■汚屋敷の兄妹-真穂の12月 01.澱み (2015年08月16日UP)
十二月一日の夜、どこかから電話が掛かってきた。
お祖父ちゃんが、ゴキゲンで喋ってる。生まれて初めてかもしれない。お祖父ちゃんがこんな嬉しそうに話せるなんて、知らなかった。相手が誰か、ちょっと気になったけど、私はお祖父ちゃんに嫌われてるから、そんなコト聞けない。
お祖父ちゃんは、何も言わなかった。
お祖母ちゃんも、何も聞かなかった。
次の日の夕方、お祖母ちゃんが廊下で転んだ。
私は、階段の途中から少しだけ顔を出して、廊下を覗いた。
生まれて十八年、ずっとこの家に住んでるけど、廊下の壁を見た事がない。
廊下には、台所に納まりきらない食器棚と戸棚とカラーボックスが、ぎっしり置いてある。家具が部屋の入口を幾つか塞いでいて、入った事のない部屋もある。っていうか、何部屋あるのかも知らない。棚とカラーボックスの上には、段ボール箱が天井まで積み重なっている。
天井は、煙草のヤニと油煙と蜘蛛の巣と埃で真っ黒。蜘蛛の巣に絡まった埃の塊が、氷柱みたいに垂れ下がっている。
私は、生まれてから一度も、廊下の床を見た事がない。フローリングなのか、台所の続きでクッションフロアなのかさえ知らない。
床には、古新聞、古雑誌、チラシ、潰れた段ボール、お祖父ちゃんとお父さんが脱ぎ散らかした服、ご近所さんのお裾分けの野菜とかが入った袋が、敷き詰められている。お裾分けの袋は、中身が入ったまま、年単位で放置されている。
夏は特に、廊下を通るのがキツイ。
鼠やゴキブリ、ナメクジ、ダニ、ハエ、ダンゴムシ、カマドウマ、ヒメマルカツオブシムシ、カナブン、蛾、百足、蜘蛛、ヤモリ、トカゲ、イタチ……お裾分けを食べに来る生き物と、うっかり迷い込んだ生き物と、それを食べる生き物で、廊下に生態系ができている。今は寒いから、生き物の種類は少ない。
お裾分けの袋から漏れた黴と腐汁が、段ボールや古新聞や汚れた服に染み込んで、ゴミ収集車みたいにクサイ。いや、ゴミ収集車の方がマシ。あれは毎日、中身捨ててるし。ウチと比べたら、ゴミ収集車に失礼。
歩く度に、丸々と太ったハエのウジが、足元でプチプチ潰れる。顔の周りをハエの親がブンブン飛ぶ。スリッパなしじゃ絶対、無理。
鼠やゴキブリの排泄物で、いつか病気になるんじゃないかってくらいキケン。堆積物の上や隙間に転がる楕円形の黒い粒は、鼠やゴキブリの糞。鼠やイタチの尿臭が、鼻の奥を通り越して目に沁みる。真夏の掃除してない公衆トイレよりヒドイ。
廊下を通るには、物理的にも精神的にも、色々な物を乗り越えなきゃいけない。
こんな所で転んだら、身体的にも精神的にも酷い事になってしまう。
「お前らが掃除せんからだ。儂は知らんからな」
お祖父ちゃんは、立ち上がる事もできずに唸っているお祖母ちゃんに冷たく言って、居間に引っ込んでしまった。
お父さんは、コタツでぬくぬくしてるだけで、様子を見に来もしない。
お祖父ちゃんとお父さんが、ゴミを捨てさせてくれないから片付かないのに、お祖母ちゃんと私のせいで、家が汚いって事になっている。
いつからあるかわからない段ボールも、お父さんが生まれる前から溜め込んでる古新聞も、「その内使うから捨てるな」って言われてる。捨てたら超怒られる。紐で縛って束ねても、二人が間から抜いて使って、バラバラにしてしまう。実際、ウチは農家だから、古新聞とかはちょくちょく使う。でも、そんな汚い新聞で包んだ白菜とか、絶対要らない。
お裾分けは、収穫期になると、ご近所さんが玄関先に置いて行く。
この辺は、昔から住んでる農家ばかりの過疎地で、地区の人はみんな知り合い。作物の種類と大きさで、誰がくれたのかわかるレベル。食べられないのはウチの都合なので、くれた人には、きちんとお礼をする。お礼しないと後が怖いから。
折角のお裾分けも、冷蔵庫がいっぱいで入りきらないから、廊下で朽ち果てて、鼠や害虫の餌になってしまう。台所のテーブルも物がいっぱいで、床も物がいっぱいで、置く所がない。取敢えず、ご近所さんの目に触れない家の中に移動させて終了。先に使えばいいんだろうけど、お祖父ちゃんが自分で作った野菜を優先させるから、お祖父ちゃんが生きてる限り、お裾分けの野菜を使える日は来ない。
