■野茨の血族-26.成人の儀 (2014年12月10日UP)

 「主峰よ」
 宿の管理人が祭壇に向かって声を掛けた。
 突然、管理者の傍らに青い火が現れた。火は若者達が見守る中、渦を巻きながら大きくなる。青い渦が外に向かって解けながら消えた跡に、中年の男性が立っていた。
 背が高く、筋骨逞しい偉丈夫だ。騎士達と同じ魔法の鎧に身を固め、政晶の背丈程もある大剣を背負っていた。
 「若者達よ、よくぞここまで辿り着いた」
 ずしりと腹の底に響く低音。大声ではないが、よく通る声が新たな成人を力強く励ます。話の内容は、テレビで毎年見る市長等、偉い人の成人式の挨拶とほぼ同じ趣旨だった。
 若者達は、生者も死者も同様に、真剣な面持ちで傾聴している。ニュースに出るようなバカ騒ぎをする者は一人も居ない。
 例の若者ですら、大人しく話を聞いている振りをしていた。
 「……それでは、ここで心の澱を降ろして行け」
 語り終えた主峰の心は、背中の大剣を片手で抜き、天に掲げた。場の緊張した空気に、政晶も無意識に背筋を伸ばす。
 「天の理、地の恵み、水の情けと火の怒り、我にその大いなる助力……」
 主峰の心は、天に向かって呪文の一節を唱え、次の一節からは若者達を見据えて続けた。若者達は鋭い視線に射竦められ、身じろぎひとつせず、主峰の心を見詰め返している。
 「蒼穹の許(もと)、鵠(ただ)しき燭(ともしび)よ、如何なる辯疏(べんそ)をも却(しりぞ)ける峻厳なる光明よ……」
 最初の数節は、政晶が建国王から習っている呪文とよく似ていた。途中から聞き慣れない言葉が混じり、やがて全く知らない言葉の連なりに変わった。
 「何者にも染まぬ黒き衣纏い、灼(や)けつく烈夏の日輪(ひのわ)以て劾(あば)き、四方(よも)に広がる霜の剣(つるぎ)以て禍(まが)つ罪断つ。日々に降り積み、心に澱む塵芥、洗い清めよ、祓い清めよ……」
 詠うように、語るように、朗々と唱える不思議な抑揚の言葉が、胸に篤(あつ)く重く染み込む。染み込んだ言葉が胸を震わせ、その共鳴が熱になり、心が昂揚する。
 大剣に朝の光が反射し、輝く。昂揚した心がその光を受け、隅々まで照らされる。
 「灼けつく烈夏の日輪以て劾き、四方に広がる霜の剣以て……」
 〈三界の眼を開くぞ〉
 不意に建国王が言葉を発し、政晶の返事も待たず、視力を切り替えた。
 祭壇の広場は、朝の光の中でもドブだった。それと向かい合って立つ若者達から、黒い靄が立ち昇る。ゆらゆらと陽炎のように揺れ、山頂から吹き降りる風に逆らって、祭壇に流れ込む。
 主峰の心は、先程までなかった白い光に包まれていた。鍵の番人も昨日同様、光って視える。三界の眼にしか視えない「何か」だ。
 「……心の誠(まこと)以て日輪(ひのわ)の花咲かすべし」
 主峰の心は、詠唱を終えると剣を降ろし、若者達の間をゆっくりと歩いた。
 若者達の顔が緊張で更に強張る。
 主峰の心が傍を通ると、若者から黒い靄が塊になって抜けた。塊は、吸い寄せられるようにドブに加わる。塊が抜けた若者は、肩の荷が下りたような、ホッとした顔になった。
 主峰の心が、ひねた青年の横を通過する。
 政晶は、無意識に半歩前に出た。
 ひねた青年を覆っていたドブ水は、薄紙を?がすように僅かずつ離れ、地に落ちた。これもまた、地を這いずり、祭壇の同類と同化する。主峰の心が傍らを離れると、ドブ水の残りは若者に留まった。姿が透けて見える程度には薄まったが、ドブ水はその発生源である若者にしっかりとしがみついている。
 王様……あの残った奴って、どないなるん?
 〈汝が我で斬ってやれば霧消する。そのまま捨て置けば、まぁ、本人次第だな〉
 本人次第……あの兄ちゃん、化けモンなってまうん?
