■薄紅の花 01.王都コイロス-26.おつかい (2015年05月09日UP)

 先程の番兵が、騎士を連れて戻ってきた。
 「殿下は只今、軍議中である」
 騎士はついて来るよう手振りで命じ、先に立って歩く。兵は双魚を担いだまま、従った。
 長い廊下を二組の足音が、殆ど走るような速さで渡る。
 分厚い石壁に囲まれた城内には、街の悲鳴は届かない。
 騎士が一枚の扉の前で立ち止まる。手で兵を留め、自分はノックの後、返事を待って入った。
 兵はここでようやく、双魚を担いだままだと気付いた。
 「立てるか?」
 幼い子供が小さく頷くと、その背を軽く叩いて、冷たい石床に下ろした。双魚と手を繋ぎ、直立不動で指示を待つ。その手は汗で湿り、冷たかった。
 程なく、分厚い扉が開けられ、先程の騎士に招じ入れられた。

 中央に円卓を配した会議室だ。
 重臣と騎士団の責任者が集められ、王と王子の御前で激論を戦わせていた。幾つか空席があり、人の居ないことが、目を引いた。
 下級兵士が跪こうとするのを、年若い王子が止める。
 「よい。今は非常時だ。……そちらの子供が大釜殿の倅か? こちらへ」
 兵士が繋いだ手を離し、騎士が双魚の背を押して、王子の傍まで歩かせた。
 双魚は何を言えばいいかわからず、口を結んだまま、王子を見た。
 「幼い身でよくぞ生き残り、届けてくれた。礼を言うぞ。ありがとう」
 王子が頬を緩め、双魚の頭を撫でる。双魚は慌てて、届け物をポケットから引っ張り出した。
 薄紅色の瓶。
 厳重に封印されて尚、圧倒的な存在感を示す魔法生物。双魚は、父の最後の作品を依頼人である王子の掌に乗せた。
 「しかと受け取ったぞ。後程、褒美をとらす。私の部屋で待て。……菓子なと与えて、丁重にもてなして欲しい」
 王子に命じられた騎士が、敬礼して双魚の手を引き、会議室を出る。騎士は幼子の歩みに合わせ、ゆっくりと城の奥へ向かった。

 廊下では誰ともすれ違わず、二人の足音だけが響く。魚の意匠が彫刻された扉の前で、立ち止まる。
 ノックに応答があり、ここで子供を待たせ、騎士だけが中に入った。
 ややあって、部屋付きの侍女が出て来た。手桶一杯分程の水が、宙を漂っている。侍女は双魚を一瞥し、顔を顰めた。
 禍の日以来、一度も体を洗っていない。煤と埃、血と汗、垢と泥に塗れている。衣服もあちこちが破れ、焦げていた。
 「じっとしていなさい」
 侍女は冷たい声で言い、双魚の体に水を這わせた。体と衣服の汚れが溶け合い、瞬く間に清水を泥水に変えた。侍女は一旦、子供から水を引き上げ、溶け込んだ汚れを手にした屑籠に移した。澄んだ水が、再び双魚を洗う。
 三度汚れを吐き出し、水は双魚から離れた。
 侍女は満足げに頷くと、双魚を廊下に残し、清水を連れてどこかへ行った。代わりに騎士が廊下に顔を出し、双魚を部屋に入れる。
 王子の私室には、騎士の他、初老の男性が一人居た。
 「殿下が軍議を終えられるまで、いい子にして待つのだぞ」
 騎士はそう言い置いて、出て行った。双魚は、知らない人と二人きりにされ、どうしたものかと途方に暮れた。
 男性は小さく息を吐き、やさしく微笑んで、立派な長椅子を掌で示した。
 「そう怖がらずともよい。殿下がお戻りになられるまで、ゆるりと休め」
 双魚は扉にチラリと視線を向け、初老の男性に目を戻した。跳ね橋のすぐそこまで地蟲が迫っている。もしかすると、既に堀を越えたかも知れない。
 こんな所でのんびりしていられる状況ではなかった。
 緊張に強張る口を叱咤し、双魚は言った。
 「だ……ダメ……! ダメです! 逃げなきゃ! 地蟲が……地蟲がそこに来てるんです! 僕の弟ももう食べられたか、潰されたかして、僕だけ兵隊さんが助けてくれて、だから、おじさんも早く逃げなきゃ! みんな食べられちゃう!」
 一旦口を開くと、恐怖心から言葉が溢れて止まらない。
 男性は静かに歩み寄り、腰をかがめた。幼子の潤んだ瞳に目線を合わせ、小さな肩に手を置いた。
 「よしよし、怖かったな。だが、大丈夫だ。城門前の地蟲は、騎士団が迎撃中だ。ここまでは来ない。安心しろ」
 それならもっと早く、街に入って来る前に、やっつけてくれればよかったのに。
 双魚は言葉を呑み込み、悔しさに口を結んだ。そうすれば、弟は生きてたのに。
 泣けば何かに負けるような気がして、双魚は涙を堪えた。
 肩に置かれた手は、大きくあたたかい。目の前の大人は、申し訳なさそうに言って、立ち上がった。
 「守ってやれなくて済まない。今は殿下がお見えになるまで、ここで体を休めてくれ。疲れ切っていては、いざと言う時に何もできんからな」
 双魚の頭をくしゃくしゃと撫で、長椅子に座らせた。

