■薄紅の花 02.森の家-10.ただ東へ (2015年06月24日UP)
紫の花を付けた薬草の群生地に出た。
双魚の頬を滴が伝う。養父に教えられ、初めて森で摘んだ胃腸薬の材料だった。
重い足を引きずり、群生地を抜ける。
昼過ぎ、養母に教えられた木の実を少し摘み、口に運んだ。
陽のある内はどちらを向いても、二人の面影がちらついた。
十年の思い出の重さに鈍る足を叱咤し、双魚は東へ向かう。
行商人の噂では、西は酷い状態らしい。
養父母の他、誰も頼る宛のない双魚は、東を目指した。
街に行っても、セリア・コイロスの出身だと知られれば、どんな扱いを受けるかわからない。
誰も知る人のない東へ。
東の国がここよりいい所か、悪い所か。ここと変わらないか。
名も知らぬ東の国を目指し、双魚は森を歩く。
日が傾き、風が冷えた。
そろそろ帰らなきゃ……
「鵬程を越え、此地から彼地へ駆け……」
双魚は、冷たい手で心臓を掴まれたように、口をつぐんだ。
帰る家も「おかえり」と迎え入れてくれる家族も失われた。
ひとしきり泣いた後、辺りを見回す。まだ、知っている場所だった。
大木の根元に円を描き、簡易結界を張る。幹にもたれ、座りこむと、向かいの藪に犇めく雑妖と目が合った。
外套の前を合わせ、膝を抱える。
陽が落ち、辺りが闇に包まれた。
風に揺れる木の葉のざわめきの他は、虫の音、鳥や獣の声しか聞こえない。
人の気配はなく、闇の中から滲み出る雑妖の姿が、はっきり見えるようになった。その声も、意味を成さない呟きが聞き取れるまでになる。
結界と外套の魔除けに阻まれ、双魚に近付くことはできない。遠巻きに眺め、やがて興味を失い、どこかへ去って行く。
体の疲れが、眠りに引きこむ。
双魚は、星灯も届かぬ森の奥で、たったひとり、夜を過ごした。
夜明けと共に歩きだす。
昼前には、知らない領域に足を踏み入れた。
時折、木立の切れ間で立ち止まり、太陽の位置から方位を確認する。
木苺の実を見つけ、少し摘んで口に入れた。養母が作ってくれた蜜煮の甘さを思い出し、涙が零れる。
頬を伝う滴を拭う気力すらないまま、足だけは東へ東へと向かう。
どこをどう歩いたか定かでないが、五日余り経った頃、小さな泉に出た。
ぽっかりと開けた草地に花が咲き乱れ、蝶や蜂が舞っている。初夏の日差しに輝く泉が、微風(そよかぜ)に漣(さざなみ)を立てる。
喉を潤そうと、畔に膝をつく。
風が止み、水鏡に影が落ちる。
ぼろきれのような男が映った。
目は落ち窪み、生気はなく、無精髭が顎を覆う。藪に引っ掛け、魔獣の牙や爪にかかった衣服は、あちこち破れて、血の染みや泥がこびり付いていた。
体の傷は術で治せても、衣服は針と糸でなければ、直せない。
あの日以来、体を洗っていないことに気付いた。
途端に頭の痒みを自覚する。汗と垢、フケと灰、血と泥に塗れた体は異臭を放っていた。この匂いが、獣や魔物を呼び寄せたのかもしれない。
双魚は【無尽袋】を降ろし、立ち上がった。
術で泉の水を起ち上げ、体を洗う。水を太い蛇のように伸ばし、体に巻きつける。頭の先から爪先まで、衣服と体の汚れを水に溶かしこむ。螺旋を描き、体の表面を這う水流は、瞬く間に濁った。
体から水を離し、木の根元に汚れを吐き出させる。土や灰、垢などの粉が、小さな山を作った。
水を泉に返し、改めて喉を潤した。
人心地ついたが、同時にどっと疲れが押し寄せる。
泉の脇に倒れるように横になり、目を閉じた。瞼越しに初夏の光が注ぐ。
蜂の羽音を聞く内に、眠りに落ちた。