 〈今すぐどうにかなる訳ではない。が、本人次第だな。どうする?〉
 政晶は、ひねた青年を見た。退屈そうに体を揺らし、眠たげな目で主峰の心を追っている。ドブ水は、若者の表面で落ち着きなく波打っていた。
 どうって……
 〈あの者達はこの後すぐに下山する。これは汝の義務ではない。今の状態ならば、我にも斬れると言うだけの事だ。三界の魔物と化せば、退魔の魂でなければ太刀打ちできなくなるがな。どうする?〉
 どうって……あの兄ちゃんを信じてこのまま帰らすか、ここですっきりさして帰らすか、僕に選べって事?
 〈そうだ。粗方?がれた故、後は本人次第。あの者がどうなろうと汝の責任ではない〉
 政晶は、彼の人となりを知らない。
 宿場町からの様子を見た限りでは、「ダウナー系中二病ヤンキー混じり」に思えた。中二病から目を覚まし、過去の自分の言動を思い出して、恥ずかしさにのたうち回れば、あのドブを自力で脱ぎ捨てる事ができるだろう。
 その瞬間が、いつ訪れるかは、わからない。
 瘴気に触れる日が先に来れば、彼の人生は、この世に生きながら、終わる。
 あの兄ちゃんを信じて待つんが人情なんやろけど……運が悪うて待ったなしやったら、イヤやしなぁ……
 政晶は、ひねた青年と、鍵の番人と、主峰の心を順繰りに視た。
 「これ……別に要らん事ちゃうやんな?」
 声に出しながら、柄に手を掛ける。建国王が、政晶にだけ認識できる声で同意を示す。
 主峰の心が「負傷者」の肩を叩き、「また会おう」と声を掛けながら若者達の間を歩く。声を掛けられた者達は、晴れやかな笑みを咲かせ、溶けるように淡い光となって雲ひとつない夏空に昇って逝く。
 黒い靄は祭壇へ、淡い光は大空へ。混じり合う事なく、あるべき場所へ消えてゆく。
 靄と光が飛び交う中、ヘドロを纏った青年と赤い大蛇を絡ませた娘は、何食わぬ顔で儀式が終わるのを待っていた。
 「あのー……鍵の番人さん、その人らにちょっと待ってって言うてもろていいですか?」
 クロエが訳すと、鍵の番人は首を傾げた。政晶は慎重に言葉を選んで説明する。
 「僕が言うより、偉い人に言うてもろた方がえぇかなって……あの、穢れが……がっちりくっついて、離れへん人がおるんですけど……」
 鍵の番人は、若者達一人一人に視線を向けた。騎士達とクロエも若者達を見る。
 「あの……ドブ被っとう男の人と、赤い蛇が巻きついとう女の人なんですけど、王様が、今やったらまだ、王様の剣で何とかなる言うてはるんで、僕も何とかしたいなぁ思(おも)て……」
 「赤い蛇……? もう具現化しちゃってるんだ」
 翻訳を聞いた〈雪丸〉が青ざめた。他の騎士達にも緊張が走る。
 えっ……あの姐ちゃん、そんなヤバいん?
 〈瘴気に触れれば即座に三界の魔物と化す。嫉妬とは恐ろしいものだな〉
 建国王が嘆息する。
 鍵の番人は、政晶の手を引くと、大股で若者達の中に入り、小声で訊いた。
 「誰と誰?」
 政晶は、赤い蛇の娘の傍らに寄り、掌で小さく示した。鍵の番人が頷く。次に、ひねた青年に近付く。
 儀式はほぼ終わり、「負傷者」は一人残らず空に消えていた。
 「何だ、お前? 何の用だよ」
 ひねた青年が、汚い物を見る目で政晶を見降ろす。政晶はその見覚えのある威圧感に、一歩退いた。
 ヤンキーて、どこにでもおんねんなぁ……
 「無礼者。このお方は王家の舞い手にあらせられる。この中に二人、成人の儀で祓えぬ程の穢れを抱えた者がいるとの仰せだ」
 いつの間にか二人の隣に立っていた〈灯〉が、ひねた青年を遥かに上回る高圧的な態度で言い、睨みつけた。
 他の者達が一斉に跪く。青年は突っ立ったまま、しまった、と言う顔をしたが、すぐに気を取り直し、せせら笑った。
 「へぇ〜え、王家の舞い手様ねぇ? さっきから全然、湖北語喋ってないみたいッスけど? ホントに王家の野茨の血族なんッスか? 騎士様、こいつに騙されてません?」
 ズボンのポケットに両手を突っ込み、政晶を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見る。鍵の番人が、杖の石突きで足元を軽く打った。
