■薄紅の花 01.王都コイロス-25.地蟲来襲 (2015年05月09日UP)
「違う……ば、化け物だ……」
「て……敵襲ーッ! 起きろッ! 敵襲ーッ!」
兵士が声を張り上げた。
通りを行く僅かな人影が、足を止めてこちらを見る。道端の仮小屋から、何事かと避難者が顔を出す。
兵士と雀獲りの男が、何度も叫ぶ。
「敵襲ーッ! 城へ逃げろーッ! 敵襲ーッ!」
「化け物だーッ! 逃げろーッ!」
避難者の仮住まいが密集し、通りの見通しは悪い。幼い兄弟には、悲鳴や怒号と共に迫りくるモノの姿は、見えなかった。戦う力を持つ兵士が、血の気を失った顔で叫ぶことが、恐ろしかった。
兵士が双魚を抱え上げ、走りだした。手を振り解かれた弟が、泣きながら後を追う。兵の肩に担がれた双魚の目に、化け物の姿が映った。
それは、壁だった。
家々の屋根より高く、大通りの幅いっぱいに広がる土色の壁だ。
巨大な洞窟のような口を開け、全てを呑みこみながら迫り来る。
踏み潰された仮住まいには、朝食の準備をしている所もあった。化け物の通った跡に火の手が上がる。
人々が、炎と黒煙から逃れようと、火の気のない方向へ駆ける。
兵士と雀獲りの声で通りに出た避難者も、化け物から逃れるべく、身ひとつで走りだした。
人波に呑まれ、双魚を担いだ兵士と小さな弟が、引き離される。
「兄ちゃん、兄ちゃあぁあぁん! 待ってーッ! 兄ちゃあぁあぁぁぁ……」
弟の悲鳴が、人々の怒号に掻き消される。弟を見失った双魚が、兵の肩を叩いて叫ぶ。
「兵隊さん! 兵隊さんッ! 待ってッ! 弟が……!」
「諦めろ」
低く静かな声で返され、双魚は首を絞められたように、声が出せなくなった。
押し合う人の群に紛れ、小さな弟の声も姿も見つけられない。兵は、弟とはぐれた場所から、どんどん遠ざかる。
「地蟲だ。諦めろ」
地蟲は、土中深くで地脈の力を食って暮らすとされる巨大な芋虫だ。時折、地上に出て、動物の肉を喰らう。誰も成虫を見た者がなく、生態の多くは謎に包まれている。
双魚は父から、地蟲の目玉は魔法生物の素材になる、と聞いたことを思い出した。
堀に掛けられた跳ね橋が、上げられつつあった。太い鎖が金具を軋ませながら、巻き上げられてゆく。
人々は、何とか城に逃げ込もうと、堀端で右往左往していた。
術で飛ぶ者に飛べない者がしがみつき、却って避難の妨げになっている。堀に落ちる者、人の塊から抜け出そうともがく者、家に入れろと狂ったように扉を叩く者。
何事もなければ、王都には結界がある。【飛翔】や【跳躍】などの術は打ち消されるが、人々はそんなことも忘れ、術で逃れようと足掻いた。
路地に人がぎっしり詰まり、身動きが取れなくなっている。
通りで呆然と立ち竦む人々が、洞窟のような口に呑まれた。
「地の軛(くびき) 柵(しがらみ)離れ 静かなる 不可視(みえず)の翼 羽振(はふ)り行く 天路雲路(あまぢくもぢ)を 縦(ほしきまま)舞う」
双魚を抱えた兵は、早口に呪文を唱え、城のかなり手前から宙に舞った。人々の頭上高く空に抜け、閉まる寸前の跳ね橋の隙間に飛びこんだ。
腹に響く轟音を立て、橋が完全に巻き上げられた。門番が呪文を唱え、閂に【鍵】を掛ける。
地面に降り立った兵は、双魚を肩に担いだまま、顔見知りの兵に声を掛けながら、城の奥へ急ぐ。
「王子殿下にお届け物だ。通るぞ」
「お届け物? その子が?」
「この子が持ってる物だ。急ぐんでな」
魔法生物の瓶を持つ幼子を担ぎ、足早に城の内奥へ向かう。
堅く閉ざされた大扉の前で、番兵に止められた。用件を手短に伝える。番兵は目顔で何事か遣り取りすると、一人がどこかへ走って行った。
厚手の布越しに兵の苛立ちが伝わって来る。双魚は無意識に、鎧の肩を形成する刺繍を指先でなぞった。
通りも路地も、人でいっぱいだった。奇跡は望めない。
弟の秤は、群衆に踏み潰されたか、地蟲に呑まれたか。
不思議と双魚は涙が出なかった。悲しいとも思わない。
双魚は冷静に状況を分析し、何故、兵が小さい弟ではなく、自分を抱えて飛んだのか、考えた。
下級兵士の魔力では、鎧を発動させるだけでも、消耗が大きく、子供を二人も抱えて飛べない。
どちらかを選ばなければならなかった。
兵は、魔法生物を届ける為の付き添いを申し出ていた。
事情を知り、断片的にでも魔法生物の情報と、その物を持つ双魚を届ける為、足手纏いの弟を切り捨てたのだ。
弟はあんなに泣いていたのに、何故、自分は一粒の涙も出ないのか。双魚はそれが不思議だった。自分の薄情さに驚く。
兵の苛立ちの原因は、焦りだ。
焦るのは、急いでいるからだ。
急ぐのは、地蟲が城門に到ったからだ。
性能は不明だが、王子が魔法生物を使役すれば、状況を好転させられるかもしれない。
幼子が持つ小さな瓶に、一縷の望みを託しているのだ。