■碩学の無能力者-08.作戦 (2014年12月10日UP)

 晩ご飯の支度をしていると、姉ちゃんが帰ってきた。今夜の賄いは豚の生姜焼き。ご飯と味噌汁とサラダを足して完成。
 今夜も、ご飯を食べながら作戦会議だ。
 「一昨日までのメールと写真、動画、音声をDVD‐R一枚にまとめて保存しといた」
 「うん、ありがとう」
 俺が寝てる間にも、姉ちゃんは色々やってくれていた。
 「で、証拠を北斗星の金庫で預かってもらえた。もし、家で何かあっても心配しないで」
 北斗星は姉ちゃんがバイトしてる食堂だ。
 証拠の保護は、どれだけ念入りにしてもいい。毎日の地味で地道な情報収集が、俺達姉弟の未来を守ってくれる。
 「お母さんね、二股で浮気してる。お父さん入れて三股」
 俺は味噌汁が鼻に入ってむせた。
 姉ちゃんは、俺が落ち着くのを待って続けた。
 「今日、ライブやってるバンドのギターの人に、メール送りまくってる。その人は無視してるみたいで、レスなし。その内、ライブ出禁(できん)になるんじゃないかな」
 「オカンの片思いってこと?」
 「多分ね。っていうか、ストーカー? 無視されてるのに毎日何十通もメールしてんの」
 「うわぁ……でも、よく送り先、特定できたなぁ。姉ちゃんスゲー」
 「そんなの簡単よ。今日のライブが何時までか、ファイアバードのサイトで調べてたら、メールに何回も出てきたバンド名が載っててね。バンドのブログにリンクしてあったから、見てみたら、メールに出てきた芸名が載ってたの。ファイアバードのサイトには、楽屋押しかけ禁止とか、打ち上げ乱入禁止とか、トップの目立つ所に載ってた」
 まぁ、熱心すぎるファンって、どこにでもいるからなぁ……
 「もう一人の現在進行形で付き合ってる人は、明日のお昼からデートみたい」
 「それって……」
 「浮気の決定的な証拠を押さえるチャンスよ」
 体の芯が熱くなり、箸を持つ手が震える。
 姉ちゃんは、声をひそめて明日の作戦を説明した。

 土曜日、作戦開始六日目にして、俺達は大きな山場を迎えた。
 今日の行動の成否が、未来を決める。
 オカンは昨夜、終電前に帰ってきた。今日は十時半に美容院の予約があるから、九時に起こせと言われた。
 今は、朝食が終わって外出準備中だ。
 デーレヴォに、フル充電したデジカメとICレコーダ、使い捨てカメラと充電器を入れた遠足用のリュックを持たせた。靴を履かせ、透明化させて玄関で待機させる。
 姉ちゃんの指示で、デーレヴォには、既に色々頼んである。
 オカンが帰宅するまで透明化を解除せず、尾行を続ける。
 オカンが乗り物に乗ったら、飛んで追跡する。
 待ち合わせ先で男と会ったら、使い捨てカメラで写真を撮る。特に親密な動作は必ず。
 二人の室内での会話をICレコーダで録音する。
 二人の移動中の様子は、デジカメの動画機能で撮る。
 ホテルや相手の家に行ったら、入る様子を使い捨てカメラで撮る。その建物の外観と所在地がわかる物……郵便受けや電柱の住所表示も、あれば撮る。
 充電が切れた場合、誰にも見つからず且つ、二人から離れずに実行可能なら充電する。
 俺は緊張し過ぎて、今朝は起きてから、何度もトイレに行っている。
 黒江さんの事、メンタル弱いとか、言えた義理じゃなかった。胃まで痛くなってきた。
 姉ちゃんは、全くいつも通りに振舞って、オカンよりも先に家を出ていた。
 オカンはブランド服に身を包み、ばっちりメイクをキメて、半年分の生活費を注ぎ込んだブランドバッグを持って「行ってきます」とも、いつ帰るとも言わずに出て行った。
 デーレヴォが尾行を開始する。
 玄関の鍵を掛けると、緊張の糸が切れたのか、膝が笑って力が入らなくなった。廊下に這い上がって壁にもたれ、大きく息を吐き出す。