 「城で私自身が確認した。そもそも、野茨の血族でなければ、建国王の剣に触れる事すらできん。そうやって下らない事ばかり考えているから、穢れが溜まるんだ」
 「何だよ。チビの分際で偉そうに。何様のつもりだ?」
 尚も虚勢を張る。親戚二人がその頭を抑え込み、力ずくで跪かせた。
 「お前ッ! 見てわかれよバカ! つっ……杖、杖! 導師様だよ!」
 「すんません! このバカには後でキツく言って聞かせますんで! ここは何とか……」
 「何すんだコラ! 放せ!」
 ひねた青年は二人を力任せに振り解き、傲然と立ち上がった。他の者達は隣と顔を見合わせ、こちらを窺っている。
 「ッざけんな! 湖北語もわかんねー奴が王家の一員とか、国民ナメてんのか?!」
 「お前ッ! 黙れよ! コラ!」
 「すんません! すんません!」
 親戚二人が捕えようとするが、今度は軽快な動きで躱す。
 「お前ら、何跪いてんだ! 立てよ! こいつ、アレだぞ!」
 親戚の手から逃げ回りながらも、政晶を罵る事を止めない。
 「第七王女が、魔力持ってねーオトコに股開いて作った、出来損ないのゴミ子孫だぞ!」
 政晶は、ほぼ初対面の青年が吐いた暴言に、足が竦んだ。
 この青年は、王女と会って言葉を交わした事はないだろう。王女の姿を見た事すらないかもしれない。少なくとも、第七王女……政晶の高祖母が、日之本帝国人の高祖父と結婚した当時は、生まれていない。過去の出来事にどんな尾鰭がついて、王室の醜聞として伝わったのかは、わからない。
 政晶は、知らない人が、知らない内に、伝え聞いた話だけで、会った事もない自分や高祖母を憎んでいる事に、体の芯が凍った。
 「お前ら、王家の血を穢したゴミに頭下げてんなよ! 立てよ!」
 悪意なのか、敵意なのか、憎悪なのか、魔力なのか。
 彼の言葉は確かに力を持ち、政晶の胃は彼の声に呼応するように痛んだ。それでも若者達は、困惑した顔を互いに見合わせるだけで、立ち上がろうとする者は一人も居ない。赤い蛇の娘も眉を顰めている。
 ひねた青年が言い募るにつれ、彼が纏うヘドロが濃く厚く膨れ上がってゆく。
 「こいつもどうせ、力のないゴミだぞ! 立てよ! お前ら!」
 王様……あの人、ドブが濃(こ)いなっとんやけど……
 〈表層に現れる穢れをどれだけ祓おうと、性根が曲がっておれば、あのようにすぐ元通りだ。どうする?〉
 あの人やのうて、周りの人らの迷惑やから、やる。ちょっとの間だけでも消せるんやんな? 手伝(てつど)うてくれますか?
 建国王は同意の思念を返し、鞘を鳴らした。
 鍵の番人は、大の大人の追いかけっこを呆れ顔で眺めている。騎士達が政晶の周りを固め、険しい目で青年の動きを追う。管理者は渋面を作って事の成り行きを見守っていた。
 政晶は吐き気を堪えながら、ゆっくりと剣を抜いた。
 〈身を斬らぬよう、気を付けよ。穢れのみ、断ち斬るのだ〉
 「鍵の番人さん、あの人にじっとしとってくれるように言うてもらえますか?」
 クロエの通訳を聞き、鍵の番人は返事の代わりに小声で呪文を唱えた。
 「図星突かれて逆ギレですか? あ、オレが何言ってるかわかんない?」
 何が彼をそこまで駆り立てるのか、抜き身を手にした政晶を見ても、嘲る事を止めない。鍵の番人の術が発動する。杖で方向を示した魔力が、狙い過(あやま)たず、ひねた青年に注がれる。足が唐突に動きを止めた。慣性で上半身が前にのめる。
 「てめぇ! 何しやがった!?」
 追い付いた親戚が呆然と鍵の番人を見る。ひねた青年は体勢を立て直したが、足の裏が地面に貼り付き、微動だにしない。
 「何だよ、これ!? このチビ! オレに何しやがっ……」
 両腕がだらりと下がり、言葉が途切れる。青年は鍵の番人を睨み、口を叫びの形に留め、完全に動きを止めた。
 政晶が騎士達の間を抜け、青年に近付く。三界の眼の視力を与えられた政晶には、青年の姿は見えない。ただ、人の背丈程のヘドロの塊が蠢いて視える。
 えっ? いや、この人、大丈夫やんな?
