■碩学の無能力者-12.引越し (2014年12月10日UP)

 連休明けの火曜日。
 朝早く家に帰った。
 父ちゃんは昨日、鍵屋さんを呼んで玄関の鍵を付け替えていた。新しい鍵を姉ちゃんと俺に一本ずつ渡して、送り出してくれた。
 父ちゃんが、昨日の内に事情を説明して回ったらしい。
 ゴミ捨て場の掃除をしていたご近所さん達が「おはよう、大変だったね」と、俺達に軽く会釈してくれた。
 いつもより、やや早く登校する。
 「友田くーん、待ってー」
 知らない女の子の声が、背後から俺を呼ぶ。何事かと足を止め、振り返る。
 知らない女の子は、走ってきて俺に追い付いた。
 肩より少し長い黒髪が、朝の光を受けて天使の輪のように輝いている。色白で華奢なその子は、俺と同じ瀬戸川第一中学の制服を着ていた。
 「おはよう。友田君。お祖母ちゃんが『これから大変だろうけど、頑張ってね』って」
 「あの……どちら様でしょう……?」
 全く心当たりがない。
 困惑のあまり、思わず敬語になって、震え声で聞いた。
 「あ……そっか…………そうだよね……わかんない……んだ………………そっか……」
 大人しそうな女の子は、少し項垂れたが、すぐに顔を上げて、努めて明るく名乗った。
 「私、須磨春花。隣の家の……」
 俺は反射的に後退した。ぶつかりそうになった自転車の高校生にベルを鳴らされ、散歩の犬にも吠えられた。
 「あぁああぁっ! すんません! すんません!」
 各方面にぺこぺこ頭を下げまくる俺を見て、須磨春花はクスッと笑って近付いてきた。
 「ちょっ……待て! 来るな!」
 「もう、いいんだよ。友田君のお母さん、今、居ないんでしょ?」
 そうだった。オカンもクソ兄貴も留置場だ。でも、近所の噂になって、それが後でオカンの耳に入ったら、今度こそ殺される。【見えない盾】は、もうないんだ。
 「私も、ウチの家族みんなも、友田君のお母さんは怖いけど、友田君自身や、お姉さんが嫌いで、避けてる訳じゃないから」
 「………………」
 思いがけない言葉に、須磨春花の顔を見詰める。真剣な眼差しが俺に注がれていた。
 「友田君とお姉さんが、酷いコト言われたりされたりしてるの、いつも聞こえてた……」
 「………………」
 何を言えばいいんだ……? 謝ればいいのか? いつもうるさくてすみませんって……
 須磨春花は、俺に構わず話し続けた。
 「でも、友田君もお姉さんも、お兄さんみたいにグレたりしないし、お隣なのに無視しろなんて、無茶な約束も、ちゃんと守ってて、凄く偉いなって思ってたの」
 「………………」
 ますます、何を言えばいいのかわからない。
 「あ……! あの、おばあさんって……?」
 須磨春花の家には、オカンに盆栽を破壊されて怒り狂っていたじいさんは居るが、ばあさんは見た事がない。
 「八百屋さん。商店街の八百源」
 「えっ……? でも、名前……?」
 八百源の正式名称は、本山商店八百源だ。
 「母方のお祖母ちゃんだから、苗字が違うの。フルネームは本山セツ」
 八百源の婆さんのやさしい笑顔と、朗らかな声が、脳裡を駆け巡る。そして、何故、単なる客の俺に、毎回、お駄賃をくれたのか、謎が解けた。
 八百源の婆さんは、孫の須磨春花から俺達の窮状を聞いて……
 「それでね、今日のお昼ご飯、どうするの?」
 「えっ昼? コンビニで弁当買うようにって金、渡されたけど……?」
 急に話題を変えられ、思わずバカ正直に答えてしまう。
 「やっぱり。じゃあ、これ、よかったらどうぞ。お母さんと作ったの」
 須磨春花は、鞄の中から水色の弁当包みを取り出した。
 「えっ? えぇえぇぇっ!? いっいや、そんな、悪いし……」
 「ずっと知ってたのに、助けてあげられなくて、ごめんね。私、こんな事くらいしかできないけど……迷惑かな?」
 「えっ? いや、あの、何で謝るんだよ? 迷惑掛けてんの、ウチの方だし……えっと……あの……」
 「………………」
 二人の間に沈黙が降りる。何事もなければ、幼馴染になる筈だった同い年の隣人は、弁当を持ったまま、俺から目を逸らした。
 「……ありがとう」
 俺は、魔法戦士の助言を思い出し、差し出された弁当をしっかり受け取った。
 それから二人並んで、でも、微妙に距離を開けて、学校に向かった。

