■碩学の無能力者-05.腕環 (2014年12月10日UP)
そこは、病室だった。
まず、消毒薬の匂いが鼻を刺激する。
奥の窓際にベッドが置かれ、巴の叔父さんから眼鏡を取ったような人が、上体を起こして座っていた。
ベッドは、背中側が三分の一くらい斜めに起こされ、クッションを置いて、楽に座れるようにしてある。柵と小さなテーブル付きで、祖父ちゃんのお見舞いの時に見た介護ベッドにそっくりだ。
ベッドの枕側の壁際には、点滴台と病院にあるのと同じ、血圧計も置いてある。
ドアの脇には、簡易ベッドがあり、その前には、灰色のスーツを着た金髪の女性が立っていた。凄い美人で、さっきとは別な意味で、ドキドキしてきた。
黒江さんが、ベッドの横にある小さな丸テーブルで紅茶を淹れている。
巴の妹らしき女の子の姿は見当たらない。
俺は、ベッドの柵に立て掛けられた長い杖と、ベッドに座っている人を見比べた。
杖は、てっぺんにリアルな黒山羊の飾りがついている。ベッドの人は、長い髪を三つ編みにして、背中に垂らしていた。
この人が、帝大の魔法使い……巴先生?
思っていたより、ずっと若い。眼鏡の叔父さんと同じくらい……三十代前半くらいか。
「どうぞお掛け下さい」
黒江さんが、丸テーブルの両脇に置かれた椅子を掌で指した。椅子はふたつ。巴は先生の足許側の椅子にさっさと腰を下ろした。
俺は、ビビりながら枕元側の椅子に近付き、深々と頭を下げた。直角のお辞儀。最敬礼。顔を上げて挨拶する。
いつの間にか、金髪の美人が、俺の横に立っていた。
「は……初めまして。えっと、巴君の同級生の友田です。あ……あの、帝大の巴先生ですよね? 先生の本、読んで凄い尊敬してます!」
「ありがとう。まだ中学生なのに大学生向けの本を読むなんて勉強家なんだね」
俺の脳が一瞬、活動を停止した。
巴先生が嬉しそうに答えた声は、さっき「どうぞ」と言った可愛い声だった。
髪長いし、先生は女だったのか。あの名前じゃ性別わかんないし……いや、さっき巴は「もう一人の叔父さん」って言ってた!
混乱する思考を取敢えず横に置いて、褒められたお礼を言う。
「ありがとうございます。でも、やっぱりまだ難しくて半分もわかんなかったです」
「そう。将来は大学で魔法の研究をするの?」
「できればそうしたいんですけど、今の成績じゃどこの大学も無理で……」
「お勉強頑張ってね。まだ中学生なんだし、これからだよ。さ、遠慮しないで座って」
もう一度お礼を言って座りかけた時、視界の端で何かが揺れた。左側を見る。ふっくらしたスーツの胸元で、見覚えのある銀のペンダントが揺れていた。
翼を広げた鷲を横から見たデザイン。
俺は弾かれたように立ち上がり、金髪の美人に向き直った。
「それ、【急降下する鷲】ですよね?! 巴君のお母さん、魔法戦士なんですか?! 」
「その人、他人だよ。僕の母さんは先月亡くなった」
巴の淡々とした説明に、氷水を浴びせられたように一気に興奮が醒めた。
そう言えば、自己紹介でハーフじゃないって言ってた。
巴が暗いのって、母ちゃんが亡くなって、ガチの鬱だからなのか。今まで勝手に、いじめられっ子とか、色々、失礼な事思って、悪い事しちゃったな……
俺は、巴に向き直って頭を下げた。
「……ごめん」
「いいよ……言ってなかったし」
巴は、どこか他人事のような顔で言った。