 後はデーレヴォに任せるしかない。
 巴先生は、使い魔の黒江さんが見た物、聞いた音を同時に知る事が出来る。
 でも、俺は、デーレヴォが何を見聞きしても、わからない。
 契約で結ばれた使い魔と違い、ゴーレムと使用者の知覚は、接続されないからだ。
 巴先生なら、黒江さんにケータイを持たせていれば、マズいと思った時に電話で追加の指示を出して、危機を回避できる。
 でも、俺にはデーレヴォの無事を祈る事しかできない。
 宿題は昨日の夜に終わらせてある。自室に戻り、二度寝の体勢に入る。
 俺だけ何もしないで寝るなんて……
 姉ちゃんは、店長に事情を話して、今日のバイトを休ませてもらった。今は先回りして、オカン達の待ち合わせ場所に向かっている。万一、デーレヴォが撮れなかった場合に備えて、姉ちゃんが行ける所まで行って撮る。所謂、保険だ。

 昨夜は、作戦会議の途中から、デーレヴォにも参加してもらった。
 機器類の扱い方は教えたけど、動いている人物を撮るのはぶっつけ本番だ。どんな動作を撮るのか、姉ちゃんが俺を使って一応、見本は示してある。
 姉ちゃんは、真剣な表情でデーレヴォに説明した。
 「食べ物と食器の種類は問わないけど、こうやって【異性に何か食べさせる】のは、親密な動作なの。いい? 今からやるのをよく見て覚えてね」
 そう言うと、豚の生姜焼きをスプーンに乗せて、俺に「はい、あーんして」と言った。
 バカップルの演技だから、姉ちゃんは超・笑顔だ。
 ……これは見本。模範演技なんだ。
 俺は、自分に何度も言い聞かせながら、目をつぶって「あーん」した。
 口に入れられた生姜焼きをよく噛んで飲み下す。味はよくわからなかった。
 デーレヴォは「その動作ですね。記憶しました」と、何の感慨もなく言っただけだった。
 拍子抜けしたが、キャーキャー騒がれるよりは、マシかも知れない。
 「次は、これ」
 姉ちゃんは、牛乳を注いだグラスにストローを二本挿した。
 俺の隣に座って、二人の間にグラスを置く。
 「まさか……」
 「そう。そのまさか。【一杯の飲み物を二人で分かち合う】よ」
 姉ちゃんは、飽くまで真剣そのものだ。さっきのもそうだけど、今時、こんなベタなコトするカップル、居るのか!?
 ……いや、あのオカン(帝都在住、主婦、44歳)ならやりかねん。
 つーか、やる。実際、【はい、あーんして】はたまにクソ兄貴にやる。奴も機嫌のいい時は「ママ、おいちいね」とか言ってノッてるし。
 「飲み物の種類と、グラスとストローの形状は問わないけど、こうやって、異性と一杯の飲み物を一緒に飲むのは、親密な動作なの。これも覚えて」
 俺と姉ちゃんは、無言で視線を交わし、同時にストローに口を付けた。
 デーレヴォは、向かいの席で俺達が牛乳を飲み干すのをじっと見守る。
 何この羞恥プレイ。
 姉ちゃんの顔が近い。
 全力で牛乳を吸いこんで、ストローから口を離し、息を吐く。
 「その動作ですね。記憶しました」
 デーレヴォは、さっきと変わらない。顔色ひとつ変えず冷静に言った。
 「さ、どんどん説明するよ」
 姉ちゃんは、プレッツェルの箱を取り出した。緑箱……サラダ味だ。姉ちゃんはチョコ系のお菓子がトラウマになってるから、例のアレは買えない。
 家族の食費でお菓子を買ったら、オカンに怒られるから、これの説明の為だけに独立資金を取り崩したんだ。小額とは言え痛い出費だ。色んな意味で。
 「姉ちゃん…………これって……あの……………………………………マジでやるの?」
 「寸止めで食い千切るのよ」
 「……はい」
 姉ちゃんは、デーレヴォの方を向いて真顔で説明した。
 「お菓子の種類は問わないけど、大抵こういう細長い形状の物を使うの。この両端を異性が咥えて、同時に食べるのも、親密な動作よ。見本を見せるから覚えてね」
