この辺りは初めてかい?」
「そうなんです。それで……」
「あぁ、わかった、わかった。猫島の旦那を探してんのか。でもまぁ、もうじき日没だ。ひょっとして、先に帰ってるのかもしれん。店まで送ってやるよ」
双魚はホッとして、小太りな男に道案内を頼んだ。風が吹く度に、おぉ寒い寒い、と首を竦める男と、並んで歩く。
ポツリポツリと店が閉まり、人通りも減ってゆく。
「こっちが近道なんだ」
男は躊躇なく、店と店の隙間の狭い路地に入った。夕日の残滓は届かず、そこは既に夜の領域だった。乾いた吐瀉物に雑妖が集っている。
双魚は思わず怯み、路地の手前で立ち止まった。男は、双魚がついてこないことに気付き、急かす。
「近道せんと、夜までに帰れんぞ?」
「えっあの、そこはもう夜って言うか、あの……それ、視えないんですか?」
双魚は吐瀉物の上で蠢く雑妖を指差した。定かな形を持たず、闇に溶け、闇から滲みだす種々雑多な小さな魔物。一匹たりとも、同じ形は居ない。
「ん? あぁ、ゲロも立ちションも多いが、仕方あるまい」
「えっ、いえ、その、上に居る……えっと……」
この土地の言葉で、「雑妖」を表す言葉がわからず、双魚は言い澱んだ。
壁の汚れから、雑妖が滲み出る。男の肩と頭に、数匹が飛び移った。男はそれを全く気にせず、イライラした声を掛ける。
「急いでんだろ? 早くこっちへ」
双魚は覚悟を決め、小声で【魔除け】を唱えながら、路地に足を踏み入れた。形の定かでない雑多な妖魔が、足に纏わりつく。饐えた臭いが鼻を突いた。裏口の小窓から漏れる灯を頼りに、男を追う。
「……現世の理、汝を守る」
結びの言葉を呟くと、【魔除け】が発動した。双魚を中心に、浄化の波が路地に広がる。男の肩と背にしがみついていた雑妖が、波から逃れ、闇に逃げ込む。双魚に纏わりついていた雑妖も逃げ、足が軽くなる。
心なしか、路地が明るく視えた。
ドブ板の上を鼠が走って行く。
曲がりくねり、迷路のように入り組んだ道を足早に抜ける。
双魚は何度も、【魔除け】を唱えながら、男について行く。
誰とも行き会わず、双魚には鼠と雑妖だけが住民に思えた。
家々の隙間の空は、すっかり暗くなり、幽かに星が瞬いている。
不意に、男が足を止めた。
双魚は男の肩越しに、前方の暗がりに目を凝らした。壁板の隙間から細く漏れる灯に、幾つかの人影が浮かび上がる。
暗がりの中に在っても、雑妖の姿ははっきり視えた。人影に纏わりつき、ほぼ全身を覆い尽くしている。
双魚はもう何度目かになる【魔除け】を唱え始めた。
その口を、案内してきた男が塞ぐ。
何が起こったかわからず、双魚は呆然と立ち竦んだ。
「遅かったじゃないか」
「まぁそう言うな。最近はどいつもこいつも、用心しててな」
人影の声に、案内の男が応じる。
「で、そいつの年は幾つだ?」
「知らん。雑貨屋に居着いた旅の薬師だ」
別の声に、案内の男が答えた。案内の手を雑妖が這い回り、双魚の目の前で揺らぐ。双魚の背を冷たい汗が伝った。
この人達、ひょっとして……
「薬師……か」
中央の人影が、低く呻った。
他の人影が顔を寄せ合い、一塊となって、何事か囁き交わす。雑妖も話に加わるように集まった。
ややあって、中央の人影が言った。
「本当に薬師なんだな?」
双魚は、緊張に強張る首を何とか縦に動かした。
案内の男が、明るい声で言う。
「間違いねぇ。雑貨屋で何度も、薬を作ってるとこを見た。今までの奴らより、魔力が強い」
「……そうか。なら、やめだ。そいつは使える奴だ」
案内の男が鼻白み、何か言おうとする。中央の人影が、腹に響く声で制した。
「使える奴は、生かしとけ」
案内の男が舌打ちし、双魚を双魚する。
闇の中で別の気配が動き、双魚の口に何かをねじ込んだ。吐き出す前に、変に甘い塊は溶け、双魚は意識を失った。
アーモンドの小枝が折れた。
強い風が葉を散らし、細い枝が飛ばされる。傍に居る誰かに、風除けの設置をどうするか、聞こうとしたところで目が覚めた。