■虚ろな器 (うつろなうつわ)-24.二人 (2015年04月05日UP)
〈樹〉が、廊下の床に雑巾掛けを始める。
廊下の突き当たりにも小さな窓があった。すり硝子の凹凸に積もった埃に黴が生え、真っ黒になっている。班長が、モップから外した雑巾で窓を拭いた。硝子には菌糸が張らないので、少しこすれば、面白いように汚れが落ちる。
「外から拭くよ」
志方は、班長達に声を掛け、外に出る。モップから雑巾を外し、元・茶の間から、水が入ったバケツをひとつ持ち出す。〈火矢〉は、台所の外の日向に移動していた。
「そこ、暑くないか?」
「ん? うん。でも……ホラ……」
〈火矢〉が木陰を指差す。志方は思わず息を呑んだ。
日光を避け、無数の雑妖が蠢いていた。見慣れない人間に興味津々で、こちらの様子を窺っている。
木立の奥には、古風なワンピースを着た女性も佇んでいた。長い髪に隠れ、俯いた顔の様子はわからないが、明らかに生者ではない雰囲気だ。
「ね?」
「う……うん」
手に持ったバケツの重みが、手の震えを押さえる。
「〈輪〉君、私を呼びに来たの?」
「いや、外から窓拭きしようと思って」
「手伝うよ。ちょっと待ってて」
志方が口を開くより先に台所に引っ込み、雑巾を持って戻った。
「この家の裏、木が茂ってて、一人じゃ危ないから。気を付けて」
「お、おう」
あまり外に出ない〈火矢〉の方が余程、警戒心が強い。
志方は、結界に守られた生活に馴染んで、すっかり気が緩み、【魔除け】の呪符を過信していた事に気付かされた。少し凹んで、家の右手に回る。
夏の日射しは、生い茂った枝葉に遮られ、濃い影を作っていた。空気は冷たく、湿っぽい。溜まっていた雑妖が、【魔除け】に驚いて山に逃げる。遠くの木陰からこちらを窺うたくさんの目が、ギラギラ輝いていた。
台所の窓は泥塗れだった。蜘蛛の巣に朽ち葉が引っ掛かって、揺れている。〈火矢〉が落ち枝を拾い、窓の下に円を描いた。
「簡易結界作るから、ちょっと待ってて」
円の中心に枝を突き立て、〈火矢〉は、志方がまだ聞いた事のない呪文を唱えた。力ある言葉に、地の意思が応える。志方の目に、円の内側が少し明るくなったように見えた。木立の間から覗く雑妖の目が、その明るさに細められ、半数以上が目を逸らした。
「これは、魔力がある人のやり方。魔力なしで作る方法もあるから、教科書見て、早めに覚えとくといいよ」
「お、おう。そうする」
二人一緒に簡易結界に入った。
志方が濡れ雑巾で窓をこすると、泥がジョリジョリ不快な感触を伴って、こそげ落ちた。拭き跡に泥の筋が残り、却って汚く見える。雑巾を洗うと、バケツの水は、たった一回で泥水になった。
泥が落ちた雑巾でもう一度拭く。すり硝子が、古風な意匠の花模様に凹凸加工されている事がわかった。〈火矢〉が、言い訳めいた事を口にする。
「仕上げは、私がするね。ホントは、魔法で一気に落とせるんだけど、汚れが少ない方が、やりやすいから……」
「えっ……あ、あぁ、うん」
志方は、言われるまで全く気付いていなかった。
三度洗って拭いて、〈火矢〉と交替する。〈火矢〉の魔力を持った声に呼応して、バケツから水が立ち上がった。水は、バケツの中に泥汚れを置き去りにして、宙を漂う。木枠の硝子窓に貼り付くように広がり、残った汚れを根こそぎにしてゆく。隅に溜まっていた埃も残さず取り除き、窓を丸洗いした。
志方はバケツを手に取り、〈火矢〉に声を掛けた。
「あ、今の内にゴミ捨てて来る。すぐ戻るから」
術に集中している〈火矢〉は、反応しなかった。走って玄関先に回り、ゴミ袋にバケツの中身を空ける。〈榊〉が十二畳間のモップ掛けをしていた。互いに会釈を交わし、志方は〈火矢〉の元に駆け戻った。
簡易結界の周囲に雑妖が屯(たむろ)している。志方の持つ【魔除け】に、慌てて木立や下生えの陰に飛び退く。
花模様のすり硝子が木漏れ日を受け、やさしく光を照り返していた。
志方がバケツを置くと、薄汚れた水が流れ込んだ。
「じゃ、次行こう」
落ち枝と雑巾を手に〈火矢〉が元気よく言って、簡易結界から出た。志方は重くなったバケツを持って後に続いた。
風が、ひんやりした山の空気を運び、汗だくの体に心地よい。
元・茶の間の窓の下にも簡易結界を作り、二人で窓を拭く。台所の窓より大きい。鳥の糞がこびり付いて白く固まっていた。
「そこ、あんまり強くこすると硝子が割れちゃいそうだし、後で私、やるよ」
「うん、ありがとう……って言うか、拭くの、俺がするし、休んでてくれよ」
