■碩学の無能力者-11.決着 (2014年12月10日UP)

 オカンは連休三日目、日曜の朝に帰ってきた。二連泊で朝帰りだ。今は部屋着に着替えて、居間でゴロゴロして、テレビを視ている。
 昼前にクソ兄貴も帰ってきた。
 俺と姉ちゃんはこの時期は毎年、父ちゃんが帰ってくるまで、トイレ以外、部屋から出ないと決めている。
 父ちゃんが何時に帰るかわからないから、オカンは一応、家事するフリをしている。ご飯は炊くけど、おかずはスーパーのお総菜。姉ちゃんと俺の分はない。
 オカンは、父ちゃんが見ていない時は、俺達の分のご飯は用意しない。俺達はオカンがテレビを視ている間におにぎりを作って、部屋で食べた。
 昼過ぎに玄関が開く音が聞こえた。姉ちゃんと顔を見合わせて耳を澄ます。
 「ただいま」
 「あなた〜お帰りなさ〜い。疲れたでしょ?」
 父ちゃんだ。オカンが甘ったるい声で出迎えている。
 「みんな〜! パパ帰ってきたわよ〜! 降りてらっしゃ〜い」
 オカンが、明るい声で階段の下から呼んでいる。
 姉ちゃんは俺を手で制し、クソ兄貴の動きを待った。足音が台所に向かったのを確認してから、俺達も動く。姉ちゃんのポケットには、ICレコーダ、俺のポケットには、腕環を隠し持って、階段を降りた。
 台所に行くと、オカンが五人分の珈琲を淹れていた。
 父ちゃんは、テーブルのお誕生日席、壁側。オカンはその向かいの窓側。クソ兄貴は、オカンの左手側に座っていた。
 姉ちゃんがカウンターキッチンを背に、父ちゃんの左手側に座ったので、俺は姉ちゃんの隣、オカンの右手側に座る。クソ兄貴の真正面だ。
 クソ兄貴の左隣は、祖父ちゃんの定位置だったが、現在は空席になっている。
 父ちゃんは、おもむろに分厚い封筒をテーブルに出した。
 「あら、それ、なぁに? お土産?」
 父ちゃんは、封筒の中身をテーブルにぶちまける事で、オカンの質問に答えた。オカンが龍寿といちゃいちゃしている大量の写真と、数枚のDVDだ。
 オカンの顔から表情が消えた。
 クソ兄貴は顔を引き攣らせて、父ちゃんとオカンの顔を交互に見ている。
 姉ちゃんは、写真を見て首を横に振った。
 姉ちゃん達が撮ったのと、知らない写真が混じっていた。デーレヴォとプロの写真だった。良い子が見てはいけないシーンの写真も、何枚か混ざっている。
 「な……何よこれ? 合成? ドッキリ?」
 「しらばっくれるな。相手の住所も割り出してある」
 狼狽えて、何とか誤魔化そうとするオカンに、父ちゃんは一枚の紙を突きつけた。

 離婚届

 「家族全員のDNA鑑定をする。子供達をどうするかは、その結果で決める」
 「ちょ……オヤジ、マジかよ!?」
 クソ兄貴が腰を浮かす。
 「お前はもう、二十歳越えてるから、関係ない」
 父ちゃんは、養育費的な意味で言ったんだと思うが、クソ兄貴は、何を勘違いしたのか、ホッとした顔で座り直した。
 もし、俺が父ちゃんの子じゃなかったら……新聞屋でも、児童養護施設でもいい。オカンの居ない所へ行かせて欲しい。
 「使い込んだ生活費と貯金の弁済、お前のせいで発生して、私が立替えた賠償金等の返還、慰謝料については、連休明けに弁護士に……」
 「慰謝料? 幾らくれるの? 弁護士代はあんたが出しなさいよ」
 父ちゃんを遮って、オカンはニヤニヤしながら言った。
 「何を言ってるんだ? お前が私に支払うんだぞ?」
 「は? 頭オカシイの? 何で女の私が、あんたみたいな不細工な男に払うのよ!」
 オカンは、取り繕いもせず、本音をぶちまけた。
 「私の若くて一番キレイな時代を食い潰した癖に! 仕事仕事で家事も育児も丸投げだったじゃない! そっちこそ、慰謝料払いなさいよ! ATMの分際で、生意気な!」
