ときのいわふね 09.怪異(2016年07月17日UP)

 日毎に夕暮れ時が早くなる。
 年々、夏が長く、秋と冬は短くなってゆくものの、キャンパスの並木はすっかり色付き、山に秋の訪れを告げていた。
 「大体、十月に冷房が要るなんてのは、南国並で、本州じゃおかしいんですよ。あの辺は亜熱帯ですよ。ここ十数年の間にどんどん気候がずれている証拠なのに、何の疑問もなく冷房をガンガン入れてるなんて……もっと、危機感と言うものをですね……」
 研究棟へ急ぐ(てる)の頭の中で、教授のぼやく声が回っている。
 教養科目で、どの学部の教授だったか忘れてしまったが、その言葉に初めて愕然としたことは、鮮明に覚えていた。
 小学生の頃は、もっと秋が早く、寒かった。冬になると校庭の水道が凍って、三時間目の休み時間まで解けなかった。花壇には霜柱も立っていた。
 どうして今まで、異常に気付かなかったのだろう。

 (てる)は、いつもの時間に研究棟に着いた。昨日の女子大生が先に来ていたので、早々に謝る。
 「お待たせしてすみません。え〜っと、なんて呼べば……?」
 廊下には二人の他、誰も居ない。実験室も無人だ。
 警戒しているのか、返事がないので先に名乗る。
 「あ、俺、水上(みなかみ)です」
 「常盤(ときわ)です。水上さん、さっそく昨日の件……」
 「ときわさん、ね……龍は来てるかな?」
 (てる)は壁に向き直った。
 二人の影が重なっている。その隣に、もうひとつの影があった。
 常盤(ときわ)が息を呑み、振り向く。二人の他は誰も居ない。窓の外には人が立てるような場所はない。
 声もない常盤(ときわ)に、(てる)は静かに言った。
 「これ、龍……庄野(しょうの)の影なんだ。どう言う理屈かわからないんだけど、影に触ると、話せるんだ。傍目(はため)には独り言にしか見えないけどね」
 「これ……が、夕方の幽霊の正体……?」
 「多分、そうだと思う」

 常盤は壁を見詰めたまま、当たり前の質問をした。
 「庄野君はどこなんですか?」
 「う〜ん……信じられないかもしれないけど、あいつは今、違う時代に居て、影だけが向こうの時代と繋がってるんだ」
 (てる)はそう言って壁に歩み寄り、右手を(あるじ)のない影に押し当てる。しばらく黙っていたが、そのままの姿勢でいつも通り、影に話し掛けた。
 「突然だけど、常盤さんって知ってる?」
 予告なしで自分の名前を出されたせいか、常盤が頬を赤らめた。(てる)は気付かないフリで龍の返事を待つ。
 「……え? 知らない?」
 「あ、あの、学部は違うんですけど、同じゼミの……」
 早口に言った常盤を手招きし、(てる)は言った。
 「影に触れてないと、声が伝わらないんだ」
 常盤は夕日を浴びる壁に近づき、恐る恐る手を伸ばした。漆喰の冷たい壁に震える手が触れる。常盤は先程と同じ言葉を繰り返した。声が震えるのは、得体の知れないものへの恐怖か、思いを懸ける人に触れる緊張なのか。

 〈同じゼミの? う〜ん。人数が多いからなぁ。他学部の人まではちょっと……〉
 庄野龍(しょうのりゅう)の意識が、常盤遙(ときわはるか)の脳裡(のうり)で「声」となって谺(こだま)する。「声が聞こえた」と言うより、聴覚野に直接、「声の情報が届いた」と言った方が近い。不思議に思う気持ちが勝り、恐怖心が消えてゆく。
 どうなっているのかわからないが、「庄野君は生きている」と確信する。それだけで、常盤遙(ときわはるか)の心は、ぬくもりに満たされた。
 「お前のこと、心配してくれてる人の一人だ。ホントに心当たりないのか?」
 〈顔を見れば見覚えあるかどうか、わかるかも知れないけど……〉
 申し訳なさそうな「声」が頭に響いた。
 常盤が影から手を離す。(てる)が驚いて振り向いた。
 彼女は(うつむ)いて、小さな声で言った。
 「もう……いいです。いいんです。生きてるってわかりましたから……それだけで……」
 常盤はそれだけ言うと、足早にその場を離れた。

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