■薄紅の花 02.森の家-15.緑の魔獣 (2015年06月28日UP)
魔獣が、娘の胴を咥えていた。
柔らかな肌に、鰐を横倒しにしたような口が食い込み、血が滴る。娘は自分の身に何が起こったのか把握できず、呆然としていた。
雄牛二頭分程の巨体を支える足は太く、緑色の毛皮の上からでも、逞しい筋肉がはっきりとわかる。蛇のように長い尾を左右にイライラと動かし、三つの目が双魚を睨みつけた。
先に我に返ったのは、双魚だった。
養母に教わった【麻酔】の呪文を唱えながら、魔獣に駆け寄る。魔獣は、巨体からは想像もつかない速さで双魚の手を逃れ、藪を飛び越えた。
着地しても地響きはなく、そのまま軽やかに走りだす。猫のようにしなやかな足が、物音ひとつ立てず、木立の間を駆け抜ける。
娘も我に返り、悲鳴を上げた。
「待てッ!」
藪を迂回し、後を追う。
懸命に駆けるが、彼我の距離は開くばかり。何とか魔獣の足を止めたいが、戦い慣れない双魚に、妙案は浮かばない。
狩人の娘は、魔獣の顎に捕われながら【鳥撃ち】の呪文を唱えた。
「空は弓 風を矢と成し翼撃つ」
普段は山鳩を落としている術で、魔獣の三つの目のひとつを撃つ。身を捻り、中央の目に掌を押し当てる。結びの言葉を唱えた瞬間、黄銅色の目玉が弾け飛んだ。
腹の底から震えあがるような悲鳴を上げ、魔獣が足を止める。
顎から解放された娘は、そのまま落ち葉の積もった林床を転がり、木立の間に逃れた。
魔獣は前足で額を押え、転げ回った。
藪が押し潰され、若木がヘシ折れる。
双魚は、大木の影で蹲る娘に駆け寄った。傷の具合を確かめる。胴と腕にペンで穿たれたような穴が、横一列に開き、衣服は流れ出た血でぐっしょり濡れていた。双魚を見上げた顔は血の気を失い、唇が白い。
「落ち着いて下さい。今、癒します」
双魚は娘の肩に左手を当て、力ある言葉を唱えた。養父母に教わった傷を癒す医術だ。
「命繕う狭間の糸よ 魔力を針に この身繕い 流れる血潮 現世に留め 黄泉路の扉 固く閉じ 明日に繋げよ この命」
娘の身体に魔力が注がれ、生命を繕う術が効力を顕す。見る間に穴が塞がり、出血が止む。苦痛から解放され、眉間の皺が消えた。
魔獣は咆哮を上げ、のたうち回っている。周囲の木々が薙ぎ倒され、そこだけ夏日が射し込んでいた。
傷口が全て塞がったことを見届け、双魚は【跳躍】の呪文を唱えた。
軽いめまいのような浮遊感に続いて、風景が一変する。
狩人の家の前、畑の柵の外に出た。
今夜の野菜を摘んでいた老婆が、笊を放り出し、二人に駆け寄る。
「魔獣に襲われました。傷は癒しましたけど、出血が酷かったので、当分、寝てた方がいいです」
問われる前に、双魚が説明した。娘は自らの両肩を抱き、震えていた。
老婆は孫娘を抱きしめ、その身を撫でさすって傷がないことを確めた。