 「お前は、家事も育児も俺の両親に丸投げで、母さんが病気になった時も、介護しないで、いびって追い出したじゃないか」
 祖父ちゃん祖母ちゃんが愛子叔母さんの家に引越したのって、オカンのせいだったのか。
 逆ギレで喚き散らすオカンに対して、父ちゃんは冷静に話している。
 「尼崎譲、西九条健、今津光星、西宮龍輝、北口玲、大物陽紀、野田龍寿。お前の結婚後から今までの交際相手七人で間違いないな?」
 「あらあら、懐かしい名前ね〜。みんな元気かしら〜」
 父ちゃんがリストを読み上げると、オカンは父ちゃんを睨みつけながら笑った。
 七人って……龍寿だけじゃなかったのかよ……プロの探偵スゲー……
 「以前、キャバ嬢の営業トークを真に受けた部下を笑った事があるが、俺も同じだった。お前の正体を見抜けなかった。もっと早くに気付いていれば……」
 「ふっふふっ……今頃気付いたの? 鈍感よねー。元々、あんたみたいなつまんない男、好きでも何でもないのよ。金がなかったら、もっと早くこっちから切ってたの! 今まであんたに不釣り合いな美人の妻を自慢できて、イイ思いしてきたんでしょ? 所詮は見合いなんだから、愛なんていらないじゃない。お互いスペックだけで選んだのに、たかが浮気くらいで、離婚だ慰謝料だって大騒ぎして、バッカみたい。ちょっと頭冷やしなさいよ」
 バカって言う奴がバカの法則発動。
 ここまで酷いと、何か変な笑いが込み上げて来て、別な意味で辛い。
 笑ってはいけない離婚協議。
 「そもそもパパが、ママとオレ達をほったらかしにしたから、ママは育児ノイローゼになったのに、ママ一人を悪者にしてさ、パパはズルイよ。仕事に逃げた癖に。パパが余計な事言うから、須磨さんに無視されて、ママは近所で肩身の狭い思いしてんだぜ? ママの気持ちをわかってくれる人と、ちょっと仲良くするくらい、別にいいじゃないか」
 クソ兄貴の中では、バレンタイン事件って、そう言う事になってんのか。
 ……それにしても、よく喋るバカ共だな。
 育児ノイローゼなら、悪い事してない幼稚園児の姉ちゃんを入院するまで殴っても、須磨さんの家の物を壊しまくっても、赤ん坊の俺をほったらかしにして、実家に帰っても、兄貴を丸一年、小学校に通わせなくても、いいのかよ。
 育児ノイローゼってのは、何やっても許される最強の免罪符なのか?
 「ねぇ、今日、何年の何月何日?」
 「えっ……二二一三年の五月五日こどもの日」
 急に姉ちゃんに聞かれた。反射的に俺が答える。オカンが思い出したように、クソ兄貴と俺達の顔を順番に見る。
 「子供達は、みんな私の子よ」
 オカンは、自信満々に言った。
 嘘ばっかり。散々、姉ちゃんと俺を【妖精の取り換えっ子(チェンジリング)】呼ばわりしてた癖に。
 「親権はママの物で、養育費はパパが払う物なのよ」
 「親権者は、子の養育が可能な方が、なるものだ。子の意思も尊重される。お前は育児ノイローゼとやらで、問題を起こした実績があるだろう。子の養育者に相応しくない」
 父ちゃんが、ちょっと呆れたように言った。
 「あんたのせいでノイローゼになったのに! ちょっとは反省したらどうなのよ! 出産で体のラインは崩れるし、肌は荒れるし、ダイエットだって、大変だったんだから! それに、今はもうみんな手が掛からなくなってるし! なのに、十何年も前の事をぐじぐじと……しつこい男ね! サイテー!」
 オカンも、たった今その口で、十何年も前の同じ事で、父ちゃんを責めてるよね?
 これが、バカの身勝手なダブルスタンダードって奴なのか。
 「パパもそんな言い方するから、ママに嫌われるんだよ。ちゃんと謝ったら、ママも機嫌直して、許してくれるって」
 クソ兄貴が、意味不明な事を言い出した。
 父ちゃんには、謝らなきゃいけない落ち度ってなくね? ってか怒ってんの、父ちゃんじゃね?
