■薄紅の花 01.王都コイロス-12.役所の夜 (2015年05月09日UP)
最上階の区長室も、無人だった。扉を閉め、鍵を掛ける。
窓の施錠を確認し、執務机を壁際に寄せた。がっしりした木製の机は重かったが、何とか一人でも動かせた。引出しが空になっているからだろう。
双魚は隙間から机の下に潜り、背で押し上げるようにして、机を壁に密着させた。
壁、机の天板の裏、背板、両袖の引出しに指で印をなぞり、小声で呪文を詠じる。最後に両手を床に着け、結びの言葉を唱えた。確かな手応えがあり、机の下の空間に簡易結界が張り巡らされる。物心つくかつかないかの頃から、繰り返し教えられた魔物から身を守る術だ。
双魚はほっと息をつき、分厚いカーテンに包まった。手足を縮め、床に横たわる。一日歩き通しで、くたくただった。
朝、炊き出しのスープを飲んだきりだが、空腹感はなかった。毛足の長い絨緞のお陰で、第三街区の区長宅より快適だった。
大人達がここに避難しなかったのは、【跳躍】で別の場所に避難したからだろう。
秤がどうしているか、気掛かりだった。
安全な場所に避難できただろうか。ちゃんと食べているだろうか。
弟も一応、簡易結界の術を使える。まだ範囲は狭く、効果も一時間と続かない。双魚はこの狭い空間だけなら、何とか夜明けまで持ち堪えられる。
風の唸りか、魔獣の遠吠えか。
長く尾を引く音に身を竦ませ、じっと息を殺す。
カーテンの隙間から漏れていた夕日の残滓も消え、執務室は完全な闇に包まれていた。
窓も扉も鍵が掛かっている。そのそも【補強】があるから、役所の建物はあの揺れに耐えられたのだ。大抵の建物には、【結界】も組込まれている。建物が無事なら、魔物は入り込めない筈だ。
不吉な考えが次々と浮かび、空っぽの胃が締め付けられる。
双魚は、そのひとつひとつを順に説き伏せ、何とか自分を落ち着かせようとした。
胸の奥から、後から後から、不安が湧いてくる。
本当に安全なら、大人達もここに避難して来る筈だ。何故、一人も居ないのか。
入口の貼り紙を思い出し、息を呑む。
冷たい手で心臓を鷲掴みにされ、震えが止まらなくなった。
結界が失われ、たいへん危険です。
建物に組込んだ術は、人が居なければ魔力が供給されず、効力を発揮しない。建築家の嘆きが甦る。
瓦礫はそのままで、役人はこの街区から撤退した。
第七街区は放棄された。国に見捨てられたのだ。
双魚一人の魔力では【結界】を起動できない。
だが今更、ここを出ることはできなかった。
部屋の鍵は全部閉めた。簡易結界もある。
自分に言い聞かせ、双魚は目を閉じた。
疲れが恐怖を上回り、眠りに落ちた。
目が覚めた。
物音だ。
何かをひっかく音がする。
目を開けても、閉じているのと同じ闇だ。音のする方に顔を向けた。頬に布団ではない何かが触れる。
どこで寝ているのか思い出し、体の芯が凍りついた。