「でも、いい母ちゃんだったんだな。ウチのは家の用事全然しないし、金遣い荒いし『鯉澄』なんてバカげた名前付けるし、兄貴ばっか贔屓するし、居ても色々最悪なんだ。亡くなったのは残念だけど、そんなに悲しいって事は、巴の母ちゃんってスゲーいい母ちゃんなんだよ」
何か余計な事をベラベラ喋った気がするが、巴はニュートラルな表情のまま頷いた。
あんなのでも、母親がまだ生きてる俺が、言うべきじゃなかったかも知れない。
苦い後悔が、じわじわと胸の奥に広がる。
でも……こう言う時、なんて声を掛ければいいんだよ……
「政晶君、こっちでもすぐにお友達ができてよかったね。友田君、仲良くしてあげてね」
「は……はい!」
俺は思わず了承したが、巴は無言で頷いただけだった。俺が余計な事を言ったせいで、辛い事を思い出させてしまったのかも知れない。
結局、先生の用件も、眼鏡の叔父さんと同じだったんだ。叔父さん二人から友達付き合いを念押しされてしまった……
俺なんかと仲良くしたら、オカンが暴れて巴に迷惑が掛かるのに、何やってんだろ、俺。
「友田君、【急降下する鷲】が何か知ってるんだ?」
「あ……はい。霊性の翼団の本で見ました。巴先生は【舞い降りる白鳥】ですよね」
先生の薄い胸元では、白鳥が舞い降りる姿を象った銀のペンダントが、輝いている。片翼が人間の腕になっている。呪いが解けて、白鳥から人に戻る姿を表した徽章だ。
【急降下する鷲】は、鷲が獲物を襲うように、短い呪文で、素早く魔物を倒す魔法戦士の徽章。
どこの国の人かわからないけど、この美人は、魔女で戦士なんだ……
巴は、どこか遠くを見たまま、紅茶をすすっている。
先生と血縁って事は、巴にも魔法使いの素質があるのか……
「じゃあ、友田君の持ってるそれが何かも知ってる?」
「え……それ? ……あ、これ? 魔法の腕環って聞きましたけど……」
俺はパーカーのポケットから、腕環を取り出した。
巴もカップを置いて、腕環に注目する。先生と巴、どちらをメインに見せるか決めかねて、俺は腕環を掌に乗せて固まった。
「悪い物ではないね。使い方は知ってる?」
それは「品質の良し悪し」なのか「邪悪な物ではない」という意味なのか。
俺は、ちょっとビビりながら、左手首に腕環をつけた。
腕環に嵌っていた赤い石が淡く輝き、白っぽい靄が立ち昇る。ゆっくりと渦を巻きながら丸テーブルの横に凝集し、人のような形を成す。次の瞬間、赤い石が閃光を放った。
「うわーッ!」
俺と巴が同時に叫んで目を逸らす。
光が消えた後、丸テーブルの横には、銀髪の少女が佇んでいた。
全裸で。
これか! これが家の中でしか使えない理由なのか?!
「友田君、腕環見せてくれる?」
先生は、平然と俺に話し掛けてきた。魔法戦士もノーリアクション。黒江さんは……ドアの近く、少女の向こうに立っているので、断じて、そっちを見る訳にはいかない。
巴は、耳まで真っ赤にして俯いている。俺も多分そうだろう。
「な……な……な……何なんですか、これ?! 」
「ゴーレムの一種だね。おつかい頼んだり、家の用事手伝ってもらったりするの。正確な事はちゃんと調査しないとわからないけど、使用者の魔力や体力が動力源だと思うよ」
腕環の説明をする先生は、何だか嬉しそうだった。って言うか、どうして先生は、俺が魔法の腕環を持ってる事が、わかったんだ?
