■野茨の血族-24.登山道 (2014年12月10日UP)
朝霧に包まれた宿場町は、山へ向かう若者達で既に活き活きと目覚めていた。いずれも、日のある内に山小屋を目指す。
安全な登山道を辿れば、三日で祭壇に着く。
政晶達一行は宿に馬を預け、手分けして荷物を背負った。馬は後で別の騎士が引き取りに来るらしい。政晶と鍵の番人も小さな荷物を受け持つ。
若者達に続いて登山道に入った。しっとり湿った道の両脇で、草の朝露が真珠のようにきらめいている。昨日、遅くまで赤穂用の記録を書いていたせいで、政晶はまだ眠かった。生気に満ちた夏の木々の匂いに次第に意識がはっきりしてくる。
木立の間に音が立つ。政晶が朝靄の向こうに目を凝らすと、鹿の親子らしき影が、藪の向こうに姿を消した。知らない鳥が何種類も啼き交わし、思ったより早朝の山は賑やかだ。
丸太が道幅と同じ長さに切り揃えられ、数歩置きに埋めてある。階段状に整備された登山道は、歩きやすかった。
土の道は数多の若者に踏み固められ、長い歳月を経てすり減り窪んでいる。足に馴染んできた革の靴が、その上をしっかりと踏み締め、前に進む。
政晶達の先を行く者はどんどん遠ざかり、後から来る者は次々と追い越して行く。政晶は〈雪丸〉より荷物の分担が少ない事を申し訳なく思ったが、断られてしまい、それ以上強くは言えなかった。
だらだら続く上り坂を足下だけ見ながら歩くのは、思った以上に消耗するものだった。鍵の番人は早々に「疲れた。クロエ、だっこ」と使い魔に抱き上げさせ、自分で歩くのを止めていた。
政晶は平地を走る事なら得意だが、登山には慣れていない。道は歩きやすく、荷物は軽いにも関わらず、昼前には疲れ切っていた。いつの間にか朝靄は晴れていたが、体力の過信を思い知らされた足は重い。
腰の左に佩く建国王の剣が、殊更に重く感じられる。
建国王は、政晶の目を介して数年振りに山を見て、饒舌になっていた。政晶に花や木の実、鳥の名を教え、食用と毒の区別、調理法や薬の調合方法等を詳細に語った。
山道を歩きながらでは、メモを取る事ができない。政晶は、忘れては勿体ないと、建国王の言葉に意識を集中させた。
他人の記憶に直接触れる。
よく考えれば、普通ではあり得ない事だ。
遠い遠い祖先と直接言葉を交わし、感覚を共有し、互いに相手の記憶を読み取る。
木に絡みついた蔓から、紫色の実がぶら下がっている。食用で、中の果肉は白くて甘い。
家族で森へ出掛け、果実や薬草を集める。
森の中は、ひんやりと涼しい風が吹いている。幼い建国王と弟妹は、草の実を摘みながら口に運ぶ。「これも美味しいから、食べてごらん」と母に教えられ、兄と一緒に木に登った。もぎ取った実を弟と小さな妹に渡す。
「お兄ちゃん、ありがとう」
木漏れ日の下の無邪気な笑顔。兄と建国王の頭を撫でる母のやさしい手。武器を帯び、家族を見守る父。普通の家族の普通の思い出。
ありふれた幸福を思い出させた果実。
剣となった建国王は、再びこの実を味わう事はない。
政晶も、幼い頃は、父が毎日家に帰っていた事を思い出した。
昼は大学、放課後はアルバイト。帰宅は深夜だったが、朝は家に居て、政晶を保育園に送ってから登校。アルバイトが休みの日には、早く帰って政晶を風呂に入れ、絵本を読み聞かせて寝かしつけていた、と母から聞いていた。
父は、政晶が物心着くかつかないかの頃、大学を卒業した。在学中に起ちあげた事業に専念する為、帝都の実家に戻り、年末年始以外、母と政晶が暮らす商都の家には、帰って来なくなった。
あの頃は、父が帰って来なくなる事など、思いもしなかった。
「お父さんは?」
毎日、母に聞いては困らせていた。その度に、母が、父がいた頃の話をするので、政晶は物心つく前の暮らしを朧げながらも憶えていた。
政晶は、ほんの十年前の記憶も定かではない。
建国王は、二千年以上前の思い出を色褪せる事なく、涙の中に保存している。
〈マサアキ、汝の事も勿論、しかと記憶に留めておるぞ〉
それって、ずーっと?