 「かしこまりました」
 かしこまらないでくれ。
 姉ちゃんは、プレッツェルの端を咥えて俺に向き直った。
 横目でデーレヴォを見る。平常運転で俺の動きを待っていた。
 覚悟を決めて、もう一方の端を咥える。姉ちゃんに肩を掴まれたので、俺も掴み返した。
 姉ちゃん高三、俺中二。まだ姉ちゃんの方がちょっとだけ背が高い。
 近い。
 姉ちゃんの顔が近い。
 目を閉じたら寸止めがわからなくなるので、息を止め、瞬きすらせずに、少しずつ少しずつ、プレッツェルを咀嚼する。
 ポリ、ポリポリ、ポリポリポリ……
 唇が触れる寸前で同時に腕を伸ばした。一気に顔の距離が開き、息を吐き出す。
 「本当は、最後の所で引き離さずに口を付けるの」
 「何故、正しい動作の見本を示さないのですか?」
 デーレヴォは不思議そうな顔で首を傾げた。
 【ゴーレム】とは【胎児】を意味する古代語だ。デーレヴォは人間の事をよく知らないらしい。本当に純粋な存在なんだ……
 姉ちゃんは、デーレヴォの疑問に淀みなく答える。
 「本来は、血縁関係のない異性が行う動作だからよ。私達は姉弟だから、正式な動作はしちゃダメなの」
 「明日、笑美華が会う相手との血縁関係の有無は、どのように確認すれば、よいのでしょうか」
 デーレヴォにオカンを「俺達の母」と言われるのが嫌で、名前で呼ぶように頼んである。
 「それは私がメールで確認したから、気にしなくていいわ。龍寿(りゅうじゅ)っていう男の人。待ち合わせ場所で、お母さんと喋ってたら、名前を言ってなくても、その人が龍寿よ」
 「かしこまりました」
 姉ちゃんは、飽くまでも事務的に説明する。
 いちいちドキドキしたり、赤くなったりしてる俺が、バカみたいだ。
 「次。荷物の種類と形状、重量は問わないけど……ちょっと、あんた立って」
 俺は言われるままに、椅子から立ち上がった。姉ちゃんは、スーパーのビニール袋にプレッツェルの箱を入れて、俺の隣に立った。
 「で、こっち側持って」
 俺は言われた通りに持ち手の一方を持った。姉ちゃんは、もう一方を持ったままだ。
 「こういう風に【ひとつの荷物を二人で持つ】のも親密な動作だから、覚えて」
 「記憶しました」
 デーレヴォは、姉ちゃんと同じ真剣な表情で答えた。
 姉ちゃんは、袋をテーブルに置いた。俺も手を離す。
 「荷物を持たず、こうやって【手を繋ぐ】のも親密な動作よ。手の形はこう。覚えて」
 姉ちゃんは、問答無用で俺の手を握り、指を絡めたカップル繋ぎの形に持ち込んだ。
 プロレス技の解説でもされてる気分だ。
 そう、これはプロレスだ。プロレスを全く知らない子に、技の説明をしてるだけなんだ。姉ちゃんの手がやわらかいとか、姉ちゃんの手があったかいとか、そんなの関係ない。
 これは技なんだ。必殺技の【カップル繋ぎ固め】なんだ!
 「その形ですね。記憶しました」
 デーレヴォは「プロレス」に興味がないと言うか、意味すらわからないまま「形」だけを正確に記憶する。
 一生懸命覚える表情はなんだか可愛いけど、やっぱりゴーレムなんだな。
 「男側から仕掛ける親密な動作は二種類。まずはこれ。【肩を組む】よ」
 姉ちゃんは俺の左手を取り、自分の肩に乗せた。俺は隣に並んで立つ姉ちゃんの左肩を掴んで引き寄せた。
 デーレヴォは、純真な瞳で俺達の動作を見詰めている。
 社交ダンスって手を繋ぐし、肩組むし。やった事ないけど……
 「もう一種類はこれ。【腰に手を回す】」
 姉ちゃんは俺の手を降ろして、自分の腰の辺りに持って行った。俺は姉ちゃんの腰を自分の方に引き寄せた。
 これは、社交ダンス! 社交ダンスのお手本なんだ! 疚しくなんかない……!