折角、可愛い女子と二人きりなのに、先程から掃除に必要な最低限の言葉以外、交わしていない。
この状況……勿体ねーなー……
そう思いつつも、本部の鏡で何をどう見られているかわからない以上、迂闊な事は言えなかった。
腕をいっぱいに伸ばして窓を拭きつつ、当たり障りがなさそうな事を聞いてみる。
「あのさ、聞いてもいい?」
「ん? 何?」
「〈渦〉さんなんだけど」
「〈渦〉ちゃんが、何?」
「使い魔が居るから、魔力は他に回せないって、授業中、〈雲〉君が△付けてたよね?」
「うん、それで?」
「さっきさ、魔法で風呂場、洗ってたのって……?」
「あぁ、それ? 別に全く魔法が使えなくなる訳じゃないよ。使い魔の視聴覚情報が入ってきて、気が散っちゃうのと、使い魔ってね、魔力を与えて行動を制御するモノなの。それで、二つの術を同時に使う事になるから、難しいってだけ」
〈火矢〉がわかりやすく説明してくれた。
「えぇッ!? 魔法って二つも同時に使えるもんなの?」
「うん。慣れればいくつでも同時に使えるみたいよ。魔法文明圏には、こんな雑妖よりずっと強くて有害な魔物が居るから、そう言う所で駆除のお仕事してる人とか、防御と索敵と攻撃とか、何種類も一緒に使えないとダメなんだって」
「へぇ〜。凄ぇなぁ、プロの魔法使い。って言うかさ、〈火矢〉さんも詳しいし、勉強家なんだな」
志方は初めて接した情報に素直に感嘆し、その流れで素直に褒め、窓拭きに集中した。褒められた方は、予想外だったのか、ほんのり頬を染めて足元のバケツを見た。
「ねぇ」
「何?」
声を掛けられ、志方は〈火矢〉に顔を向けた。窓を拭く手が止まる。〈火矢〉の隣、簡易結界すれすれの位置に、古風なワンピースの女性が立っていた。顔を上げ、こちらを向いているのに、どんな顔なのかわからない。
「どうしたの?」
まだ気付いていない〈火矢〉が、怪訝な顔で小首を傾げる。
「あ、い、いや、急に黙ってさ、どうしたのかなって……俺、何かマズい事言った?」
志方は慌てて言い繕い、返事をしてしまった事を誤魔化した。女性と目を合わせないように、〈火矢〉の目を見詰める。
「ん。別に何でもない。そう言う褒められ方、した事なかったから、ちょっとびっくりしただけ」
「えっ、そっ、そうなんだ?」
「ねぇ、視えてるんでしょ?」
「うん。うちの学校って、みんな大抵、どこか他所の国に親戚が居て、勉強しなくてもそう言うの、知ってて当たり前みたいな空気あるもん」
「私、生き埋めになってるんです」
「そっかー、そう言うもんなんだ」
気が付いた〈火矢〉が、雑巾で窓を拭く。志方も、ワンピースの女性を意識しないように、〈火矢〉の話に集中しながら、窓拭きを再開した。
汚れが落ちたすり硝子に、うっすらと三人分の影が映る。
「さっき『うん』って言いましたよね? 聞こえてるんでしょ?」
「私がわざわざ聞かなくっても、お正月に集まったら、何となくそう言う話になるのよね。進路の事とかで」
「へぇ〜、そう言うのってさ、どこも一緒なんだな」
「でね、あっちの国のお仕事の話とか苦労話とか、聞いてないのに色々喋って来るの」
交替で雑巾を洗い、窓をこする。雑巾を横に動かすと、窓が開いてしまった。〈樹〉と〈渦〉が驚いた顔を向ける。
「あ、〈樹〉君、丁度いい所に……悪いけど、水、替えて来てくれない? そっち回るの面倒で……」
バケツを持ちあげ、〈火矢〉が呼んだ。視えない〈樹〉は気楽に近付き、窓枠越しにバケツを受け取った。
「私は今、休憩中ー」
「おう。使い魔居るとさ、大変なんだってな。お疲れさん」
「えへへー、そーでもないよー」
スルースキル、パねぇ……
〈渦〉にも視えている筈だが、何も居ないかのように、照れ笑いを浮かべている。志方もつられて?が緩んだ。汚れた水を捨てに〈樹〉が外に出る。
「あ、そうだ、さっきの……風呂場の虫ってさ、どこ行ったんだ? カマドウマ、すげーびっしり居た奴」
「食べちゃった」
「えッ!?」
三つの声がひとつに重なった。志方、〈火矢〉、ワンピースの女性は思考停止し、後の言葉が出てこない。誤解に気付いた〈渦〉が、慌てて否定した。
「あ……やッ、もーッ! 違うよ、もーッ! 私じゃなくって、銀条ちゃんだよー」
「は……はは、そりゃ……そうだよな」
「やだ、もー、変な事言わないでよー」
「そう……ですよねー……驚きました」
三者三様に胸を撫で下ろす。
白蛇銀条は、〈渦〉の首にマフラーのように巻き付き、肩の上で寛いでいた。その胴の太さに変化はなく、とても大量のカマドウマを平らげたようには見えない。