■野茨の血族-31.心残り (2014年12月10日UP)
それに触れられた途端、心の奥底に沈めた疑問が、意識の表層に浮かび上がってきた。
心残り……
政晶は、母の最期の顔を思い出した。
「政晶」と我が子の名を呼ぶ母の声が、心に甦る。
何か心残りがあっただろうか。
母は、政晶をこの世に置き去りにして逝った。
母にとって、高齢出産した一人息子の政晶を、成人まで育てられず、何かと未熟な父に託して逝く事は、心残りではなかったのか。病に斃(たお)れ、まだ親の手を必要とする我が子をこの世に残して逝く事は、母にとって心残りにはならなかったのか。
無理矢理にでも好意的に考えれば、親子程年の離れた若い夫を、我が子の「父親」として、信じて逝ったのだろう。
託された父は、政晶を家に置き去りにして仕事に行く。
残された父子(おやこ)は、何も残したくないとの遺言に従い、母の形見はおろか、遺骨と遺灰さえも残さず海に流した。墓も建てなかった。一枚の写真も残っていない。
会社には「役員」の功績が残っているのだろうが、この世に「母」の痕跡はひとかけらもない。母の思い出の品は、何ひとつ残っていない。政晶には、形見に思いを寄せ、母を偲ぶ事すら許されなかった。
実子である政晶でさえ、母とは全く似ていない。鏡で父とよく似た顔を見る度に母の面影を探すが、全く見つけられなかった。毎朝、顔を洗う度に、この世に取り残された寂しさに零れそうになる涙を堪えた。
父は、妻子との暮らしよりも、仕事を選んだ。
仕事に負けた一人息子の政晶には、今更、父子として暮らす事はできなかった。父が政晶に掛ける言葉の何もかもが白々しく思え、何ひとつ信じられず、父の口からは何も聞きたくなかった。余計な事しか言わず、どうせ必要な事は何も言わないのだ。耳を貸す必要はない。受け容れる必要もない。
父も政晶を必要としていない。その証拠に、政晶が一カ月も電話もメールも届かない外国に行くと言うのに、見送りすらしなかったではないか。今更のように取り繕う言葉からは耳を塞ぎ、顔を背(そむ)け、自分を顧みなかった報いを受けさせればよい。
そもそも、何故、家系の呪いを知りながら、結婚したのか。
そもそも、何故、母に危険を負わせてまで、産ませたのか。
何の力も持たない政晶を、誰も望まない子を、半視力で、何の役にも立たない政晶を、仕事に劣る二の次の子を、何故、産んだのか。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
ムルティフローラ王国の上層部は、巴家の誰にも期待を懸けていない。国民も、叔父の力をアテにしているだけだ。自分達を守ってくれる力を持ってさえいれば、誰でもいいのだ。三界の眼と強大な魔力を持って生まれた叔父も、上層部の一部にとっては目障りでしかない。長くは生きられず、子孫を残せない体にも関わらず、命を狙われていた。
今の政晶は、ただ条件に合う体だと言うだけで、力を持たない自分を受け容れてくれない国に、いいように使われ、丸々一カ月を費やそうとしている。
用済みになれば、この国からも拒絶される。力を持つ叔父は利用価値があるから、黒山羊の王子として今も守られ、生かされているに過ぎない。
では、力を持たない政晶はどうなるのか。
科学文明圏に戻れば、何の力も持たない政晶は、再び王家の徽である痣を隠し、魔法の国の血族である事をひた隠しにして、生きて行かねばならない。力を持たない人々に知られれば、好奇の目に晒される。力を持たない人々は、王家に縁(ゆかり)ある政晶が、何の力も持たない事を知れば、身勝手に失望するのだ。
母は、政晶をこの世に置き去りにして逝った。
父は、政晶を家に置き去りにして仕事に行く。
仕事に劣る政晶は、父に必要とされていない。
二の次の子を何故、危険を冒して産んだのか。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
用済みになれば、この国からも、拒絶される。
誰も望まないタダの子供を何故、産んだのか。
誰もがタダの子供の政晶を必要としていない。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
この世の全てが拒むなら、自らも拒めばよい。
呪われた自らも、この世の全てを拒めばよい。
自らも、この世の全てを拒絶し、呪えばよい。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
無様に生き恥を晒すなら、全ての滅びを望め。
呪われた自らも、朽ちながら全てを拒むのだ。
自らの呪いをこの世の全てに向け滅びを望め。
政晶は、胸の奥に火で焙られたような痛みを感じ、我に返った。
今のん……誰の声やったんや? ……王様! 王様! 何処におるんや?!