「先生の使い魔……みたいなもんですか?」
「失礼な! 私をこんな、誰にでも使われる節操なしと一緒にしないで下さい!」
黒江さんの怒声に、背中を殴られたような衝撃を受け、竦み上がる。
「クロ、おいで。だっこしよう」
先生が言った途端、ポンッと紙袋が割れたような音がした。黒猫が俺の足許をすり抜けてベッドに飛び乗り、先生の腕の中に納まる。
帝大のサイトでは、「触るなキケン」と書かれたQRコード付きの白いゼッケンを着けていたが、今、目の前に居る黒猫は、何も着ていない。
これ……黒江さんのにゃんこ形態だよな? 変身する瞬間、生で見たかったなぁ……
黒猫に変身した黒江さんは、琥珀色の目で俺を睨んで、フンッと鼻を鳴らした。
「あーハイハイ、クロが一番上等で忠実なのは、僕が知ってるからね〜」
先生が、小さい子をあやすように優しく言って、使い魔の背中を撫でる。黒猫は目を細めて、ゴロゴロ喉を鳴らし始めた。この姿だけを見ると、まるっきり猫にしか見えない。
「なぁ、友田君、それ何なん?」
また方言に戻った巴が、窓の方を向いたまま、少女の方を親指で指した。
「すまん、俺もさっき占い師さんから借りたばっかで詳しい事、知らないんだ」
魔法戦士が溜息を吐いて、腕環から出てきた少女に歩み寄る。
先生は、にゃんこ形態の使い魔を撫でながら、説明を続けた。
「使い魔は魔法の主従契約が必要だけど、この手のゴーレムは家電製品みたいな物だから誰でも使えるんだよ。宝石が二種類嵌ってるから、赤いのがルビーで体力、青いのはサファイアで魔力の充電池みたいな物だと思う」
家電って……
俺は左手の腕環を見た。赤い宝石が淡い光を放っている。電源オン? 充電中?
こんな事なら、一般ブースで古着を買っておけばよかった。
「こちらを向いても大丈夫です。シーツを被せました」
魔法戦士が、訛のない流暢な日之本帝国語で言った。
俺と巴は顔を見合わせ、微かに頷き合った。同時に、ゆっくりと少女の方を見る。
銀髪の少女は無表情に佇んでいた。
ウェディングドレスみたいに真っ白なシーツを巻きつけられている。クラスの誰よりも膨らんだ胸より下は、見えなくなっていたが、ほっそりとした腕と肩は露わだ。鎖骨の浮いた白い肌には、やっぱりドキドキする。
ストレートの銀髪が腰まで伸び、瞳も銀色。俺たちよりも年上だけど、姉ちゃんよりは年下に見える。
腕環のデザインと同じ印象の繊細で整った顔立ち。でも、表情がないから、人形のような美しさだった。ん? ゴーレムだから、人形で合ってるのか?
「服はセットじゃないんだね。うちで余ってるのをあげるね。黒江」
黒猫がベッドから飛び降り、床に着地した瞬間、ポンッっと音がして、執事っぽい年配の男性になった。変身に一秒も掛かっていない。
「黒江、押入れの婦人服から春物の普段着を一揃え、その腕環に着せてあげて」
「かしこまりました」
黒江さんは先生に一礼して、腕環の少女に「来なさい」と、声を掛け、ドアを開けた。
腕環の少女は、ノーリアクション。マネキンのように突っ立ったまま、動かない。
「友田君、腕環に命令して」
「えっ? は、はい! め……命令、命令……」
先生に言われて、愕然とする。
俺、オカンとクソ兄貴に命令された事はあっても、自分で誰かに命令した事なんてない……何をどう言えばいいんだ?
困惑する俺に、先生が助言を与えてくれた。
「まず名前を名乗るように言って、それからその名前を呼んで命令するの。今は『この部屋に戻ってくるまで黒江の指示に従え』って言って」
「はい! えっと、名前を名乗って……下さい」
何故か敬語になる俺。
「デーレヴォ」
少女の形のいい唇が動いた。南部鉄風鈴の音色を思わせる涼やかで澄んだ声。
巴は、驚いた顔で固まっている。
「あ、えっ? 日之本語わかるんだ? 何で? ……あ、えっと名前なんだっけ? すみません、もう一回言って下さい」
「湖南(こなん)語とご主人様がご存知の言語は全て理解できます。私の名は【デーレヴォ】です」
腕環の少女デーレヴォは音声案内のように答えた。
って、えっ?! ご主人様?! 俺?! 俺の事?! 俺、全力で平凡な庶民で中坊なのに?!