 六月半ば。
 中間考査が終わり、衣替えが済み、期末までまだ間がある校内には、のんびりした空気が漂っていた。
 梅雨の晴れ間に真夏日が続き、木々の緑は濃い。登校してくる白い夏服が、日差しを反射して輝いていた。校庭の紫陽花が、瑞々しい葉の上に淡い色の花を咲かせている。年配の校務員さんが、ホースで水遣りしている。
 水のアーチが陽に煌めき、小さな虹を作っていた。
 毎日通って見慣れている筈の風景が、鮮やかな色彩を持って、輝いている事に気付いた。
 太陽が遍く照らすこの世界は、こんなに明るい。
 どうして、今までこんな事に気付かなかったんだろう。
 初めて認識した光の明るさの中で、視界の彩度が一気に上がった。重くのしかかっていた灰色のレイヤーを削除したような、劇的な変化に戸惑う。
 同時に、改めてはっきりと認識した世界の美しさに、心が揺さぶられた。
 ボーっと突っ立っている俺に、校務員さんが話し掛けてきた。
 「おはよう。どうした? 教室、行かないのか?」
 「あ、おはようございます。行きます。あの、小さい虹、キレイだなって思って……」
 「そうか。こんなん作り方を知ってりゃ、いつでも見える。理科の先生に聞いてみな」
 校務員のおじさんは、そう言って笑った。俺も釣られて笑う。
 クッキーでも虹でも、作り方さえ知っていれば、自分の手で作れるんだ……
 お礼を言って教室に向かう俺の背中に、校務員さんが軽い調子で、言葉を投げた。
 「いい顔で笑えるようになって、良かったな」
 「えっ?」
 足を止めて振り返る。
 「直接、教える機会はないが、俺もこの仕事、長いからな。訳ありの子は、目を見ればわかる。何があったか知らんが、良かったな」
 俺は、もう一度お礼を言って、校舎に駆け込んだ。
 滲んでくる涙を半袖のカッターシャツの肩で拭いて、教室に入る。
 知らなかった。何で今まで気付かなかったんだろう? 俺、ほぼ接点のない人にも心配されるくらい、今までずっと、目が死んでたのか……
 オカンは結局、起訴されなかった。
 釈放後は、花隈の祖母ちゃんと義一伯父さんが、本家に連れて帰った。前科者の子にならなくて済むから、これはこれでよかったのかもしれない。
 クソ兄貴は公判中で、拘置所に移された。来月中には一審判決が出るらしい。
 父ちゃんは、会社に事情を話して、暫くは帝都の本社で仕事ができるようになった。七月一日付で、師国(しこく)の田岐(たぬき)支社に転勤する。
 今月末には天神府(てんじんふ)の社宅を引き払って、会社が手配してくれた田岐市内のマンションに移る事になった。
 離婚調停は、不調に終わった。調停の最中にオカンが父ちゃんを殴って、止めに入った調停委員にも暴力を振るって、全く話にならなかったからだ。
 今は裁判をしていて、こちらは今月中にも判決が出る。
 俺は、父ちゃんが代理で、姉ちゃんは、自分で、改名の手続きをした。俺は「幸(こう)助(すけ)」、姉ちゃんは「幸枝(さちえ)」になる予定。
 虐待した親が付けた変な名前で、この名前を呼ばれるのも、名乗るのも苦痛だ、と言う証拠を書類に添えて提出した。今は結果待ちだ。
 DNA鑑定の結果は、先週届いた。
 クソ兄貴は浮気の子で、姉ちゃんと俺は、父ちゃんの子だった。
 父ちゃんは、姉ちゃんと俺を抱きしめて「これからもずっと家族だ」と言ってくれた。もし、俺達が浮気の子でも、何とかして、オカンから引き離してくれると言っていた。
 この人は、離れて暮らしていても、ちゃんと俺達の父親だった。
 クソ兄貴の親子関係不存在確認調停をして、「友田創歌瑠」は、父不詳の「花隈創歌瑠」になった。
 父ちゃんは、創歌瑠に掛かった学費の返還をオカンに求め、オカンの実家の花隈家が一括で支払った。それから、バレンタイン事件で友田家が払った賠償金も返してくれた。
 父ちゃんは、そのお金で親戚に借金を返し、住宅ローンも一括で繰上げ返済して、家を売りに出した。まだ、買手はついてないけど、どうせ月末には、俺達姉弟も父ちゃんと一緒に田岐市に引越す。
 銀の腕環を持って、占い師の爺さんの店Ova‐avisに行った。