 「記憶しました」
 「次、女側からの親密な動作。【腕を組む】」
 姉ちゃんは、俺の左腕に両腕を絡ませ、胸を押し付けてきた。
 意外に大きくふっくらしたあたたかい感触に、頭がどうにかなりそうだ。全神経が腕の一点に集中する。でも、頭の一部は妙に冷静で、動作の意味を分析する。
 これ【腕を組む】って言うけど、絶対メインの目的は【胸を押し付ける】だよな……
 「記憶しました」
 「男女どちらから仕掛けてもいいけど、こういうのも親密な動作よ。覚えて」
 姉ちゃんは、俺の背後に回り込み、両手で俺に目隠しして「だーれだ!」と、元気一杯に言った。
 「親密であるなら、声で行為者が判別可能ですが、どのような意味があるのでしょうか」
 「意味はないわ。【親密な相手でなければ成立しない遊戯】の一種よ」
 「記憶しました」
 デーレヴォの鋭い質問に、姉ちゃんが事務的に回答する。
 バカップルって、冷静に分析したらホントにバカなんだ。
 「手の形は問わず【背後から抱きつく】のも大抵、親密な異性間の動作なの。覚えて」
 姉ちゃんはそう言って、俺に抱きついた。
 背中にふたつ、ふっくらふわふわのあたたかい感触。
 
 俺は、今度は全神経が背中の二点に集中しそうになるのを、必死に分散させ、正面に座っているデーレヴォに注目した。
 デーレヴォは、銀色の瞳で俺達の動きを見逃さないように、一生懸命観察している。
 恥じらったり照れたりしないのは、動作の意味を知らないからだろう。きっと、これがジャーマンスープレックスの第一段階と同じ動作である事も、知らない。
 「記憶しました」
 「ちょっとあんた、こっち向いて。次のこれは、その国の習慣にもよるけど、性別を問わず、ある程度親しい間柄で行われる動作……【抱擁】よ。見て覚えて」
 姉ちゃんは、隣に立って俺の両肩を掴むと、自分の方に向かせた。そのまま、両腕を俺の背中に回して、しっかりと抱きつく。
 正面からぎゅっと押し当てられた胸には、きっと俺の動悸が伝わってる筈だ。
 世の中には、見ず知らずの人を抱きしめる【フリーハグ】と言う物も存在する。
 俺は覚悟を決め、姉ちゃんの背中に腕を回して抱き合った。
 全身で姉ちゃんのぬくもりを受け止める。
 同じシャンプーを使ってるのに、姉ちゃんの髪はいい香りがした。
 「記憶しました」
 姉ちゃんの腕が背中から離れる。流れるような動作で両手が俺の頬を挟み、顔を固定した。姉ちゃんの顔が正面にある。
 寸止め……寸止め……だよな? 寸止めなんだよな……!?
 俺はギュッと目を閉じて、姉ちゃんに全てを委ねた。
 「食べ物を間に挟まず、【目を閉じて口と口を合わせる】のも親密な動作よ。これはさっき似たような見本を見せたから、わかる?」
 「はい。理解できます」
 「じゃ、これも覚えて」
 「記憶しました」
 安堵しつつ、心のどこかで少しがっかりしている事に、自分でも愕然とした。

 昨日の作戦会議を思い出し、布団の中でのたうちまわる。
 思い出しただけで羞恥死しそうだ。
 こんな事してる場合じゃないのに! デーレヴォ用の充電器として、二度寝して体力を温存しなきゃいけないのに!
 ……悶々として眠れない。
 二人は今、危険な任務に就いている。何もせず、寝ているしかない自分がもどかしい。
 デーレヴォは透明化してるから、見つかる心配はほぼないだろう。真実の鏡とか、魔物を検知するマジックアイテムでも使われない限り、大丈夫だ。
 姉ちゃんは変装するって言ってたけど、バカップルに見つかったら最悪、口封じに殺されて、どっかの山の中に埋められるかもしれない。
 下らない理由で、オカンに入院させられた実績があるんだ。
 俺が行けばよかった。
 でも、姉ちゃんには、出先で体力が尽きて倒れたら大変だから、家で寝てなさい、って言われてる。大人しく寝てるのが俺の任務だ、とも言われた。
 電車やバスならともかく、浮気相手の車で移動されたら、姉ちゃんは追跡できなくなる。そうなったら、デーレヴォだけが頼りだ。
 デーレヴォだけで尾行してる時に俺が力尽きたら、作戦は失敗に終わる。
 説明書にはそういう場合、デーレヴォだけが腕環に戻るって書いてあった。その瞬間の持ち物は、その場所で落とし物になってしまう。
 こんな事なら、筋トレだけじゃなくって、早起きしてジョギングとか、もっと持久力が付くトレーニングをしとけばよかった。
 眠れないまま、うだうだゴロゴロしている内に、正午になってしまった。今、オカンは浮気相手と逢っていて、姉ちゃんとデーレヴォは、それを尾行している最中だ。
 「しっかり食べて体力を回復させなさい」
 俺は姉ちゃんに言われた通り、昼食を食べに台所に行く。
 姉ちゃんがタイマーをセットして行ってくれたお蔭で、ご飯は今丁度、炊きあがったばかりだ。調理と片付けの労力を節約する為、一パック八十八円のレトルトカレーと三缶パックで百九十八円のツナ缶が、用意してある。
 鍋でカレーを温めて、ご飯にツナ缶をかける。手抜きツナカレーだ。
 姉ちゃん、昼飯どうするんだろう。
 刑事の張り込みみたいにあいつらを監視できる位置でアンパンでも食べるのかな。
 もしかすると、あいつらと同じ店の監視できる座席でランチセットを食べるのか?
