■薄紅の花 01.王都コイロス-13.朝の役所 (2015年05月09日UP)

 執務室の扉を爪でひっかく音だ。人間の爪ではない。もっと大きく鋭い爪が、木製の扉を掻き毟り、削っている。耳を澄ますと、合間に獣の息遣いも聞こえた。
 魔獣。
 昼間、第六街区で聞いた話を思い出す。生き埋めの救助をしていた大人達でさえ、何人も食われた。生きた人間の味を覚え、その魔力を得た魔獣が、街を徘徊している。
 家の焼け跡で見つけた足跡。
 大人五人分はあろうかと言う巨大な足。あの足が、扉を掻き毟り、削っている。
 分厚い扉が軋む。
 匂いを辿ってきたのなら、机に隠れていてもすぐに見つかる。巨大な魔獣だ。机を壊すか、ひっくり返すか、こんな簡易結界など、物の役に立たないだろう。
 執務室の闇に木が裂ける音が響く。
 僅かな隙間に爪を挿し、扉を裂く。
 獣の息遣いがはっきりと聞こえる。
 双魚は息を殺し、机の背板と絨緞の隙間に目を凝らした。
 絨緞の上に木屑が落ちるのが見える。カーテンの隙間から光が射している。
 木が裂ける音が大きくなり、木屑が木片になる。
 音が止んだ。
 魔獣の前足が扉に穿った穴を抜け、虚空を掻く。
 扉の内側をひっかく音に、荒い息の音が混じる。
 吐息と共に魔獣の体臭が、執務室へ入り込んだ。
 塒から飛び立つ鴉の声が鋭く響き、区役所の上を通り過ぎて行く。

 朝だ。

 双魚は身を起こし、背で机を押し上げた。身を捻って机と壁の隙間を広げ、簡易結界から出る。
 カーテンから漏れる朝日が、絨緞に細い線を引いていた。
 扉から灰色の毛に覆われた獣の前足が、突き出していた。
 前足は虚空を掻き、扉の穴を広げようと、もがいている。
 カーテンを開けた。東の空が朝焼けに染まっている。
 窓の鍵に手を掛けた。震える手は思うように動かず、無意味に金具を鳴らす。
 木の裂ける音で、弾かれたように振りかえる。
 扉から魔獣の鼻先が突き出していた。巨大な口は、子供など一呑みにしてしまうだろう。金色に輝く四つの目が双魚を捉えた。扉の穴に無理矢理、頭を捻じ込み、侵入を試みる。
 双魚は息を止め、鍵を動かした。窓が開き、冷たい風が頬を撫でる。背後で扉の砕ける音が響いた。双魚は振り向かず、窓枠に攀じ登り、そのまま外に身を躍らせる。
 真下の通りを大人が数人、歩いていた。双魚は右腕を横に伸ばし、早口に呪文を唱えた。
 「羽となり ゆるり風の背 ふわり乗り この身浮き 花弁と成し 空ひらり」
 思ったより大きな声が出たらしい。通行人が上を向く。その顔が驚愕と恐怖に歪む。
 術が発動し、双魚の体が羽毛のようにゆっくりと落下する。
 頭上を灰色の塊が飛んだ。向かいにある役所別館の壁を蹴り、本庁舎の壁に跳び、双魚より先に通りの石畳に降り立った。
 通行人が魔獣に向き直り、身構えた。
 双魚はまだ、宙を漂っている。魔獣は獲物を手近の人間に変え、牙を剥いた。身を低くし、躍りかかろうとした刹那、小さな光の矢が、金色の目を潰した。
 魔獣は甲高い悲鳴を上げ、飛び退った。残る三つの目が、人間共を睨めつける。
 通行人の中に戦いの心得のある者が居るようだ。双魚は安堵した。
 「扶桑の緒 赤烏紡ぎて 縄と成し 烏羽玉の 闇の妖魔を 縛めよ」
 別の男の術が完成し、光の縄が魔獣の鼻面を縛り上げた。口を開けられなくなった魔獣は、後退しながら前足で縄を掻く。前足は虚しく空を掻いた。縄は口を閉じ、尚も締め付ける。魔獣は首を振り、喉の奥で唸りながら、じりじりと後退る。
 双魚はふわりと着地した。丁度、大人達の背後で、守られる形になる。
 「あれ一匹か?」
 「わかりません」
 男に問われ、双魚は首を横に振った。男は魔獣に視線を戻し、呪文を唱えた。
 「風束ね 空を弓とし 矢と番え 狙い違わず 敵を撃つ」
 他の三人も、それぞれ別の呪文を唱える。光の矢が次々と魔獣の頭に突き立ち、光の縄が前足を縛り上げた。巨体が横倒しになる。
 先の縄が締まり、口を断ち切って消えた。魔獣は辺りに鮮血を撒き散らしてもがく、前足の縄は解けない。後の縄も前足を断ち、鼻面を失った顔が、声にならない悲鳴を上げた。
 双魚達が固唾を呑んで見守る中、魔獣は徐々に動きを鈍らせ、やがて路上に血溜まりを広げて、動かなくなった。
 女が双魚の肩を抱き、この場を離れるよう、促す。双魚は素直に従い、大人達と一緒に役所前を離れた。

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第01章.王都コイロス
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