〈そうだ。我が我としてこの世に留まり続ける限り、ずっとだ〉
不意に木立が途切れ、開けた場所に出た。
小さな丸太小屋がポツンと建っている。小屋の周りで、先行していた若者達が昼食を摂っていた。
政晶達と入れ替わりに、騒々しい青年達が休憩所を出発する。親戚らしき一団は黙々とスープをすすり、恋人達は二人で協力して食事の用意をしていた。小屋の中からも賑やかな話し声が聞こえる。
政晶達一行も、彼らに会釈して食事の用意を始めた。
空は青く澄み、強い日差しが地面を灼(や)いていたが、魔法の鎧のお陰で暑さは感じなかった。しかし、体を動かして内から熱くなる事は防げないらしい。皆、一様に汗ばんでいた。自分で歩かなかった鍵の番人と、使い魔のクロエだけが、涼しい顔をしている。
政晶達が食べ終わる頃には、先に休んでいた若者達は出発し、後から来た者が食事の準備を始めていた。
結構、人多いねんなぁ。
〈ん? あぁ、今の時期は日が長いからな〉
政晶達も早々に休憩を切り上げ、登山を再開する。食事をして少し休んだお陰か、足が軽くなった。
休憩所より上の登山道は、丸太に代わって岩を階段状に埋め込んで整備されていた。夏草や湿った土の匂いを胸いっぱい吸い込んで、曲がりくねった山道を登る。
不意に先頭を歩く〈斧〉が足を止めた。
「どなしたん?」
「さぁ? 血の臭いはしますが、何があったんでしょうね?」
クロエの返事に政晶も風の臭いを嗅いだ。化け猫の嗅覚には敵(かな)わない。政晶には何もわからなかった。騎士達はいつでも抜けるよう、武器に手を掛け、慎重に歩き始めた。
微かに人の声が聞こえてきた。一行の足取りは更に注意深く、重くなる。追い付いてきた一団が、訝しげに歩調を緩めた。
人声がはっきりと聞こえ、何かと争う物音も混じっている。騒々しい青年達が何かと戦い、娘達が悲鳴を上げていた。九十九(つづら)折(お)りの登山道は見通しが利かず、様子はわからない。
「なぁ、早よ、助けに行かんでえぇの?」
「舞い手さんに何かある方が大変だからね。これも大人になる為の試練だよ。もしダメでも、それはそれまでの人って事で……」
「えぇッ!? そんな薄情な……!」
鍵の番人の冷淡な答えに政晶は戦慄した。
「情に流されて助けに行って、舞い手さんに何かあると、もっとたくさんの人が困った事になるからね。勿論、生きていれば、見て見ぬフリなんてしないから、心配しないで。治療も救助もちゃんとするよ」
「それやったら早よ行こうな! あ、そうや、道通ったら遠回りやから、ここ真っ直ぐ登って近道しよ! な!」
「山の木立の暗がりは、土着の魔物でいっぱいだよ。危ないから道を外れないでね」
鍵の番人が、にっこり微笑んで釘を刺す。
分け入ろうとしていた政晶は、立ち止まって斜面を見上げた。
夏の日差しは、生い茂った木々の葉に遮られ、昼なお暗い。厚く降り積もった落ち葉と、下生えの陰性植物。朽ちた倒木。岩。藪。この山の暗がりに、政晶の目には見えない無数の何かが蠢いている。
お城出る時は、楽勝やけど気ぃ抜くな、みたいな事言うとったのに、嘘やったんか?