 後者だと、姉ちゃんの独立資金の減りが洒落にならん。
 カメラ代とかも、姉ちゃんが出した。
 俺も出すって言ったけど「あんたはまだ先が長いんだから、取っときなさい」って断られた。独立まで時間のない姉ちゃんの方が困るのに。
 思考がループし始める頃、手抜きツナカレーを完食した。
 食器洗いも、姉ちゃんが帰ってからするって言われてるけど、せめてこのくらいは……
 流しに立つ。
 玄関で物音がした。鍵を開ける音。ドスドス響く足音。
 誰が帰ってき……いや、これはクソ兄貴。
 俺は、部屋着のポケットの中で、ICレコーダの録音ボタンを押した。
 平静を装って皿を洗う。
 「昼飯、何?」
 「カレー」
 クソ兄貴は手も洗わずに座った。全身がヤニ臭い。
 「は? コレ? チッ! シケてんなぁ。まぁいい。食ってやるよ」
 俺は黙ってレトルトを鍋に入れた。お湯捨てる前でよかった。カレー皿にご飯をよそう。盛りを見せると、クソ兄貴は何も言わずに頷いた。
 「ウチの美魔女は?」
 「美容院」
 クソ兄貴は、オカンをそう呼ぶ。
 大学生の息子が居るとは思えない若作りで、派手な服を着るが、誰が見ても「華やかな美人」で、無理しちゃってる感は全くない。
 魔法文明圏には、ゆっくり老化して何百年も生きる長命人種が居る。長命人種の魔女みたい、と言うことらしい。
 クソ兄貴はオカンに似て顔だけはいい。見るからに頭悪そうだが、背が高くて彫りが深くて、整った顔立ち。雑誌の素人モデルになった事もある。撮影の後、バカな事をして二度と採用されなかったらしいが、詳細は不明だ。
 「ブスは?」
 「バイト」
 姉ちゃんの事は、そう呼んで見下している。
 小さい頃、オカンが「創歌瑠たんの妹と弟は、病院で取り違えられた」とか「本物の迷露茶ちゃんは、可愛いから妖精さんに誘拐されて、代わりに不細工な赤ちゃんを置いていかれた」とか言ってたのを、本気で信じているらしい。
 姉ちゃんはショートカットで全体的に地味だけど、オカンが言うような不細工じゃない。
 どこにでも居る普通の可愛い女子高生だ。身内の欲目じゃなくて、もっとちゃんとした恰好させてもらえれば、もっと可愛くなると思う。
 オカンは美容院に行くけど、姉ちゃんは千円カット。前髪だけなら自分で切らされるから、何か残念な感じになっているだけなんだ。
 クソ兄貴に「お前ら、お情けで不細工な他人を育ててくれてる美魔女に感謝しろよ」と、真顔で言われた事がある。
 もし、本当に俺達が【妖精の取り換えっ子(チェンジリング)】なら、その方が遥かに幸せだ。
 姉ちゃんと俺は、地味な父ちゃんには、似ている。
 姉ちゃんが突っ込んだら「一緒に暮らしてりゃ、顔くらい似て当たり前。血筋じゃなくても似る」と、意味不明な事を言われた。
 クソ兄貴には、遺伝の仕組みが理解できていないようだ。そもそも、父ちゃんは忙しくて殆ど家に居ないのに「一緒に暮らしてれば」も何もない。
 「休みの日もバイト? ブスは苦労するなぁ」
 クソ兄貴は、せせら笑った。
 鍋の熱湯をぶっかければ、お前も今すぐ、顔で苦労する人生が始まるんだがな。そんな事したら、俺に前科が付いてしまうから、実行はしないけど。
 こんなクズでも、人間の形をしている以上、法律上は人間として扱われてしまう。こんなクズの為に人生棒に振りたくないから、我慢してやってるのに、何でこのクズは、それに気付かないんだろう。だからクズなのか。
 「その点、オレはその気になりゃ、コレで食ってけるからな。今はまだ、ヒマ潰しで、本気出してないけどよ。オレが本気出したら、この辺の店、全部潰れるぞ?」
 手で何かの動作をして、聞いてないのに自慢話が始まった。
 「今日はちょっと調子悪かったけど、昨日は勝ってたから、トータルでは勝ってる」