 爺さんは、相変わらずニコニコして「まだ、お母さんに会う機会があるみたいだから、念の為に持ってていいよ。引越しの前の日に返してくれればいいから」と、言ってくれた。
 オカンが敵とか、一言も言ってないのに、この人、マジ凄ぇ。
 俺は、その言葉に甘えて、もう暫くデーレヴォを手元に置かせてもらう事にした。
 家に帰っても、誰にも脅かされる事なく、平穏に過ごせている。
 父ちゃんと親戚みんなが、俺達を守ってくれる味方。
 近所の人達は、姉ちゃんと俺を見守ってくれていた。
 ほぼ接点のない校務員さんも気にかけてくれていた。
 暴力も、暴言もない。
 ただ、それだけの日々が、こんなに幸せだとは、知らなかった。
 家事の負担が前と同じでも、全然苦にならない。寧ろ、俺達の家を自分で管理している実感が湧いて、充実した気分だ。いい思い出はなかったけど、もうすぐ、この家ともお別れだ。それまで大切にしよう。
 テーブルは、警察に確認してから捨てた。
 オカンの持ち物は、もう何も残っていない。
 義一伯父さんが、売れる物は全部売って、残りは捨てた。そのお金でカード利用額の残高を繰上げ払いした。オカンは、クレジットカードを毎月一万円払いのリボルビングで使っていて、限度額いっぱいまで、キャッシングもしていた。
 オカンに巻き上げられていた俺達姉弟の貯金とお年玉、姉ちゃんのバイト代も、花隈家が、田んぼや畑を売って、一括で返してくれた。前から欲しがっていた会社が買って、工場を建てるらしい。
 父ちゃんは、浮気相手の龍寿にも慰謝料を請求して、こちらも龍寿の実家が払った。
 バカな身内が居ると、尻拭いが大変だ。
 オカンがカードで作った借金は、利息が雪だるま式に膨らんでいて、持ち物を売っただけでは返済しきれず、離婚成立後に自己破産させられるらしい。
 自己破産すると、裁判所の許可がないと引越せなくなって、公認会計士とかの資格が要る仕事や、保険の勧誘員とかはできなくなる。信用情報が更新されるまで、七年はローンが組めず、クレジットカードも作れなくなって、新しい借金ができなくなる。
 今までのオカンは、生活費や子供の金まで使い込んで、更に借金までして、帝都で派手に遊び歩く生活をしていた。
 これからのオカンは、何もかも取り上げられて、過疎地の実家で、家業の農業を手伝う地味な生活をする事になる。
 まともな神経の働き者なら、当たり前の地に足のついた普通の暮らしだ。
 浪費家で怠け者のオカンにとっては、この世の地獄みたいなもんだろう。
 運転免許を持ってないオカンは、周囲に田んぼと畑しかない実家からは、まず逃げられない。裁判の日だけは、帝都に出てくるけど、そのまま逃げないように、義一伯父さんと礼二伯父さんが、ガッチリ捕まえている。
 裁判所で見たオカンは、別人のようにボロボロになっていた。
 地味な服を着せられて、化粧もしていなかったから、もしかすると、これが四十四歳と言う年相応の、素の状態なのかもしれない。
 目だけが異様にギラギラしていて、不気味だった。
 須磨春花は、毎日、俺に弁当を作ってくれる。最近は、一人で作っていると言っていた。
 普通に美味い。
 姉ちゃんのご飯も、店長の料理も美味いが、それとはまた別の美味しさだった。どう違うのか、説明が難しいが、強いて言うなら、誰かの為に作った家のご飯の味。
 「普通の幸せ」を形にして、ぎゅうぎゅうに詰めてある。
 それが、須磨春花の弁当だった。
 相変わらず、通学路では微妙な距離を保って、挨拶以外の会話はしない。
 帰宅後、洗った弁当箱と姉ちゃんと一緒に作ったクッキーを持って、お隣にお礼を言いに行く。姉ちゃんは、チョコが怖いのは相変わらずなので、チョコチップクッキー以外の物を、色々作っている。
 これまで、全く会話がなかったから、弁当とクッキーのお礼と感想を交わしたり、学校の話をするのは、とても新鮮だった。
 近所の人達とも、普通に挨拶や世間話ができるようになった。
 学校でも、少しずつ赤穂と巴以外の奴とも喋るようになった。
 校務員さんとも、毎朝挨拶する。
 西代班長に「人見知り、治ったんだな」と言われた。そう言う事にしておいた方が平和そうなので、否定はしなかった。