〈全く何事もないなら、そもそも護衛なんぞ要らぬわ。確かに、汝を安心させる為の配慮も少しは入っておるが……何をどう解釈したのだ?〉
政晶は、自分が考える「安全」と、この国の「安全」の基準が、大きく異なっている事に気付き、恥ずかしくなった。
ひとつ大きく息を吐き、前を向いて大股に歩きだす。
せめて早くその場所に着くように。それまで彼らの命があるように。政晶は祈る思いで、整備された登山道を進んだ。
程なく道の上、前方に魔獣が見えた。数日前に見た灰色の獣とは全くの別種だ。
土色の毛に覆われた蛇のように長い体が、登山道を塞いでいる。丸太よりも太い尾が、剣を持った青年達を薙ぎ払った。一人が躱し損ね、地面に叩きつけられる。
魔獣は、人間を軽く一呑みにできる口を開け、鎌首をもたげた。胴の腹側には、昆虫を思わせる足が多数生えている。
蛇か百足かどっちかに……いや、いやいやいや、そんなん言うとう場合ちゃう。早よあの人ら助けな。
〈落ち着け。汝は自身の安全を第一に考えよ〉
尾で打たれた青年とは、別の男が倒れている。ひねた青年を諭(さと)していた親戚の一人だ。落石に肩を押し潰され、呻いている。他の親戚達が岩をどかそうとしているが、男女五人掛かりでも、びくともしない。ひねた青年は、道の脇でそれを傍観していた。
彼らと魔獣の間に、騒々しい青年達三人が立ち塞がり、剣を構えている。
地面に叩きつけられた青年が、剣を支えに立ち上がった。恋人達は震える声で互いに励まし合っている。
「舞い手さんはそこでじっとしてるんだ」
〈灯〉に手で制され、政晶は無言で頷いた。〈斧〉が政晶の傍らに残り、他の三人が剣を抜きながら魔獣に近付く。鍵の番人とクロエは、政晶の横で魔獣を注視している。
「す……助太刀します」
〈雪〉の声は震えていたが、魔獣に睨まれ竦み上がっていた旅人達は、安堵の色を浮かべた。〈雪〉と〈灯〉が、倒れている男と魔獣の間に壁を展開する。
自分より小さい動物は餌と看做すのか、魔獣は逃げず、赤い舌をチロチロ出し入れして、新手の様子を伺っていた。
〈雪丸〉が短く呪文を唱えた。斜面から無数の落ち葉が舞い上がり、魔獣に降り注ぐ。魔獣は怯(ひる)み、首をくねらせた。〈雪〉の右手が、見えない手で?まれたように前へ出た。剣を持つ手に引っ張られるように数歩よろめいたが、その後は自分の意思で、魔獣の右側に走り込む。同時に〈灯〉も左へ回り込んだ。〈雪丸〉が別の呪文を唱え始める。
「あの……今の内にあの岩どけるん、手伝うたらあかんかな?」
「魔獣の排除が先だよ」
政晶が小声で申し出たが、鍵の番人に素っ気なく拒まれた。
青年達も二手に分かれ、じりじりと魔獣の側面に回り込む。
魔獣の前に一人取り残された形になっても〈雪丸〉は動じることなく詠唱を続けている。
巨体に似合わぬ素早さで、魔獣が前へ動いた。大きく開いた口が〈雪丸〉に迫る。一拍早く術が完成し、〈雪丸〉は剣を横に薙いだ。
稲妻のように輝く網が細長く広がり、魔獣の頭部を捕える。魔獣は輝く網に口を閉じ合わされたが、攻撃の勢いは衰えない。〈雪丸〉は、ぎりぎりまで引きつけ、横に飛んで避けた。魔獣はその勢いのまま、顔を強(したた)か地面に打ち付ける。〈雪丸〉はそれに構わず〈雪〉の隣に走った。
百足のように節のある足が蠢いている。
無数の足に支えられ、地面から浮いた腹側には、毛が生えていなかった。鱗に覆われているが、軟らかく、騎士達の剣が易々と切り裂く。
魔獣は、青緑色の血と腸(はらわた)を噴き出しながら、激しくのた打った。輝く網に絡め捕られ、口を開く事は出来ないが、巨体の下敷きになればひとたまりもない。
〈灯〉が、青年達を魔法の壁の後ろに退がらせる。自分達も警戒しつつ、苦痛にもがく魔獣から距離を取った。