 要するに、今日は負けて帰って来たのか。
 早く沸騰しないかな……って言うか、レトルトのカレーぐらい、自分でできるだろう。
 クソ兄貴は、鍋を見詰める俺に喋り続ける。こう言う時、対面式のカウンターキッチンは苦痛だ。調理台とテーブルの間に壁が欲しい。
 「まぁ、負けたっつってもさ、打ってる時にオレが楽しけりゃ、それでイイんだ。お前らが菓子食ってんのと一緒。お楽しみって奴だ」
 俺達は、親戚ん家に行った時か、お前とオカンが居ない所で、誰かに直接貰った時にしか、お菓子を食べられないんだ。一緒にすんな。
 「あの店、オレにビビってんのか知らねーけど、おかしいんだぜ? 今日、七万持ってかれてよ……オイ、聞いてんのかよ?」
 一日で七万もスッたのか……
 俺は、無言で頷きながらカレーを皿に盛り、お湯を捨てた。
 調理台の反対側に回り込んで、クソ兄貴の前にカレー皿を置く。部屋に戻ろうとする俺の腕を掴んで、穀潰しがヤニ臭い息を吐きながら、一方的にバカ話を続ける。
 「店の奴、設定いじくりやがって、前はあの台出てたのに今日はサッパリでやんの。しかもオレがどいた途端、後から来た奴が当ててよ、絶対、遠隔やってんよな? オイ!」
 「え……? 話が難しくてわかんないよ」
 十八歳未満の中学生にそんな話、通じると思う方がおかしいだろう。
 「チッ! バカに話振るんじゃなかった! ちっとは勉強しろよ!」
 訳のわからない理屈で、ボディに一発喰らわされた。
 吐きそうになる。
 吐いたら、昼ご飯が勿体ない。
 片付けの手間が増える。
 無駄に消耗する。
 何とか耐えて部屋に戻った。鍵を掛け、ドアの前に教科書を詰めた箱を置く。ICレコーダを停止して、ベッドに潜り込んだ。
 大学生なのに勉強してないのは、お前の癖に、何が勉強しろよ、だ。
 バイトも勉強も就職活動もしないで、遊び呆けて金をドブに捨てやがって。その金は、父ちゃんと姉ちゃんが、汗水たらして稼いだ生活費だよ!
 須磨さん家の損害賠償の足りない分は、父ちゃんの親戚が立て替えてくれたから、一括払いできた。父ちゃんは今、親戚に借金を返す為に、全力で働いてる。
 家のローンとオカンのせいで背負った余計な借金で困ってるのに、何で、二十一歳にもなって、そんなバカなんだよ!
 直接言ったら、暴れて後片付けが大変だから、言えない。言わない。
 姉ちゃんをブスって呼んで欲しくない。
 姉ちゃんはブスなんかじゃない。質素で地味なだけで、普通だ。普通に可愛い。
 顔しか取り柄のないクソ兄貴に、姉ちゃんをブス呼ばわりする資格なんかない。
 ムカつき過ぎて眠るどころじゃない。ストレスで消耗する。
 あのクズだけは、マジで存在そのものが害悪。
 クソ兄貴は、友達や彼女との付き合いを禁止されていない。だが、今まで一人も、家に連れてきた事はない。
 ベラベラ一方的にされた話を総合すると、つるんでる奴らは、金だけの付き合い。彼女は遊び。家に連れて来て「結婚して」と言われるのがイヤ。
 どこまでも浅ましくて、賤しい付き合いしかしてないんだ。
 玄関が開く音がした。
 カーテンを細く開けて通りを見る。クソ兄貴の後ろ姿が、遠ざかって行くのが見えた。雲ひとつない晴天の下、下衆はどこかへ行った。
 一階に降り、玄関をしっかり施錠して台所を覗く。皿もスプーンもそのまま。テーブルの上には食べ零し。空気がヤニ臭い。
 食事マナー、離乳食レベルかよ。園児でも食器を流しに運ぶくらいするっての。
 俺は換気扇を回し、躾のなっていないクソ兄貴が荒らした台所を片付ける。
 階段昇降と後始末で、余計な体力を消耗してしまった。怒ると更に余分な体力を消耗するので、今後について考えることにした。
 父ちゃん、オカンの浮気と無駄遣いがわかったら、離婚して追い出してくれるよな?