 〈案ずるな。心臓と肺は動いておる〉
 意識もあるのか、青年を覆い尽くしたヘドロが溢れ、地面に広がる。政晶は足下のヘドロを避けながら、青年に近付いた。建国王が呪文を唱える。
 〈我に続いて唱え、斬れ。
 天の理(ことわり)、地の恵み、水の情けと火の怒り、我にその大いなる助力与えよ。
 蒼穹の許(もと)、鵠(ただ)しき燭(ともしび)よ、
 如何なる辯疏(べんそ)をも却ける峻厳なる光明よ、咎人(とがびと)の陰(ひそ)かな企(たくら)み劾(あば)け。
 何者にも染まぬ黒き衣纏い、
 灼(や)けつく烈夏の日輪(ひのわ)以て劾き、四方(よも)に広がる霜の剣(つるぎ)以て禍(まが)つ罪断(た)つ。
 日々に降り積み心に澱(よど)む塵芥、洗い清めよ、祓い清めよ。
 灼けつく烈夏の日輪以て劾き、四方に広がる霜の剣以て禍つ罪断つ。
 心の誠以て日輪の花咲かすべし〉
 先程、主峰の心が唱えた物と同じ、穢れを祓う呪文だ。政晶は、建国王に続いて湖北語で呪文を唱えた。剣の柄頭で建国王の涙が若葉色に輝き、術が発動する。
 ヘドロが萎縮し、宿主の体内に戻ろうと蠢く。若葉色の光に打たれた表面が?がれ落ち、祭壇に吸い込まれるように消える。
 政晶は、建国王が映像で示す通り、ヘドロを削ぐように剣を振るう。斬り落とされた穢れが、黒い靄となって祭壇に呑み込まれる。
 「四方に広がる霜の剣以て禍つ罪断つ。心の誠以て日輪の花咲かすべし」
 最後に、祭壇に向かって大きく薙いだ。青年にしがみついていた塊が抜け、夏の日差しに灼かれる。黒い靄が消え、政晶にも青年の姿が視えた。鍵の番人の術に縛られたまま、表情を憎しみのまま凍りつかせている。
 政晶は剣を鞘に納めた。
 〈よくやった。ひとまず、この者から離れよ〉
 建国王の涙から光が消える。政晶は頷いて、騎士達の傍に戻った。他の若者達が驚いた顔をこちらに向けている。鍵の番人が杖で地面を打ち、術を解いた。
 ひねた青年は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。親戚が駆け寄る。俯いた青年の表情はわからないが、震えている事はわかった。
 親戚達が縋るような目を向ける。鍵の番人が面倒臭そうに説明した。
 「建国王の剣で、その者に溜まった穢れを断ち切って下さったんだ。後は、本人の心掛け次第だ。今は部屋に下がって休ませてやるといい」
 親戚達は信じられないと言いたげに、ひねた青年を見た。黙って俯いている。親戚達は、鍵の番人と政晶の目を見て何度も礼を述べ、青年に肩を貸して立たせた。
 青年はその手を振り払い、弾かれたように登山道を駆け下った。
 「おい! どこ行くんだ! 待て!」
 親戚二人が後を追う。その場に残された者達は呆気にとられ、ただ見送った。
 我に返った政晶が、赤い蛇に絡み付かれた娘に近付く。
 政晶に気付いた娘が立ち上がる。数歩離れた所で立ち止まり、政晶は娘の顔を見上げた。互いに結婚の約束をした恋人も立ち上がり、二人の顔を見比べた。
 「お姉さんに赤い蛇が巻きついとうから、じっとしとって欲しいねん」
 政晶の言葉をクロエが湖北語に訳す。恋人が後退り、娘は首を横に振った。
 「何? ずっと一緒の私より、こんな変なカッコの女の言う事、信じるの?」
 恋人が怯えた目で婚約者を見る。赤い蛇の娘は恋人に向き直り、更に詰(なじ)った。
