■虚ろな器 (うつろなうつわ)-23.風呂 (2015年04月05日UP)
〈榊〉も力強く同意した。〈樹〉が手を上げ、おずおずと提案する。
「あの、トイレ掃除の道具がないから、魔法だけで何とかできないかな? 〈雲〉君と〈火矢〉さんが大変だから、他の物理掃除は、休んでもらっていいんだけど……」
一同、無言で顔を見合わせた。
トイレ……
学校にありがちな怪談が、志方の脳裡を過(よぎ)る。赤や青のトイレットペーパーだの、女子生徒的な何かだの、手が出てきて引きずり込まれるだの、何だのと、枚挙に暇(いとま)がない。
不浄な場所だから、しっかり清浄に保たないと、汚れと一緒に穢れや雑妖の類も溜まりやすいのだろう。
教員の目が届きにくく、いじめの現場になりがちで、悪意や恨みの念が発生しやすいのも、一因かもしれない。
流石に、一般家庭のトイレでそれはないだろうが、何年も放置されてきただけに、何が居るか、わかったものではなかった。
廊下に降り積もった埃を壁際に掃き寄せ、取敢えず足場を確保しながら、油性マジックで小さく「厠」と書かれた戸の前に進んだ。
古びた木製の引戸が、異様な威圧感を持って、志方達の前に立ちはだかる。
「えっと、先、奥……掃除って、奥からするんだよね? ね? お風呂、先、するね」
〈火矢〉が震える声で言い、脱衣所の引戸を開けた。
「ギャーッ!」
脱兎。
〈榊〉と〈火矢〉が、茶の間だったらしい部屋を一気に駆け抜け、土間の隅まで逃げた。【魔除け】に蹴散らされ、二人の通った跡が、くっきりと雑妖の居ない道になる。
志方は、〈雲〉の肩越しに中を覗き、息を呑んだ。脱衣所と風呂場の床には、無数のカマドウマが犇めいていた。雑妖が、その背に乗って戯れている。
「俺も見えるから、普通の虫だよ。これ、どーすんの? 殺虫剤、ないよな?」
すり硝子の戸を閉め、〈樹〉が、うんざりした声で聞いた。〈渦〉が明るい声で応じる。
「はーい。銀条ちゃんに、お任せー」
戸を僅かに開け、白蛇型の使い魔を滑り込ませる。するりと這い入った隙間をぴしゃりと閉め、〈渦〉はマスク越しにもわかる満面の笑みを浮かべた。
「しばらくお待ちくださーい」
硝子戸は上三分の二が、すり硝子。下三分の一は木製で、中の様子はわからない。物理的には、軽い物が壁や戸にぶつかる微かな音が聞こえるだけだ。雑妖が何か言っているようだが、発音が不明瞭で、内容まではわからない。
土間に逃げた二人が、元・茶の間まで戻り、へっぴり腰で掃除を始める。手を動かしながらも、脱衣所の硝子戸にチラチラ目を遣り、警戒は解かない。
志方達も、廊下の掃除に取り掛かった。
白蛇の主である〈渦〉一人が、風呂場の前に残り、小声で何やら囁いている。
天井から下がる埃塗れの蜘蛛の巣を払い、箒で壁を擦って埃を落とし、最後に埃が舞い散り、降り積もる床を掃く。
雑妖が埃と共に箒に追い立てられ、廊下の隅に溜まっては掃かれ、玄関に向かって掃き集められる。
またしても、順序が入れ替わってしまったが、廊下と茶の間の塵をちりとりでまとめ、ゴミ袋に収めた。特に問題なく、先の三部屋と同様、物理的な清掃をしただけで、雑妖は殆ど居なくなった。
天井裏を走り回る音が聞こえるが、鼠か何かに違いない。
女子二人が台所に降り、玄関に続く土間も掃き清める。
土間の隅には竈があり、そのすぐ上の壁には古いお札が残っていた。
班長が、三歩離れた位置から竈を覗き込む。絶好の隠れ場所である灰溜めと、釜があった部分に雑妖は見当たらない。
すっかり色褪せているが、お札の効力は、まだ残っているようだ。
志方は安心して灰を掻き出し、掃除を続ける。
