■薄紅の花 01.王都コイロス-30.友人夫婦 (2015年05月09日UP)
薄暗い森の中だった。
既に傾いた夕日は、生い茂る木々に遮られ、殆ど届かない。ひんやり湿った風が、双魚の肌を刺す。
教育係は、身震いした幼子を抱き直し、体の向きを変えた。
薄闇の中、丸木小屋が佇んでいた。窓から漏れる灯が、庭を照らしている。小屋の周囲は切り拓かれ、小さな畑になっていた。
「ここは、アミトスチグマ王国の東の端にある森だ。一番近い村まで、歩いてゆくなら、丸一日掛かる」
木の柵に囲まれた畑を歩きながら、王子の教育係が説明する。
幼子は、黙って頷いた。セリア・コイロスの王都以外の世界を殆ど知らない。森に立ち入ることさえ初めてで、未知への不安から、教育係にしがみつく。
教育係は、双魚を軽くゆすってあやし、扉を叩いた。
「突然、済まない。柄杓星(ひしゃくぼし)だ。折り入って頼みがある」
程なく扉が開き、教育係と同じ年頃の男が顔を出し、友を招じ入れた。
「久し振りだな。まぁ、入れ」
夕飯を終えたばかりらしい。友人の妻が、食卓を片付けている。
双魚がしがみついて離れようとしない為、教育係「柄杓星」は、幼子を膝に抱き、席に着いた。お茶を淹れ、妻も席に着く。
一口飲んで、友が口を開いた。
「何があった?」
「我が国は風前の灯火だ。八日前、王都が大きな災害に見舞われてな。新市街の大部分が壊滅した。結界が失われ、魔物が流入している」
「おいおい……」
夫婦は言葉を失い、教育係の顔を見た。
「混乱に乗じ、支援名目で、ボスリオキルスとインブリカータが、進軍して来た。事実上の侵略だ」
「戦争に……なるのか?」
「どうだろうな。王都は今、魔物に蹂躙され、人間の軍を相手取る余力はない。戦になるとすれば、我が国を戦場に、西と南がやり合うことになるだろう」
「そんな……」
「えー……まぁ、なんだ、そのー……その子は?」
亡びゆく国の友に掛ける言葉が見つからず、質問する。
「殿下が懇意になさっていた職人の子だ。この度のことで孤児になりながら、父の最後の作を城に届けてくれたのだ。王子はこの子を不憫に思し召し、養い親を探すよう、私にお命じになられた。……頼まれてくれぬか?」
「あぁ、いいとも、いいとも。お安い御用だ。……して、お前は?」
友の問いに、柄杓星は即答する。
「王都に戻る。それが私の務めだ。この子を引き受けてくれてありがとう。これは殿下からだ。受け取って欲しい」
友は、差し出された【無尽袋】を押し戴き、立ち上がった。妻も立ち、夫婦揃って柄杓星に歩み寄る。
柄杓星は双魚を抱いて、立ち上がった。幼子を抱き直し、その円らな眼(まなこ)を見詰める。不安に揺れる瞳は、疲労と恐怖に蝕まれ、表情を失っていた。
強く抱きしめ、頭を撫でて言い聞かせる。
「今からこの〈六車星(むぐるまぼし)〉の夫婦が、坊やのお父さんとお母さんだ。わからないことは遠慮なく聞いて、本当の親と同じように甘えて、安心して暮らすんだ。何があっても、コイロスに戻るんじゃない。いいね?」
言われたことを頭の中で反芻し、その意味を噛みしめる。
もう帰れないんだ……
家族はみんな居なくなってしまった。家もアーモンドの木も焼けてしまった。友達とお別れすることもできなかった。街は壊れてしまった。
今日から知らない森で、知らない人の子になれと言われても、どうすればいいのか。
疲れ切った幼子は、何も考えられず、自分を抱きしめる知らない大人を見詰め返す。
柄杓星は、幼子から目を逸らし、友を見た。幼子もその視線を追う。
哀れな孤児と亡びゆく国の友に向けられる目は、悲しみと慈しみに満ち、穏やかな光を湛えていた。二人を安心させようと微笑むが、上手くゆかず、代わりに涙が零れ落ちる。六車星は、袖で涙を拭い、妻は前掛けで顔を覆い、声を殺した。
「私はもう戻らねばならん。坊や、元気でな」
柄杓星が、双魚の背を軽く叩き、六車星にその身を渡す。幼子も逆らわず、隣国の大人の手に身を預けた。六車星は、幼子をしっかりと抱き止めた。
双魚が六車星の肩に頬を寄せる。日向の匂いがした。大きな手が頭を撫で、広い胸はあたたかい。
首を巡らせ振り向くと、柄杓星と目が合った。
双魚をここに連れて来た王子の教育係は、落ち着いた眼差しを友人夫婦と孤児に注いでいた。
穏やかな声が、今生の別れとは思えぬ短い言葉を告げる。
「六車星、達者でな。奥さんも、お元気で。坊や、生きろよ」
「柄杓星……この子のことは任せておけ。お前も、達者でな」
柄杓星が、友の逞しい肩を叩き、友の養い子の頬を撫でる。養い子を抱く養父の手に、力が籠る。
六車星は努めて明るく振るまおうとしたが、その声が悲しみに震えるのを抑えきれなかった。妻が前掛け越しに嗚咽を漏らす。
「ありがとう。元気でな」
それだけ言うと、柄杓星は友に背を向け、扉を開けた。【跳躍】の呪文を唱えながら、外に出る。
「鵬程(ほうてい)を越え 此地(このち)から彼地(かのち)へ駆ける
大逵(たいき)を手繰(たぐ)り折り重ね 一足(ひとあし)に跳ぶ この身を其処に」
詠唱が終わると同時に、柄杓星の姿が掻き消える。
森に懸る三日月の頼りない光が、無人の戸口を照らしていた。