■薄紅の花 01.王都コイロス-01.地下工房 (2015年05月09日UP)
印暦千七百三年三月二十五日。
朝食の後、初めて父が工房に入れてくれた。
それまでは、危ないから、と中を見せてくれることすらなかった秘密の場所だ。
双魚の家は、ラキュス湖南地方の小国セリア・コイロス王国で、魔法生物の制作工房を営んでいた。
家紋は制作器具のひとつである大釜。先祖は東の果ての出身だと伝わっている。千七百年程前の大破壊の頃、ラキュス湖南岸のこの国まで、避難してきたらしい。
大釜家の長男であるオリエンス・プルイナ・フム・アル・フート・フォーマルハウトは、生まれ日の星に因み、「双魚」と呼ばれていた。
オリエンスは父方の姓、プルイナは母方の姓。フム・アル・フートは父が付けた名、フォーマルハウトは母が付けた名。これが「双魚」の真名(まな)だった。
双魚は五歳の誕生日から、家に代々伝わる魔道書で、魔法生物の勉強を始めた。性質や注意点、素材、魔法生物を取り巻く現状や、歴史について、祖父と父から教わった。
十歳になった今日から、工房で製法を学ぶ。
扉の向こうは、思ったより広い部屋だった。
薬品の匂いが鼻に刺さり、思わず涙が滲む。
「臭いか。ま、その内、慣れる」
「いいや、早う慣れねば、話にならん」
父は気楽に笑ったが、祖父は難しい顔で言い、扉を閉めた。
棚が壁をぐるりと囲んでいる。たくさんの書物と、色とりどりの粉や、何だかよくわらかない液体の入った瓶が無数に並び、動物の皮や骨、角、乾燥させた植物などが、所狭しと詰め込まれていた。
床に置かれた木箱にも、それらが詰まり、溢れ、積み上がっている。
部屋の中央には、乱雑な作業机と、家紋にもなっている大釜が据えられていた。
机の上には、見たことのない器具と、書物と書きつけが、山積みになっている。
今は、炉に火が入っておらず、大釜は沈黙していた。
母さんに見つかったら、ぶっ飛ばされるな……
それが、最初の感想だった。双魚達五人兄弟の母は、キレイ好きで、家の中は常に清潔に保たれている。庭の手入れは、双魚も手伝うが、近所でも評判のいい庭だった。
母が地下室の惨状を目にすれば、父と祖父はタダでは済まないだろう。お小言のカミナリどころか、魔法で本当に【雷】を落とされるかもしれない。
「あの……これ、片付けなくていいの?」
「どこに何があるか、ちゃんとわかってるから、いいんだよ」
「下手に片付けると、わからくなるからの」
念の為に聞いてみたが、二人からは予想通りの答えが却って来た。双魚は改めて工房を見回し、こっそり溜め息を吐いた。
父と祖父は、どちらも末っ子だ。他の兄弟は魔物に食われたり、病に倒れたり、この辺りではありがちな理由で、生き残れなかったらしい。
幸いなことに、双魚を筆頭に弟三人妹一人の五人兄弟妹(きょうだい)は、一人も欠けることなく、今日まで生きてきた。
父と祖父は長命人種で、のんびり構えているが、祖母は双魚が生まれるずっと以前に亡くなり、母は毎年、老いてゆく。双魚達は、まだ子供なので、長命人種かどうか、わからない。
同じ街に遠縁の親戚の家が、数件あるらしい。いずれも魔法生物の工房を畳んで久しく、大釜家との付き合いもなくなっていた。
父が結婚できたのは、二百歳を超えてからだった。あんな家と縁続きになるなんて、と母方の親戚からは縁を切られ、駆け落ち同然だった。近所の噂話で知ったのは、妹が生まれた直後だった。
この家には、秘密が多い。