台所に続いて、玄関の掃除も難なく終わった。〈火矢〉が台所に戻り、真鍮の蛇口を捻った。コンクリの流し台に錆を含んだ赤水が流れる。
班長が、二枚目のゴミ袋を広げた。
濁りの薄くなった水に〈火矢〉が手をかざし、古く力ある言葉を囁く。志方には何の呪文か、わからない。
水は、コンクリに落ちる直前で向きを変え、宙に浮いた。白蛇銀条を思わせるくにゃりとした動作で、虚空に渦を描く。流れが窓から射し込む光を照り返し、鱗のように輝いた。〈火矢〉が蛇口を閉める。蛇状の水は、四十五リットルのゴミ袋一杯分程度の塊になった。
小声で呪文を唱え、〈火矢〉は右手をひらひら振った。水塊は、原生生物のようにぐにょりと宙を漂い、台所の煤けた天井に貼りついた。箒で落とし切れなかった煤や埃、蜘蛛の巣等を溶かしこみながら、天井を這いずり回る。
雑妖が、生物のように這う水に呑まれ、姿を消した。
水は天井から壁に移り、黒く濁りながら床に降りてきた。志方達が元・茶の間に上がると、水は床一面に広がり、汚れを一掃する。最後に、竈の中に侵入すると、残った灰や虫の死骸を呑んで、再び宙に浮いた。
様々な汚れや雑妖を呑み込んだ水は、ドブのように濁りきっていた。
班長と〈樹〉が、元・茶の間でゴミ袋の口を広げる。水は、太い蛇のように形を変え、ゴミ袋に頭を突っ込むと、呑み込んでいた汚れを吐き出した。ゴミ袋に中身を吐き出すにつれ、水が透明度を取り戻して行く。
「ついでに箒も洗うね」
〈火矢〉に促され、箒の穂先を差し出す。水の尾が箒を包み、こびり付いていた綿埃や蜘蛛の巣を洗い流した。水流から解放された箒には、一滴の水も残っていない。食器洗いと同じ術だ。
〈榊〉が玄関前に置いていたバケツを持って、元・茶の間に戻って来た。ブリキのバケツ三つを板敷に並べる。そこに、汚れを吐き出し終えた清水が等分に注がれた。
水の操作を終えた〈火矢〉が、小さく息を吐いた。
「お疲れ様。雑巾掛け、やっとくから、休んでて」
「うん。ありがと」
〈榊〉が、バケツと雑巾モップを持って廊下に出る。〈火矢〉は、台所の窓辺の壁に寄り掛かって、目を閉じた。
「そう言えば、〈渦〉さん、どうしてるかな?」
班長に言われて初めて気が付いた。あんな場所に女子一人置いて来てしまった。志方と班長が、バケツと雑巾モップを?み、廊下に出た。
既に魔法が使える〈渦〉は、一人でも無事だった。
硝子戸を開け、〈火矢〉と同様に風呂場の蛇口から水を出し、洗浄を行っていた。
カマドウマの姿は、一匹も見当たらない。
脱衣所も風呂場も、虫の糞やヘドロのような物がこびり付き、床本来の色がわからなくなっていた。
水が生き物のように壁を這う。タイルの目地に生えた黒黴が根こそぎにされ、水の這い跡が白くなる。雑妖が逃げ惑い、開け放たれた窓と排水溝から出て行く。
天井は既に洗浄済みで、漆喰と塗装が少し剥がれている事を除けば、キレイだ。
〈渦〉が、廊下の床に広げたゴミ袋を指差す。壁から黴を剥ぎ取った水が、ゴミ袋に黒い粉を吐き出した。
続いて、〈渦〉が指先を脱衣所の床に向ける。透明度を取り戻した清水が、脱衣所の床に流れ込む。床の汚れが溶け出し、清水を汚濁させる。茶色く濁った水が、泡立ちながら床を一周し、積年の垢を一掃した。
水を操る〈渦〉は、余程集中しているのか、志方達の接近に気付いていない。使い魔の白蛇銀条が、胴で円を描いて主の足元を囲んでいた。
白蛇は、志方達に気付き、鎌首をもたげたが、すぐに興味を失い、板敷に顎を置いた。鱗に覆われ、瞼もない蛇の表情など、わかる筈がない。それなのに何故か、志方には銀条が面倒臭そうに見えた。溜め息を吐いたような気もするが、それは流石に考え過ぎか。