ドブ水に沈んだ建国王の剣は、沈黙している。この世にありながら、この世ならぬ異形の穢れに呑まれ、蠢く魔物のかけらの何処かに沈んでいる。政晶は、建国王の剣の形を心に描きながら、屈んでドブ水に手を突っ込み、掻き回した。
ドブ水に浮かんでは消える泡が、沸々と疑念を湧かせ、政晶の心に囁く。
国は、政晶を利用して捨て去ろうとしている。
用済みになれば、この国からも、拒絶される。
呪われた自らも、この世の全てを拒めばよい。
無様に生き恥を晒すなら、全ての滅びを望め。
穢れが、政晶の心に囁く。無数の人間の眼が、政晶を凝視する。体に直接触れ、その穢れが心に染みて初めて、その正体がわかった。人間の眼球に見えるモノは、他人の評価に囚われた心が具現化した塊だった。
無数の眼球が、政晶を凝視する。その視線が、目立たないように、失敗しないように、失笑を買わないように、必要以上に他人の目に怯えて暮らす日々を、嫌でも思い出させた。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
無様に生き恥を晒すなら、全ての滅びを望め。
呪われた自らも、朽ちながら全てを拒むのだ。
自らの呪いをこの世の全てに向け滅びを望め。
政晶は立ち上がり、周囲を見回した。ドブ水に浮かぶ眼球に囲まれている。結界は健在で、ドブ水は祭壇の広場に溜まっている。建国王の剣がなくては、ここから出る事も叶わない。外からの助けも望めない。鍵の番人も主峰の心も、欺く道も慈悲の谷も、どれだけ強い魔力を持っていても、ここには入れないのだ。
穢れに満ちた祭壇の広場が、果てしなく広く感じられた。呟きに掻き消されたのか、中断しているのか、呪歌も聞こえない。政晶はこの広場に一人。誰にも助けてもらえない。
誰もがタダの子供の政晶を必要としていない。
誰もがお前の望みに応じず、満たす事はない。
誰もがお前の求めに応じず、助ける事もない。
誰もがお前を認めず顧みず、気にも掛けない。
「天の理、地の恵み、水の情けと火の怒り、我にその大いなる助力与え、この血に熱帯び、心に勇気灯せ」
政晶は必死に記憶を手繰り、建国王に教えられた呪文を声に乗せた。魔力を持たない政晶が、どれだけ大声で唱えても、何の効果も顕(あらわ)さない。
この世の全てが拒むなら、自らも拒めばよい。
誰も望まない呪われた子供が生きて何とする。
無様に生き恥を晒すなら、全ての滅びを望め。
ドブ水が、政晶の心に染み込んでくる。大勢に囲まれ嘲笑される恥ずかしさと情けなさに、何を探していたのか忘れそうになる。ドブ水の嘲笑の漣が、祭壇の広場いっぱいに満ちる。できもしない魔法の呪文を唱える恥ずかしさと情けなさに、何をしていたのか忘れそうになる。
どうせ誰にも必要とされない子。
ここで死んでも誰も気にしない。
この世ならぬ穢れが政晶に囁く。大人になる前に死んでも、母はきっと気にしない。心残りではないのだから。親不幸にはならない。
ドブ水が人の形を為し、母の面影をなぞる。母は冥界で政晶を待っているに違いない。母の形を為したドブ水が、両腕を広げる。来るのが遅いと叱られるかもしれない。気持ちがドブ水に攫われそうになる。政晶の膝から力が抜ける。
左腰で何かが揺れた。