■虚ろな器 (うつろなうつわ)-27.糸瓜 (2015年04月05日UP)
和式便器におっさんがしゃがんでいた。
【灯】に照らされた頭部は、胡瓜か糸瓜のような形状で、緑色。明らかに人外のモノだ。ボロボロの着物の裾から覗く足は、痩せて青黒い。短い無精髭に覆われた顔が、驚きの表情で固まった。
班長が慌てて戸を閉めた。
「あッ! しッ……失礼しましたッ!」
「いや……いやいやいや、人ではない。祓わねば」
真っ先に我に返った〈榊〉が首を小さく横に振った。
夜中にトイレに行って、あれが先に入っていれば、確実に漏らす。宿泊型リゾートとしては、致命的な霊的瑕疵だ。家人は、これのせいで引越したのだろうか。
「あんなの、私達だけでどうにかなるの?」
〈火矢〉が不安に顔を曇らせる。〈樹〉には見えなかったらしく、首を傾げて戸を凝視していた。
「でもー、先生が下見した時ー、私達で何とかなるのしかー、居なかったってー」
「それに、〈双魚〉先生は、無理に倒さなくてもいいって、おっしゃってたよ。何とかして、この村から出て行ってもらえば、いいんじゃないかな?」
「どうやって?」
立ち直った班長の提案に〈樹〉から、無邪気だが、鋭い質問が発せられた。
「えっど……どうって……どうしよう……?」
班長が、困惑した目を五人の間に泳がせた。一同、黙り込む。
今日は、一日で六軒も浄化しなければならない。最初の家で、時間を無駄にする訳にはいかなかった。
志方は小さく片手を挙げ、口を開いた。自信のない声は、蚊の鳴くように小さい。
「話し合い、でさ……穏便に……とか?」
「あぁ……」
「うん、まぁ、話が通じるか、ちょっと、やってみる?」
「〈輪〉君、ガンバッてー」
班長が下がり、〈渦〉に背中を押される。志方は焦った。てっきり、班長が代表で交渉するのだとばかり思っていたのだ。箒を持つ手にじんわりと汗が滲む。
いや、まぁ、言いだしっぺだしさ、グズグズしてても、時間が勿体ないもんなぁ。
志方は腹を括って、引戸に手を掛けた。
「……ッこんにちはー!」
腹の底から声を出し、自分を鼓舞する。戸を一気に開放した。ドブの蓋を外したような臭気が、廊下に流れ出る。六人は、マスク越しにも感じられるニオイに顔をしかめた。
おっさんは、相変わらずしゃがんでいる。志方の声にびくりと肩を震わせた。
「掃除しに来ましたッ! こんにちはッ! ちょっと、そこ、どいてくれませんかッ!?」
有無を言わせぬ勢いで、一息にこちらの要求を伝える。おっさんは数秒、思案するような表情でこちらを見た。ゆっくりと青黒い膝を伸ばし、便器を跨いだまま、立ちあがる。
「…………ない」
便器を指差し、何か言う。
「えっと……何が?」
「もったいない」
「えっと……何が?」
「もったいない……へちま……くちおしい……へちま……」
おっさんは下を向き、声を絞り出した。
「は?」
「糸瓜……?」
生徒達が首を傾げる。おっさんは糸瓜のような頭部を下に向けたまま、同じ言葉を口の中でぶつぶつ繰り返した。
志方が思い切って質問する。
「糸瓜が、どうしたんですか? 何で勿体ないんですか?」
「もったいない……へちま……ここ……へちま……ここに……」
立ちあがってからずっと、おっさんは便器の中を指差している。志方はおっさんの緑色の顔と便器を見比べた。
頭の中でおっさんの言葉が繋がる。
「ひょっとして、その……中に糸瓜が、落ちてる……?」
「すてられた……くちおしい……へちま……ここに……」
いや、勿体ないったってさ、それ、もう食えないだろ………………
志方は、ぼっとん便所に捨てられた糸瓜の化身に、少し同情した。
「えーっと……あの、どうすれば……?」
一応、会話が成立する相手なので、なるべく穏便にお引き取り願いたい。しかし、おっさんは同じ言葉を繰り返すだけで、有効な回答は得られなかった。質問の意味が理解できないのか、答えたくないのか、おっさん自身にも自分がどうしたいか、わからないのか。
生徒達は、額を寄せ合い、小声で相談を始めた。
「どいてもらえないとー、お掃除できないよねー」
「え……どうすんだよ?」
「どうったって……ねぇ?」