政晶達が固唾を飲んで見守る中、魔獣の動きは次第に鈍くなり、やがて動かなくなった。
鍵の番人が進み出て、杖の先で魔獣の頭に触れた。
網の術で縦横に傷を刻まれ、ピクリとも動かない。小声で短い呪文を唱え、杖の先で一度、血塗れの頭を打つ。瞬く間もなく、魔獣の巨体が灰に変わる。
灰の中に拳大の赤い石がひとつ転がった。
「え……えぇッ!?」
そんな大技使えるんやったら、最初っから……
〈あれは死体を速やかに火葬する術だ。生きている内は効かん〉
あぁ、なんや、そうなんや。
騎士達が剣を納め、戻ってきた。〈雪丸〉が赤い石を拾う。青年達も道の脇に放り出していた荷物を拾って集まってきた。
「クロエ、この人に乗ってる岩を持ち上げて、道の端に置いて」
「はい」
うら若い侍女の姿をした使い魔は、鍵の番人の命令に素直に従い、軽々と岩を移動した。事情を知らない若者達が、驚きに言葉を失う。
鍵の番人はそれに構わず、男の傍らにしゃがんで傷の具合を調べに掛かった。
血が地面を赤黒く染めていた。
男の左足と右腕が、見慣れない方向に曲がっている。肩の骨が砕けたのか、上着が不自然に凹んでいた。即死しなかったのが不思議な程の重傷だ。断続的に呻き声は洩れるが、呼び掛けへの応答はない。
鍵の番人は、男の肩に掌を押し当て、呪文を唱えた。宿で使った童歌のような呪文とは全く異なる、重々しい響きの言葉が連なり、男の体に魔力が注ぎ込まれる。詠唱が進むにつれ、あり得ない方向に曲がっていた手足が自然な状態に伸び、凹んでいた肩が本来の膨らみを取り戻す。
「もう大丈夫だよ」
鍵の番人が声を掛けると、身内の女性が男を助け起こした。服は所々破れ、血と泥で汚れているが、体はすっかり元通りに復元されていた。
皆、口々に男の無事を喜び、騎士と鍵の番人に礼を述べる。唯一人、ひねた青年だけがつまらなそうにそっぽを向いていた。
「あいつがトロくて、落石避けらんなかったのが悪いのに。何で助けてやんなきゃなんねーんだよ。あいつの血の臭いで魔獣が来たんだっつーの」
自分は剣を抜かず、魔獣に近付こうともしなかった事を棚に上げ、一人離れた所に立ち、「大体、こいつらが弱過ぎるのが悪いんじゃねーか。この程度の魔獣、オレなら一発で倒せるのに、騎士がでしゃばりやがって。こいつらが足手纏いだから」等と呟いている。
男女二人連れの男が、クロエを見て、傍らの恋人に同意を求めるように驚きを口にした。
「あのコ、華奢なのに、凄ぇよな」
「あんな怪力女の何がいいのよ。私が一番可愛いって言ってくれたの、嘘だったの?!」
男は、突然怒り出した恋人に戸惑い、しどろもどろに説明する。
「えッ?! 何怒ってんだよ。あー、ホラ、重力制御の術かもしれないし、それでも難しいし……って言うか、凄ぇって言っただけじゃないか。何怒ってんだよ」
「変わった服着てるし、しかもそれ似合ってるし、私より背が高いし、あっちのがいいと思ったんでしょ? でも、あんな変な恰好するくらいだもん、あんな女、どうせ目立ちたがりで自意識過剰で性格ブスに決まってんのに、なんで……」
後は涙声で何を言っているか聞きとれない。
「いや、だから、何泣いてんだよ? お前が一番可愛いと思ってるし、大事だし、これ終わったら名乗り合うって言ったろ? 何泣いてんだよ?」
「……別に」
女はむくれたまま、男の腕にしがみつき、頬を寄せた。
周りの者達は、二人をニヤニヤ笑いながら見ている。クロエはそんな騒ぎに全く無関心で、政晶の隣で待機していた。
「名乗り合うって言うのは、結婚するって意味だよ。この辺じゃ、家族以外に本当の名前は教えないからね。名前を教えて家族になるんだよ」
政晶が質問する前に、鍵の番人が先回りして説明する。頷く政晶に、事情を知らない若者達が首を傾げた。