 「何で私ばっかり責められるの?! あなたが私を怒らせるのが悪いんじゃない!」
 「何、そんな怒ってんだよ。俺、何か悪い事した? 彼女だって舞い手様の言葉を通訳しただけだろ?」
 「チッ! またそうやってそいつ庇うし! 何が『彼女』よ!」
 「いや、別に庇ってないし。落ち着けよ」
 「落ち着いてる。私は冷静。そいつがホントに舞い手様の言葉を訳してるかどうか、わかんないじゃない。全然知らない言葉なんだから、そいつが舞い手様の口借りて、自分の言いたいコト、言ってるかもしれないのに。何であっさり信じてんの?」
 当のクロエは、次の命令を与えられていない為、二人の遣り取りをぼんやり眺めている。政晶はどうしていいかわからず、柄に手を掛けたまま、動けない。
 赤い大蛇はクロエを睨み、火のような舌を忙しなく出し入れしている。そろりと解(ほど)け、娘の体から這い出した。地を這う蛇は長く、尾はまだ娘の中にある。
 「大体、あなたがいつも私の気持ち、わかってくれないのがいけないのに、どうして私ばっかり……」
 「いや、わかってる、わかってるから、そんな泣くなよ。みっともない。成人の儀の最中に、みんなの迷惑だろ」
 「わかってない! 全然わかってない!」
 娘は大粒の涙を零しながら激しく頭を振った。
 赤い大蛇が身を縮め、次の瞬間、跳躍した。目標はクロエ。この世ならぬ嫉妬の蛇が、大きく口を開き襲い掛かる。政晶は恐怖に立ち竦んだ。頭の中が真っ白になる。
 クロエは、ひょいと横に動いて蛇の一撃を躱した。その目は明らかに蛇の動きを捕えている。避けられた蛇は、悔しさに身を捩りながらとぐろを巻き、鎌首をもたげた。その尾はまだ娘の中にある。
 「えっ? あれっ? クロエさん、その蛇、視えんの? 何で?」
 「はい。視えます。ご主人様が三界の眼を開いていらっしゃる間は、私にも視えます」
 「サイッテー! 何それ、惚気? 夫が居るのに私の彼に色目遣ってたの? サイテーの不倫女じゃない!」
 「いや、全然そんな話じゃないだろ。落ち着けよ」
 婚約者が娘の肩を?んで揺さぶる。
 「夫ではありません。ご主人様です」
 侍女の形をした使い魔は、娘の剣幕にも全く動じない。
 他の若者の大半はオロオロと見守るばかり。ニヤけながら隣と小声で話す者もいる。騎士達は舞い手を守ろうと、泣き叫ぶ娘と政晶の間に立ち、身構えている。
 「白々しい! 結婚してなきゃいいってもんじゃないの! これは私のカレなの!」
 「だから、落ち着けって、彼女は関係ないだろ」
 「関係ある! 関係あるようにしてんのは、あなたなの! 外国のオンナが珍しいからって、いちいち見ないで! 私だけ見てればいいのよ! 私だけ見なさい!」
 「えっ? ちょっ……お前、どうしたんだよ、急に……」
 青年は金切声で泣き叫ぶ婚約者に狼狽(ろうばい)し、肩から手を離した。
 蛇がゆっくりと、とぐろを解(と)く。
 「娘よ、それは人間ではない。殿下の使い魔が化けたモノだ。だから浮気では……」
 鍵の番人の言葉に、娘は婚約者の胸倉を?んで激しく揺さぶった。
 「可愛くて胸が大きけりゃ魔物でも何でもアリなの?! サイテー!」
 「えぇっ?! ちょっ……お前、何言ってんだよ?! そんなんじゃないって……!」
 えっ? えぇえぇえぇっ? 何これ恐ッ! 全然コトバ通じんやん。あー……あれか? マリッジブルーとか言う奴なん?