 六月の第三金曜日。
 昼休みに思い切って、赤穂と巴を家に誘ってみた。
 「月末に引越す事になったんだけど、明日、良かったら家に来てくれないか?」
 「引越しって、何処にだよ?」
 「事情があって言えないんだ。すまん。手紙は無理だけど、メールはするから」
 赤穂はそれ以上つっこまず、明日の昼過ぎに、俺の家に来ると約束してくれた。事情を知っている巴も、快諾してくれた。
 「友田君、待って」
 帰りに瀬戸川公園沿いの道を歩いていると、背後から塩屋さんに呼び止められた。
 まだ部活の時間帯で、他に中学生の姿はない。
 塩屋さんは、小走りになって俺に追いついた。
 「ちょっと……公園、寄ってくれる?」
 何の用だろう? ギョウチュウ検査は、ちゃんと提出したよな?
 俺は戸惑いながらも頷いて、塩屋さんと一緒に公園に入った。
 芝生エリアから少し離れた木陰のベンチに座る。二人の間には通学鞄。芝生の上でよちよち歩きの子供と、その母親達が遊んでいる。
 「あ……あのね……あの……」
 塩屋さんは、黄色い風船で遊んでいるちびっこの方を見たまま、震える声で言った。
 「須磨さんから聞いたんだけど……チョコ……って言うか、バレンタイン……ダメだったんだってね。私……知らなくって……友田君、迷惑掛けちゃって、ゴメンね」
 「えっ!? あ……い、いやいや、そんな、そんなのフツー知らないし! いいって! 塩屋さん、全然悪くないから! いいから!」
 「ベルマーク拾うの、手伝ってくれてありがとう」
 塩屋さんは、ちょっとこっちを向いて、また、すぐに子供達が遊ぶ芝生に目を戻した。
 話が見えない。
 「ベルマーク?」
 「去年……二学期の終わり頃……」
 思い出した。
 去年、塩屋さんは厚生委員だった。放課後、クラスで集めたベルマークを生徒会室に持っていく時に、手が滑って回収用の紙袋を落としてしまった。
 塩屋さんは階段を降りる途中、俺は昇るところだった。
 他に誰も居なかったので、俺は無言で階段に散らばった大量のベルマークをちまちま拾い集めて、袋に入れた。特に会話とかは、なかった筈だ。
 「あのチョコ、その時のお礼。手伝ってもらった時は、慌ててたから、ちゃんとお礼言えなくて、いつか言わなきゃって……それで、遅くなったけど、お礼チョコ、渡そうと思って……」
 なんだ。ハハッ……
 好きとか、告白とかじゃなくて、お礼だったのか。ほぼ義理だ。
 「いやいや、いいよいいよ。気を遣わなくて。そんなの、誰か困ってたら、助けるのなんて当たり前だし」
 塩屋さんは、鞄から小さな紙袋を出した。
 「クッキーだったら大丈夫って、聞いたから……」
 情報源は須磨春花か。受け取らない理由は……もうない。
 お礼を言って、有難く受け取った。
 家に帰って紙袋を開けたら、チャック袋に入った手作りらしき歪なアーモンドクッキーの他に、小さな封筒が入っていた。
 可愛い便箋には、さっきの話の他「それから、ずっと見ていました。何でも一生懸命まじめに頑張っている友田君は、かっこいい人だと思います。これからも頑張って下さい」と言う謎のメッセージと、携帯のメルアドが書いてあった。
 お礼のチャンスを伺い、凝視していた事の申告と……恩人への社交辞令……なのか?
 真意はよくわからないが、悪い気はしなかった。
 アーモンドクッキーは、香ばしくて美味しかった。須磨春花に言うのと同じノリで、お礼と感想のメールを送った。