 クソ兄貴が不良大学生だってわかったら、大学中退させて働かせるか、家から追い出してくれるよな?
 あいつら、借金返すどころか増やしてるから、父ちゃんにとっても敵だよな? 「可愛いから許す!」なんて脳内お花畑な事言わないよな……
 まぁ父ちゃんは常識人だ。大丈夫。現在の状況を把握したら、あいつらと戦ってくれる。
 もしダメだったら……
 祖父ちゃんと愛子叔母さんにも説得して貰おう。背に腹は代えられない。
 それでも万が一、父ちゃんも敵に回るような事になったら、家出しよう。その状況で家に居たら、姉ちゃんと俺は、オカンに殺される。
 どこか遠くの街で、新聞屋さんに雇ってもらって、住み込みの新聞奨学生になって、高校と大学に行かせてもらおう。
 作戦が失敗に終わっても、生き延びる手段がある事に気付いて、少しだけ気持ちに余裕ができた。特に大学は、家に居るより確実に行けそうだ。
 姉ちゃんは、しっかりしているから、大丈夫だ。寧ろ、俺が足手まといになっている。
 じゃあ、父ちゃんが俺達の味方になってくれた場合は、どうだろう。
 離婚の慰謝料って、誰が幾ら払うもんなんだ?
 オカンの借金ってどうなるんだ?
 ブランド服とか売れば、少しは回収できるかもだけど、所詮は古着だしなぁ。
 金の事は色々心配だけど、少なくとも「幸助」に改名はできるな。
 父ちゃんは、俺達の名前を嫌がっていて呼ばない。クソ兄貴に対しては、万引きで愛想を尽かしてるみたいで、無視。姉ちゃんは「お姉ちゃん」俺は「坊主」と呼ばれてる。
 二人が出ていけば、音の暴力でご近所に迷惑を掛ける事もなくなる。
 須磨家との交流も解禁されて、俺と姉ちゃんは普通に友達を作れるようになる。今更だけど塩屋さんに事情を話して謝って、俺が「付き合って下さい」って言う事も可能になる。
 デーレヴォは……
 いつまでウチに居られるんだろう?
 全てが終わったら、自力で占い師の爺さんの所に帰っちゃうって……「全て」って何がどうなれば、終わった事になるんだ?
 離婚だけでも、モメたら何年もグダグダするかもしれない。ホントに何年も借りたままでいいのか? 爺さんに中間報告くらいは、した方がいいよな?
 わからない事が多過ぎる。
 自分が何を知るべきで、何をどう調べれば、それがわかるのか、わからない。
 何がわからないのか、知るべきなのに知らない事が何なのかさえ分からない。
 俺ってホントに無知なんだな。
 姉ちゃんは、俺よりずっと物知りだ。色んな本を読んでるからか、バイトで社会経験を積んでるから、なのか。
 俺も魔術の本ばかり読んでないで、もっと色んなジャンルの本も読まなきゃな。でも、どんな本を読めばいいんだろう。
 何を読んで、どんな知識を身に着ければいいのか、わからない。
 「今は知らない事、知りたい事、興味を持った事をどんどん調べて……」
 占い師の爺さんの言葉を思い出した。
 何を知らないのかは、わからない。
 今、知りたいのは【離婚】について。
 どういう場合に離婚できるのか、どこでどういう手続きをするのか、金は幾ら掛かるのか、慰謝料って? 離婚したら、子供や家や借金はどうなるんだ?
 モデムのコードを伸ばしてノーパソをベッドに持ち込む。寝そべって電源を入れ、燃える赤狐のブラウザを起ち上げ、検索窓に「離婚」と入力する。
 何故か、Enterを押す手が震えた。一瞬で数百万件の検索結果が出る。
 俺は次々とタブを開いていった。

07.取り説 ←前 次→ 09.援軍
↑ページトップへ↑

copyright © 2014- 数多の花 All Rights Reserved.