「湖南地方で製造されたんだろうね。きっと元々輸出用だから多言語対応なんだよ。名前は湖南語で【樹木】って言う意味だよ」
先生は、ビビる俺を他所に、キラキラした目で腕環を見ながら、説明してくれた。
湖南地方……チヌカルクル・ノチウ大陸にある世界最大の塩湖ラキュスの南……その中の、どの国出身なんだろう?
「早く着替えに行かせなさい」
魔法戦士がドアを指差す。黒江さんは、廊下で眉間に皺を寄せて待っていた。
俺は、何度も噛んだり詰まったりしながらも、何とか先生に教わった通りに命令した。
デーレヴォは「かしこまりました、ご主人様」と、自動応答みたいに無機質な返事をして、黒江さんについて行った。
使い魔とマジックアイテムの姿が見えなくなると、巴がふぅーっと大きく息を吐いた。
「あの……黒江さんに失礼な事言っちゃって、すみませんでした」
「いいよ。もう機嫌直ってるし。僕もまさかあんなに怒るなんて思ってなかったし」
「ホントすみませんでした。使い魔って……怒るって言うか、感情があるんですね」
「ん? うん。使い魔には色々種類があるけど、基本的に生き物だからね。魔物でも動物でも魔法生物でも、心と自分の意思は持ってるんだよ」
術者に絶対服従の使い魔でも、心と自分の意思を持っている……
「ゴーレムにも感情や表情を与える事は可能だけど、お勧めはできないなぁ……」
「できるのにダメって……何故ですか、先生?」
「感情は心のエネルギーで、表情はその表出。表情を出すのも抑えるのも、とっても大きなエネルギーが必要なんだ」
「……はい?」
「普通の人はそれを無意識に行ってるから気付かない。でも、お仕事とかで怒ってるのに怒ってないフリをして、ストレスで体調を崩す人って多いよね? そう言う人達は心的エネルギーの歪みが原因で病気になってるんだよ」
「は……はい」
姉ちゃんが時々、セクハラしてくるおっさん客ムカつく! って愚痴ってる。その場でキレたら、お店に迷惑が掛かるから、テキトーにスルーして、家に帰ってから俺に言う。
ニュースでも、ストレスで病気になったりして労災認定……って言うのをしょっちゅう見かける。つまり、そう言う事なんだろう。
「借り物だって言ってたし、家電と同じくらいの気持ちで使うといいよ」
「何で? 魔物でもおっちゃんとクロみたいに仲良うできるんちゃうん?」
巴が方言で先生に聞いた。俺も気になる。
できるのにダメって……?
「ゴーレムに感情を作らせて表現させるには、大量のエネルギーが必要だからね。友田君は魔力がなくて体力で使うから、過労で倒れちゃうよ」
「えっ?! 」
「腕環から出してあの形を維持するだけでも体力を消費するし、何か用事をさせればその分、友田君が疲れるんだよ。電子レンジに表情とか要らないよね? 余分な機能は使わないで、用のない時は、腕環も外した方がいいだろうね」
要するに、デーレヴォに掃除とかさせても、結局、俺が疲れるのは変わりないのか。俺が二人欲しいくらい忙しくて、急いでる時限定?
「詳しい機能については本人に聞いてみてね」
機能……ホントに電子レンジやパソコンみたいな言われ様だ。
だが、ここは八百万の神々が住まう日之本帝国で、俺はパソコンに「こんくらいの変換、一発で出せよ! アホの子か!」とか言っちゃう奴なのだ。
千年以上昔の和歌でさえも、擬人化てんこ盛り。日之本民族のDNAが、完全に人間の……美少女の姿で、会話も可能なマジックアイテムを道具扱いなんて、できる訳がない。
過労上等! デーレヴォと笑顔で、楽しく大掃除だってしてやるぜ!