 件名:友田です
 本文:クッキーわざわざありがとうございました。
 香ばしくて美味しかったです。今度、自分でも作ってみます。

 土曜の午後。
 俺の家に初めて「友達」が来た。
 赤穂と巴を居間に通して、卓袱台に珈琲と姉ちゃんの手作りクッキーを出す。
 他愛ない話をしてオカルト話をして、その流れで体力モードのデーレヴォを呼び出した。
 「スゲー! マジックアイテム、生で見んの初めてなんだ! スゲー!」
 赤穂は大興奮でスゲーを連発していた。感動に言葉が追い付かないらしい。レンタルだから、もうすぐ返す事を言うと、物凄く残念そうに悔しがった。
 巴は、最近かなり元気になってきていた。以前よりも口数が増えて、今日も普通に会話に参加している。まだ、赤穂の冗談に弱々しく笑う程度だけど、始業式の日よりも、ずっと生き生きとしていた。
 夕飯前に解散し、三人でメルアドを交換した。
 塩屋さんから、要点がよくわからない内容のメールが来ていた。なんだかよくわからないまま、当たり障りのないレスを送った。
 日曜は、家族三人で引越しの準備を進めた。
 すぐに使わない物を段ボールに詰める。アルバムは全部花隈家に送った。もう会えないから、せめて写真だけでも祖母ちゃんの許へ。
 火曜日に裁判が終わって、離婚が成立した。
 姉ちゃんと俺の親権者は、父ちゃんに決まって、オカンは俺達の養育費と父ちゃんへの慰謝料と使い込んだ家計費を一括払いする事になった。すぐに花隈の本家が、父ちゃんの口座に振り込んでくれた。
 俺達の改名は、引越し前に通知が来た。普通はその名前の使用実績が要るみたいだけど、すんなり認められた。
 「店長の名前が、長田正枝さんなの。新しい名前に一文字下さいって言ったら、何か、すごく喜んでくれて……」
 姉ちゃんは、嬉しそうに名前の由来を説明した。
 塩屋さんから「これからもメールしてもいい?」と、メールがきていたので、「別にいちいち俺の許可とか、要らないんじゃない?」と返信しておいた。
 六月最後の金曜日。
 瀬戸川中学に通う最後の日。
 帰りのホームルームで、明石先生が俺の転校を説明した。
 親しくなった友達には、もう言ってあったし、他の奴らは、空気な俺が、居ても居なくても同じだから、反応は薄かった。
 須磨春花の弁当も今日で最後だ。
 今日は、姉ちゃんと二人でお隣に行って、厚くお礼を述べた。
 帰り際、須磨春花に名刺サイズの可愛いカードを渡された。携帯のアドレスが書いてある。向こうでの生活が落ち着いたら、必ずメールすると約束して、須磨家を出る。
 そのまま家に帰らず、Ova‐avisに行った。
 「長い間貸して下さって、ありがとうございました」
 「お役に立てたみたいで、良かったよ」
 「あの……ウチの祖母のお知り合いなんですか? 墓参り……」
 気になっていた事を聞いてみた。
 「あぁ、それね。私は知り合いじゃないけど、君達の事がとても心配で、成仏出来てないみたいでね。頼まれたんだよ」
 えーっと、それはつまり、ホットリーディングって奴ですか? 祖母ちゃんの幽霊から色々聞いて、占いじゃなかった……? いや、でも、霊感スゲー!
 明日、家族三人でお墓参りに行こう。
 姉ちゃんは、三千円で新しい名前を鑑定してもらった。
 爺さんは、鑑定書を書きながらニコニコしていた。
 「うん。元の名前はあんまり良くなかったけど、新しい名前はいい名前だよ。幸せが撓に実る枝……良い名だ」
 俺は、最後にもう一度、体力モードで腕環を身に着けた。
 巴先生から服をもらった事を説明して、姉ちゃんと二人でお礼を言う。
 「デーレヴォ、短い間だったけど楽しかった。いっぱい助けてくれて、ありがとう」
 「妹ができたみたいで、楽しかった。ヘンな事手伝わせちゃって、ごめんね」
 デーレヴォが、爺さんを見て首を傾げる。爺さんは黙って頷いた。
 「どういたしまして」
 腕環のゴーレムが、俺達に向き直ってにっこり微笑む。銀色の瞳が潤んでいた。
 「バイバイ」
 「……ありがとう。さようなら」
 姉ちゃんが小さく手を振り、俺はもう一度、お礼を言って腕環を外した。
 デーレヴォの形が揺らぎ、寂しそうな微笑みが、靄になって消える。その眼から透きとおる滴が、ひとつ零れた。灯を受けてキラキラと光り、カウンターに落ちて弾けた。
 腕環と五百円玉が交換され、正式にレンタルが終了した。
 「幸助君も、幸枝さんも、元気でな」
 「はい」
 「大変お世話になり、ありがとうございました」
 姉ちゃんと俺は、何度も頭を下げて店を出た。
 大勢の人に助けられて勝ち取った、新しい可能性。
 自分自身の為、助けてくれた人達の恩に報いる為……誰かの幸せを手助けして、自分も善意の助けを素直に受ける……幸助の名に恥じないように、生きて行きたい。
 これから、この新しい名前で、新しい人生が始まる。