 〈赤だか青だか知らぬが、蛇が娘の体から離れておる。今ぞ好機。呆けておらんでさっさと斬れ。全く、男女の機微のわからぬちびっ子が余計な事を言うから……〉
 建国王の涙が新緑の色に輝いた。娘は婚約者の胸倉を?んで泣き叫んでいる。
 蛇は青年のドブとは違い、術の発動を意に介さない。嫉妬の塊は、娘の感情の爆発と同時に膨れ上がった。人を呑む太さに育った大蛇が、今度は戸惑う婚約者に向かう。
 政晶は騎士達の守りを抜け、駆け寄った。武器としての剣の扱い方は習っていない。スイカ割りのように力任せに刃を叩きつける。赤い蛇は何の抵抗もなく断ち切られた。勢い余った切先が地を打つ。
 人々が呆気に取られ、政晶に注視する。周囲の者が息を殺して見守る中、娘は血を吐くような声で、婚約者が過去に何度も他の女性に関心を示した事を詰り続けている。
 嫉妬の蛇は断ち切られて尚、動きを止めない。頭を失った胴は、一滴の血を流す事もなく、激しく身を捩っている。この世ならぬ蛇の頭部が、婚約者に向かって地面を這いずる。
 政晶は恐怖に駆られ、蠢く蛇の頭を闇雲に斬りつけた。何の手応えもなく、刃の触れた部分が分離する。蛇の断片は、吸い寄せられるように祭壇に流れ込んだ。
 散々斬りつけられた蛇の頭部が全て祭壇に消え、漸く政晶は我に返った。呼吸を整えながら顔を上げ、娘を見る。残った胴の切断面が、見えない手で捏(こ)ねられ、頭部を形作ろうとしていた。娘は相変わらず、涙と洟に塗れた顔を歪め、婚約者に甘えながら、詰り続けている。
 〈術の効力が切れた。もう一度呪文を唱えよ。天の理、地の恵み……〉
 言われた通り、呪文を唱えながら、娘に近付く。術が完成する前に蛇の頭部が再生した。赤い蛇は身を翻し、婚約者に躍り掛かった。流れるような動きで若い恋人達を締め上げる。
 政晶は息を呑み、足を止めた。
 〈トモエマサアキ、詠唱を続けよ。灼けつく烈夏の日輪以て劾き……〉
 「灼けつく烈夏の日輪以て劾き、四方に広がる霜の剣以て禍つ罪断つ……」
 建国王が魔力を込めて名を呼んで強制し、政晶に術を完成させた。震える足を叱咤し、恋人達に近付く。騎士達が先んじて、蛇に巻かれた恋人達を囲んだ。
 他の若者達はじりじりと移動し、宿舎の前で身を寄せ合っている。主峰の心と鍵の番人は、険しい表情で見守っていた。
 「他の誰も見ないで! 私だけを見て! ……どこ見てんのよ?! 私を見なさい!」
 娘は婚約者の?を両手で挟み、力ずくで自分に向ける。婚約者は、主峰の心や鍵の番人に縋るような目を向けていた。
 「……これ、引き離した方がいいんですかね?」
 「無茶言うな。犬も食わないって言うだろ」
 〈雪〉の呟きを〈斧〉が溜め息を吐きながら否定した。
 赤い大蛇が婚約者の上半身を呑み込んでいる。三界の眼を持たない青年は、自分の身の上に何が起こっているか、気付いていない。身体には痛みを感じないようだ。
 政晶は、娘から隠れるように青年の背後に立ち、嫉妬の塊を削りに掛かった。彼を斬らないよう、慎重に刃を動かす。薄く削げた赤い塊が、祭壇に吸い寄せられ、ドブと混ざって視えなくなる。
 赤い蛇も痛みを感じないのか、政晶に削られても動じない。ただ、娘と婚約者を纏めて縛り上げ、彼を呑み込んでいる。削られ、薄くなった部分を他の部分が補い、全体が徐々に細くなってゆく。
 再度、術の効果が切れ、剣が素通りする。蛇は凧糸の太さにまで細り、婚約者の首に幾重にも絡みついていた。娘は婚約者の胸に顔を埋め、泣きじゃくっている。
 「私には、あなたしか居ないの……あなたしか……見てないの。見えないの……」
 青年は婚約者を抱きしめ、鼓動に合わせて背中を軽く叩いていた。
 赤い糸は青年の首に食い込んでいる。この世のモノなら絞め殺されているところだが、青年は漸く落ち着いてきた婚約者にホッとしていた。
 「君がこんなヤキモチ焼きだったなんて、知らなかった……何か、色々と、ゴメン」
 娘は無言で頷き、しゃくりあげる。
 あの……王様、もう一遍さっきの魔法……
 〈これ以上となると、肉体を傷付けてしまう。それに、男も満更ではなさそうだぞ……捨て置け〉
 えっと……もしかしてこれが、運命の赤い糸……とか言う奴なん? 恐(こわ)過(す)ぎやろ……
 政晶は、娘の体から伸び、青年の首を絞め上げている赤い糸に震えあがった。
 宿舎前の者達は、ある者はニヤニヤ笑い、またある者はうんざりした目で、そんな二人を眺めていた。

25.祭壇 ←前 次→27.導師
↑ページトップへ↑

copyright © 2014- 数多の花 All Rights Reserved.