普通なら、幼馴染になる筈だった須磨春花とは接触禁止、塩屋さんのチョコは、全力で断った。オカンのせいで、男の友達も赤穂唯一人。
人間の友達がダメなら、人外と仲良くするくらい、いいじゃないか。
期間限定でもいい。いや、オカンに見つかって、大変な事になる前に返してあげたい。
「あ、そうだ、名前」
先生が唐突に話題を変えた。
「十五歳になったら、自分で好きな名前に変えられるんだって」
「えっ?! マジっスか?! 」
俺は全力で食いついた。
「僕はよく知らないけど、前に経済(つねずみ)が調べてたんだ。色々条件はあるけど、家庭裁判所で手続きするんだって。手数料が何千円か掛かるって言ってた」
ツネズミ……字の想像がつかない。「津鼠」……いや、まさかな。
誰だか知らないけど、俺達の他にも、名前で苦労してる人がいるんだ……まぁ、だからちゃんと、改名の手続きがあるんだろう。
一万円でお釣りがくるなら、俺でも払える。鯉澄なんかやめて、幸助になれるんだ……
姉ちゃんは今すぐにでも迷露茶をやめられる!
「ありがとうございます!」
俺は、立ち上がって最敬礼した。
「名前が嫌だと、自分を好きになれないものね」
先生の言葉に涙が零れそうになった。細くゆっくりと息を吐いて顔を上げる。先生は、ちょっと寂しそうに微笑んで、俺に座るように促してくれた。
それから暫く、三人で中学の話をしていると、人外二人が戻ってきた。
デーレヴォは、ちょっと古めかしくて……微妙にダサい近所のおばちゃんみたいな恰好になっていた。白地に小さな花模様がプリントされたカットソー、若草色のカーデガン、ベージュの綿パン。髪は後ろでまとめて三つ編みにしてある。
表情のないデーレヴォは、服を着ても生々しいマネキンのままだった。
「友田君、ちょっと通してくれる? 黒江、立つの手伝って」
俺が立ち上がって壁際に退くと、先生は黒江さんに支えられて立ち上がり、ベッドの柵に立て掛けてあった杖を手に取った。
戸口に立ったままのデーレヴォに近付き、杖の先端で彼女の肩に触れる。
「じゃあ、この服を同期させるね」
俺がなんだかよくわからないまま頷くと、先生は女の子みたいな可愛い声で、呪文を唱えだした。何語かわからない不思議な響きの言葉だ。
今、目の前で本物の魔術師が魔法を使っている。
全身に鳥肌が立つ。
感動なのか、恐怖なのか、興奮なのかわからない感情が、全身を駆け巡った。
初・賢者との対面。
初・魔法使いとの対面。
初・異性の全裸目撃。
初・マジックアイテム使用、そして他人への命令……
この数時間で起きた色々な、初体験が頭の中を駆け巡る。
長いような、短いような詠唱が終わり、先生は杖の石突きで、床をトントンと打った。デーレヴォには、特に目立った変化はない。
「服を同期……えっと、霊的に固定したから、腕環から出し入れする度に服を着せなくてもよくなったよ。着替えもできるけど、これ以外の服は腕環に戻した時に脱げて、次に腕環から出したらこの服に戻ってるからね。一応、確認の為に戻してくれる?」
「ありがとうございます! えっと、戻すって……どうやればいいんでしょう?」
「腕環に戻るように命令するか、腕環を外せばいいと思うよ」
俺は無言で腕環を外し、命令する事から逃げた。
デーレヴォの輪郭がぼやける。全身が色付きの靄になり、あっという間に腕環に吸い込まれて消えた。
俺と巴は、同時に息を吐いて顔を見合わせた。
「もう一度出して、どんな機能があるか聞いてくれる?」
先生に言われるまま、腕環を着けた。さっきと同じようにルビーが輝き、靄が渦を巻く。反射的に目を逸らす。巴と目が合った。
「大丈夫。成功してるよ」
先生に声を掛けられて、デーレヴォを見る。さっきの服を着ていた。先生にお礼を言ってから、デーレヴォに質問する。デーレヴォは機械的に答えた。
