■虚ろな器 (うつろなうつわ)-25.人間 (2015年04月05日UP)

 外に汚水を捨てに行った〈樹〉が戻って来た。空になったバケツに、台所の蛇口で水を入れる。〈樹〉が戻った途端、空気が明るくなった。
 「家具がないから掃除しやすくて、思ったより早く済みそうだな」
 八分目まで水を入れたバケツを窓越しに渡す。志方は受け取りながら、礼を言った。
 「おう、ありがとよ。サクサク汚れが落ちてさ、たまにはこう言うのも面白いよな」
 「じゃ、窓洗うから、閉めるね」
 〈火矢〉が、雑巾越しに木枠を?んで窓を閉めた。雑巾を志方に渡して呪文を唱える。バケツから水が立ち上がり、窓を這い回る。こびり付いていた鳥の糞が難なく落ち、窓は往時の輝きを取り戻した。
 「あらぁ〜、それ、便利ですねぇ」
 背後でワンピースの女性が、感嘆の声を上げる。二人はそれに反応せず、家の裏手に回った。女性もついて来る。
 廊下の窓は小さいので、〈火矢〉が通り過ぎ様に魔法で洗った。
 家の裏は、じめじめとして、木々の幹が苔むしている。降り積もった落ち葉は湿気を含み、靴底にぬめりつく弾力を返す。トイレの窓の下には、赤錆びたマンホールがあった。
 北側の壁と平行にコンクリの溝がある。落ち葉に埋もれ、排水機能は失われていた。薮蚊が飛び交い、ナメクジやダンゴムシが蝟集している。
 溝の中にも雑妖が居た。ナメクジの触角をつついて遊んでいたが、二人が近付くと斜面を駆け上がり、笹薮に姿を消した。
 「蚊取り線香とか、虫除けスプレーがさ、あればよかったんだけどな」
 「ないから、しょうがないね」
 二人は溜め息を吐き、肌が露出した顔に集まって来る薮蚊を手で追い払った。ワンピースの女性には、一匹も近付かない。
 風呂場とトイレも窓が小さく、木の格子が嵌っているので、魔法で洗った。
 「あ、これさ、この排水溝から、カマドウマが入り込んだのか」
 壁の下から細い排水路が伸び、溝と繋がっていた。ここを塞がなければ、また、風呂場がカマドウマの集会所になってしまう。
 「塞ぐ物って、何もないし、先生に言うくらいしかできないね」

 ……ん? 風呂の排水が側溝直通って事は、下水管が、ない?

 台所の排水がどこに流れるのか不明だが、志方には、こんな山奥の小さな村に下水道が通っているとは、思えなかった。ガスもなく、竈なのだ。
 「えっと……ひょっとして、ここのトイレってさ、ぼっとんで、あのマンホールってさ、汲取り口?」
 「ねぇ、あなた、魔女なんでしょ? 私、生き埋めなんです、助けて下さいよ」
 「えー……さぁ……?」
 志方の質問に〈火矢〉は首を傾げた。
 「こんなの、素人じゃ手に負えないよ。プロじゃないとさ、中身どうにもできないし」
 「それは、先生もわかってるんじゃないかな?」
 「うん、えっと……〈火矢〉さん、変な事聞いてゴメンだけどさ、【ぼっとん便所】って使った事、ある?」
 「ないよ。……っていうか、それ、何?」
 志方は、山奥の古刹や、田舎のパーキングエリアで使った事がある。バキュームカーでの汲取りも、偶然、目にした事があった。
 「水洗じゃないトイレ。本部のを使ってみればわかるけど、トイレと穴が直通なんだ。つまりさ、このマンホールと、家の中のトイレは、直接繋がってて……」
 「ずっと一人で、あっちに埋まってるんです。出して欲しいんです」
 「何それ……臭そう……」
 女性が指差す方向を見ないようにしながら、〈火矢〉は顔をしかめ、眉間に皺を寄せた。
 「うん、まぁ、そうだろうな。トイレは表面しか掃除できないからさ、穴の奥は雑妖だらけだろうし……」
 「うわー、最悪じゃない」
 「じゃあ、これも先生に言ってさ、プロを呼んでもらうって事でさ……いいよな」
 「そうするしかないよねー。取敢えず、班長に話そう」
 「ホント!? ありがとう!」
 空気が明るく軽くなった。
 二人はトイレをどうするか話し合っていたのだが、ワンピースの女性には、自分にとって都合のいい部分しか、聞こえなかったらしい。

 家の西側、六畳間の窓に回った。ワンピースの女性もそのままついて来る。雑妖は一匹も居ない。
 コンクリで固めた駐車スペースには亀裂が走り、草が生えていた。隅に置かれたプレハブの物置小屋が、辛うじて立っている。戸は失われ、中に降り積もった落ち葉や埃から、苔や雑草が生えていた。
 「これも、掃除するの?」
 「うーん、何かさ、これ、丸ごと捨てた方がよさそうだな。後で先生に聞こう」
 志方は網戸を外し、窓拭きを始めた。
 日当たりが良く、あっという間に汗だくになる。汚れが落ちた窓に三人の姿が、ぼんやり映る。
 ……あ、そっか、この人は「人間」だからさ、陽に当たっても平気なんだ。
 明るい日射しの中に在っても、女性の顔は判然としなかった。自称「生き埋め」だが、髪型と服の意匠を見る限り、軽く三十年は経っている。当時の村人は、こんな近くに人一人埋められて、気付かなかったのだろうか。
 志方が拭き終えた窓を〈火矢〉が魔法で洗う。ついでに、網戸も洗い流した。黒く濁った水がバケツに戻る。すっかりキレイになった網戸を元に戻し、玄関先に回った。
 〈火矢〉が、バケツに溜まった汚れをゴミ袋に移す。
 班長達は、玄関で靴を脱いでいるところだった。二人も靴を脱いで上がる。女性は家に入って来ず、玄関先に佇んでいた。
 「先に他の所を塩でお清めして、最後に皆でトイレ掃除しようって思うんだけど、いいかな?」
 〈雲〉が廊下の奥を気にしながら聞いた。志方が、家の裏手で気付いた事を伝える。誰からも異論は出なかった。

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