志方が確認する。
「あのおっさんってさ、糸瓜……なんだよな?」
「そうみたいだね」
班長が肯定した。おっさん本人は、くちおしい、と繰り返すだけだ。
「じゃあ、さ、糸瓜的には、どうなれば幸せなんだ?」
「えー? ヘチマさんのー……キモチー……?」
「いや、そんなの、わかってたまるかよ」
訳のわからない質問に〈渦〉が首を傾げ、視えない〈樹〉は首を横に振った。
「んー……洗って欲しい……と言うのはどうだ?」
「いや、もう腐っちゃって、無理なんじゃない?」
〈榊〉の思いつきを、班長があっさり否定した。
どういう経緯で、こんな所に捨てられたのか不明だが、年単位で屎尿の中に浸かっていたのでは、もうどうしようもない。
「でも、結局……あれ、プロの業者に汲取ってもらうんでしょ?」
先程の志方の話を思い出し、〈火矢〉が言った。
「汲取ってもらったら、居なくなるのか?」
何が居るかわからない〈樹〉の問いに、答えられる者は居なかった。業者の到着を待つ余裕はない。
おっさんは、頻りに「もったいない、くちおしい」と呟いている。
志方の頭の中で何故か、ワンピースの女性と糸瓜のおっさんが重なった。
二人とも、後で警察や業者……プロに任せるしかない点は、同じだ。
「勿体なくて悔しい……か。じゃあさ、勿体なくない状態にすればいいんじゃないか?」
「ん?」
班員が首を傾げた。志方はそれに構わず、糸瓜の化身に声を掛ける。外見がどうあれ、正体がわかっていて、害がなければ、恐くない。
「あの、後で業者が汲取りに来ます。で、それから、下水処理場に運ばれて、えーっと、有機物は分離されて、肥料とかに再利用されます」
志方は頭をフル回転させ、中学の社会見学で行った下水処理場の説明を思い出す。作業服の係員に案内され、子供向けの案内板と、実物を見せられながら、順路を進んだ。
学校に帰ってから書かされたレポートの記憶を必死に手繰り寄せる。
消化汚泥からリンを回収して、化学肥料を作る。水洗トイレでも、一周回って、かつての肥溜同様の事ができる事がわかった。
汲取った屎尿が実際、どう処理されるかわからないが、下水処理場の例で説明を続ける。
糸瓜の化身は口を開けたまま、何も言わずに志方の話を聞いている。
理解できているかは、不明だ。
「汚泥は肥料を作る他に、発酵させてメタンガスを作るのにも使います。できたガスを燃やしてタービンを回して、発電するので、無駄になりません。作った電気は、工場や企業、家庭で使用されます。ガス火力発電の熱は無駄に放出せず、空調や温水プールの温度調節にも活用します。最終的に残った灰は、有害物質がない事を確認してから、セメントとかの材料に加工するので、無駄になりません」
志方は殊更、無駄にならない事を強調して語った。
糸瓜の化身が、熱併給発電(コジェネレーション)をどこまで理解できたか、不明だ。
おっさんは、志方の目を見て口を閉じた。
「肥料は、畑に撒かれます。そしたら、また、お米か野菜かお花……何かに生まれ変われるから、勿体なくなると思うんですけど……」
志方は、おっさんの視線を受け止めた。その先は確証がない為、語尾が小さくなり、消えてしまう。
「業者は後日、外から汲取る。行く末を見届けたければ、家の裏で待てばいい」
〈榊〉が、トイレの小さな窓を指差した。糸瓜の化身が窓を見る。
神社の娘は、この家の裏に回っていない筈だ。〈榊〉の実家周辺では、まだ、汲取り式が残っているのだろうか。
班長〈雲〉が呪文を唱え、水を起ち上げる。水は糸瓜の化身を避けて窓に伸び、手の形を成して鍵を開けた。桟に詰まった埃を取り込んで黒く濁る。
濁り水が窓を開けた。外の風が吹き込む。風に押され、臭気が廊下に流れ込んだ。
糸瓜の化身は、紙縒りのように捻じれた。捻じれながら細長く伸び、蔓の形を成して、窓に嵌った木の柵をすり抜けた。
おっさんが出て行った窓を、水が閉める。閉めた窓を這い、汚れを洗い流した。そのまま天井、壁、床を這い、便器の表面を浄化すると、個室内の宙に浮いた。
「汚れを捨てるから、袋、開けてくれる?」
班長の声で我に返り、〈樹〉が床に置いていたゴミ袋を手に取った。