お祖父ちゃんが食べさせてくれないから腐ってるのに、朽ちたお裾分けも、「折角○○さんがくれたのに、勿体ない。後で堆肥にするから捨てるな」って、生ゴミも捨てさせてくれない。こっそり捨てたのがバレて、超怒られた事もある。
私は二階の自分の部屋に戻って、ケータイで真知子(まちこ)叔母さんに助けを求めた。
声は一階まで聞こえないと思うけど、念の為、メール。
このケータイは、米治(よねじ)叔父さんが契約して貸してくれた物だ。通話料も出してくれてるから、申し訳なくて緊急連絡以外には、使った事がない。
お祖父ちゃんとお父さんは、私の事が嫌いで、高校に行く事すら反対していた。
歌道寺(うどうじ)の住職さん達が、「今時は高校くらい出してやるもんだ。それとも、山端家は娘を進学させてやれんくらい、落ちぶれてしまったのか?」って言ってくれたお蔭で、進学させてもらえた。
女に学問なんかいらんのにって、凄くイヤそうに恩着せがましく言われたけど、そんなにイヤなら、私をお母さんと一緒に住ませてくれればいいのに。それはさせてくれない。
ケータイも、「女のお前に掛ける金なんかない。無駄だ」って断られた。
米治叔父さんに、バイト代でケータイ代を返そうとしたら、「えぇが、えぇが」って受け取って貰えなかった。お父さんの弟なのに、何でこんなに違うんだろう。
真知子叔母さんから、返信が来た。
件名に用件が書いてあって、本文は空だった。
Re:旦那にお酒もつて行かせるからもうちよつと待つて
偶然のフリをして、病院に連れて行ってくれる。
泣きそうになりながら、お礼を返信して、部屋を出た。
自分の部屋には、最低限の物しか、置いていない。
毎日、掃除して換気して、ここだけ別の家みたい。
一階の廊下を歩いたスリッパは、部屋の前で脱ぐ。
二階の廊下は、本棚とカラーボックスで埋まっている。廊下の両側に棚があって、体を横にしないと通れない。本棚やカラーボックスの上にも段ボールが積み上がっていて、地震が起きたら絶対ヤバイ。
二階は多分、二部屋が開かずの間状態。大きな本棚で入口が塞がってる。私の部屋とお兄ちゃんの部屋、ゆうちゃんの部屋の入口だけが開いている。
床だけは、物を置かないようにしている。古新聞、古雑誌は束ねて、学校のリサイクル箱に持って行く。「学校で要るから」と言えば、流石に反対されなかった。
階段も古新聞、古雑誌の束が、各段に私の身長と同じくらいまで詰み重なって、埃を被っている。壊れた家電、壊れた石油ストーブとか、ガラクタも置いてあって、その上にも中身が詰まった段ボールが詰んである。中身は知らない。
倒したら大惨事なので、階段を通る時は、慎重に慎重を重ねて、凄く神経を使う。
やっとの思いで階段を降りた。ミイラ取りがミイラにならないよう、慎重に近付く。お祖母ちゃんの冷えた肩を膝掛けとハーフケットで包んで、耳元でこっそり伝えた。
「もうすぐ、米治叔父さん、来てくれるから」
「ごめんね……真穂ちゃん、ごめんねぇ……」
お祖母ちゃんは、泣きながら手を合わせて、私を拝んだ。
私は何も言えなくなって、お祖母ちゃんを抱きしめて肩をさすった。
分家の米治叔父さんは、すぐ来てくれた。
玄関を開けて、元気いっぱい、奥に声を掛ける。
「親爺ーッ! 兄貴ーッ! 酒貰ったから、お裾分けーッ!」
玄関は、古い靴や泥だらけの長靴、底が取れたサンダルや破れたレインコート、折れた傘や破れた傘で三和土が見えない。家族の人数の何十倍もの傘が、公民館用みたいな大きさの傘立てにギュウギュウ詰めになって、その上にも突き刺さって詰み上がっている。
靴箱は、天井までの高さの大きいのが二つと、その半分の高さのがひとつ。三つとも、中身はギュウギュウに詰まってて、開けられない。
小さい靴箱の上には、干からびた水槽と、何処かの土産物の提灯や置物、枯れた盆栽、枯れたサボテン、埃で黒い翡翠像、郵便物や何やかやが、ごちゃごちゃ詰み上がっている。
米治叔父さんは、ミニ酒樽を抱えて、集金の人もドン引きの場所に土足で上がった。
「おぉ、米治、よく来たな。近所に住んどるに、顔も出さんで。養子にやっても血は繋がっとるんじゃて、いっつも言うとるが。ホレ、上がれ、上がれ、一緒に呑もう」
お祖父ちゃんが、居間から顔を出して手招きした。
米治叔父さんは「たった今、気付いた」みたいな顔で、お祖母ちゃんの前にしゃがんだ。
「お袋、何しとるが?」