 長椅子はやわらかく、疲れ切った双魚の体を受け止めた。男性が、座卓を挟んだ向かいに腰を下ろす。丁度そこへ、侍女が茶と菓子を持って戻ってきた。
 別の侍女が、大人用の上着と、お針箱を持って入って来る。
 「繕います。それを脱いで、これを着なさい」
 有無を言わさず、双魚を着替えさせ、もう一人が、座卓に茶と菓子を並べる。
 「この服は、兵の鎧下です。返却の必要はありません。そのまま着ていなさい」
 侍女の物言いは、相変わらず冷たい。
 大人の服はぶかぶかだが、襟元の紐を引き絞り、袖を折れば着られなくもない。双魚は衣服を整え、座りなおした。お針子は、ボロボロの服を持って、扉脇の簡素な椅子に腰かけた。
 「さ、遠慮せず、食べなさい」
 男性にやさしい声で勧められ、並べられた菓子に目を落とす。初めて目にする立派な焼き菓子だ。木の実と干しブドウが、練り込まれている。
 弟にも食べさせてやりたい。甘い物が好きだから、脇目も振らず、飛び付くだろう。
 母が庭のアーモンドで作ってくれた素朴な焼き菓子を思い出した。口の周りをベタベタにして笑っていた弟の顔は、もう見られない。行儀が悪いと叱ってくれる父も、もう居ない。自分の分を分けてくれた祖父も、小さな弟妹達も、もう居なかった。庭で花を見ながら、一緒に焼き菓子を食べた友達も、近所の人達も、もう居ない。

 ひとりぼっちなんだ。

 家族の【涙】さえ失い、たったひとり、この世に取り残されてしまった。
 気付いてしまった幼子の目から、大粒の涙がこぼれる。男性が立ち上がり、声もなく涙を流す孤児を抱き上げた。何も言わず、体を小さく揺らしてあやす。
 繕いを終える頃には、泣き疲れて寝入っていた。男性が双魚を座椅子に下ろし、侍女が継ぎを当てた服に着替えさせる。その上から鎧下を着せ直し、椅子に寝かせる。疲れ切った子供は、目を覚まさなかった。
 お針子は自分の肩掛けを外し、双魚に掛けると、お針箱を持って退出した。
 「寝かせておいてやれ」
 男性は書き物机に向かい、侍女は一礼して退室した。

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第01章.王都コイロス
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