「姿を消す事、壁を通り抜ける事、空を飛ぶ事ができます。ご主人様」
「あれっ? 家事用かと思ったんだけど、諜報用だったのかな?」
先生が首を傾げた。何それ怖い。
「まぁ、どんな機能でも使う人次第だからね」
「使う人次第……」
「例えば、ボールペンは筆記具だけど、使い方によっては物理的に人を殺す凶器にもなるからね。どんな道具も知識も、使う人によって良い事にも悪い事にも使える。この腕環を凶器にしないように気を付けて使ってね」
俺は、巴と家の人達に何度もお礼を言って、家路に就いた。
隣には、透明化したデーレヴォが空中を歩いている……筈だ。見えないけど。
瀬戸川公園を通って近道する。フリマは終了間際だった。あちこちで撤収作業が始まり、占い師の爺さんの姿は、既になかった。
一般ブースに寄って、デーレヴォにこっそり靴のサイズを確認させる。二十五センチ。姉ちゃんよりでかい。俺は残金二百円で、足首丈のブーツっぽい靴を買って帰った。
まだ、誰も帰宅していない。
コンビニ袋に入れられたデーレヴォの靴は、取敢えず、自室の押し入れに片付けた。
豪邸から帰ってきたせいか、自分の家が凄く狭く感じる。
一階は狭い風呂・洗面所・トイレが、ひとつずつ。六畳の居間だけが和室、カウンターキッチンの台所、台所の隣の洋間は両親の部屋。二階は姉ちゃん&俺の部屋、オカンの衣裳部屋と、クソ兄貴の部屋。一応、猫の額程度の庭がついている。
三十年ローンの一戸建てだ。
父ちゃん、こんな家のローンの為に必死こいて働いてるんだ……
歯痒いような、悲しいような気持ちを振り払って、デーレヴォに命令する。
「デーレヴォ、姿を見せて下さい」
デーレヴォはすぐに現れた。
年上っぽいビジュアルだし、命令とか苦手だし、敬語で通すことにした。
「デーレヴォ、もし人間みたいにできるのなら、感情を持って表情を出して下さい」
帰る道々、考えていた言葉を口に出すと、デーレヴォの頬が少し緩んだ……ような気がした。相変わらず無表情だ。でも、マネキンのそれではなく、人間のポーカーフェイスに近い。
そして、もうひとつ。
「デーレヴォ、俺を『ご主人様』と呼ばないで下さい」
「では、何とお呼びしましょう……」
しまった。それはまだ考えてない。名前で呼ばれるのだけは、絶対嫌だ。でも、姉ちゃんみたいに「あんた」って呼ばせるのは……何か違う気がする。後で考えよう。
「えーっと……保留。デーレヴォ、着いて来て下さい」
「かしこまりました」
デーレヴォは、自動音声よりも、生身の人間のアナウンスに近い抑揚で答えた。
台所に連れて行く。
「デーレヴォ、今からご飯の炊き方を説明します。覚えて『ご飯を炊いて下さい』って命令された時に実行して下さい」
先生が教えてくれた「ゴーレムへの命令のコツ」を思い出しながら言う。
知らない事は、実行できない。
人間みたいに察したり、自分で考えたり、自己判断で行動する事もできない。
新しい事をさせる時は、先に教えてから。
動作は、ひとつずつ、具体的に指示する。
俺は、ひとつひとつの動作を丁寧に説明しながら、ご飯を炊いた。
ひとつの説明が終わる度に、デーレヴォは「記憶しました」と無表情に言った。
記憶喪失の人に物事を教えているみたいで、変な気分だ。記憶喪失の人間なら、何か教えてもらったら、お礼を言うんだろうけど、ゴーレムは「覚えろ」と言う命令を実行しているだけだから、お礼なんて言わない。感情を動かす事もなく、淡々と記憶するだけだ。
体がだるい。
掃除は今朝、済ませてる。姉ちゃんが帰るまで、する事ないし、ちょっと休憩しよう。
デーレヴォを腕環に戻し、部屋に戻った。
二段ベッドの下段に倒れ込み、腕環を外したところで、記憶が途絶えた。