【あとがき】
 魔法の腕環デーレヴォの存在は、勇気を出して行動するきっかけ。
 これ自体はあんまり役に立っていないと言う……

 父ちゃんも実はひっそり、この姉弟を虐待しています。
 あんな事件を起こした母親と離婚しなかったこと。
 隣家との和解の為に、子供たちの成育に悪影響のある合意を結んだこと。
 父方祖父母と同居していたとは言え、事件を起こした母親の許に放置したこと。
 ケータイの番号とアドレスは渡してあるものの、緊急時以外は連絡できないこと。
 母親に妨害されていたとはいえ、子供たち自身と直接話をする機会を設けなかったこと。

 仕事を言い訳にネグレクトしていたことが、事態を著しく悪化させていました。
 あの事件の直後に離婚して、母親に会わせなければ、少なくとも暴力や暴言、強制労働、交友関係の制限、バイト代やお年玉や教育資金の奪取などは起こりませんでした。
 遅きに失した感はありますが、浮気と虐待の証拠を突きつけられ、目を覚まして頑張るだけ、まだマシではありますが……

 このお話はフィクションですが、「名の変更許可申立」は、実在する手続きです。
 この姉弟同様、「虐待親に付けられた珍妙な名前で、その名で呼ばれることが苦痛である」と言うのも、変更理由として認められます。
 満15歳以上なら、家庭裁判所に行き、自分で手続きすることも可能です。詳細は、最寄りの家庭裁判所で調べて下さい。
 経済的に自立して、親と縁を切り、逃げ切ってから変更することをお勧めします。

11.決着 ←前 最初に戻る⇒ 01.新学期
↑ページトップへ↑

copyright © 2014- 数多の花 All Rights Reserved.