 俺は思わず、父ちゃんとオカンに聞いた。
 「えっ? 二人共、もう嫌いになってて、今から離婚するんだよね?」
 「そうね〜……パパが土下座して、ママに謝って、お祖父ちゃんの遺産をママにくれるんなら、離婚は考え直してあげてもいいけど〜?」
 「今は復縁の話ではなく、離婚を前提とした話し合いをしているんだ。お前に私の父の財産をどうこうする権利はない」
 何でオカンとクソ兄貴は、こんなに自信満々で、上から目線なんだろう?
 「チッ! 頭悪い男ね! あんたじゃ活用できないから、私が貰ってあげるって言ってんのよ」
 「いい加減にしろ! 父さんを勝手に殺すな!」
 「卒中で倒れたんだから、時間の問題じゃない」
 頭悪い上に無神経。
 俺達、ホントに【妖精の取り換えっ子(チェンジリング)】だったらよかったのに。
 オカンは椅子を蹴って立ち上がった。
 「チッ! まぁいいわ。家のローンと借金で首が回らなくなったあんたなんか、こっちから願い下げよ。離婚してあげるから、積立貯金全部と慰謝料と養育費三人分、寄越しなさい。創歌瑠、迷露茶、鯉澄! 勿論、ママと一緒に暮らすわよね?」
 姉ちゃんが立ち上がって、俺の肩に手を置いて言った。
 「私とこの子は、病院で取り違えられた他所の子なんでしょ? お母さんいつも言ってるじゃない。私たちみたいな不細工な子は、産んだ覚えないし、要らないって」
 「それは躾で言っただけじゃない! 今まで育ててやった恩を忘れたの!?」
 「躾? 自分の機嫌悪い時、私とこの子に当たり散らして、存在を全否定するのが躾なの? 小さい頃は、お祖父ちゃん達が面倒見てくれてたし、お祖父ちゃん達が引越してからは、家の事全部、私とこの子がしてるじゃない。恩なんて……」
 「チッ! ブスが! ごちゃごちゃと!」
 オカンがコーヒーカップを投げつける。
 姉ちゃんは、慣れた動きで避け、カップはカウンターキッチンの角に当たって砕けた。
 「お前、何て事を!」
 父ちゃんとクソ兄貴が、同時に立ち上がる。兄貴の肘が当たって、カップが落ちた。こちらは割れず、床に珈琲をぶちまけた。
 あーあ……またこの後片付け、俺らかよ。やらかした奴が片付けろよな。
 オカンは、鬼の形相でカウンターキッチンの調理スペースに回り込む。
 姉ちゃんが息を呑んだ。
 こっちに戻ってきたオカンの手には、不吉に輝く包丁があった。
 今まで、どんなにキレてても、打撃系だったのに、とうとう刃物を持ち出した。
 「笑美華! 何をする気だ!? やめないか!」
 「うるさい! ブスの癖に口応えしやがって!」
 父ちゃんが鋭い声で制止する。オカンは全く聞いていない。
 ってういか、怒りのポイントそこなの?
 斜め上のキレ方に思考が麻痺した。何もかもが、スローモーションに見える。
 オカンが、父ちゃんを突き飛ばし、テーブルを回り込む。
 姉ちゃんが、俺の肩から手を離して後退する。
 父ちゃんが立ち上がり、オカンを取り押さえようと、手を伸ばす。
 俺は腕環をつけながら、合言葉を唱えた。
 姉ちゃんの悲鳴が、俺の声に重なる。
 「いやぁあああぁああぁああ! 人殺しー!」
 「アルセナール……デーレヴォ! 助けて!」
 オカンが包丁を腰溜めに構えて突っ込んできた。
 見えない盾にぶつかり、勢いよく刃先が反れる。
 ガッと音を立てて、包丁がテーブルの縁に食い込んだ。
 腕環が青い光を放ち、デーレヴォが現れる。
 包丁を抜こうとしていたオカンが、ヒッと息を呑んで固まる。
 オカンに近付こうとしたクソ兄貴が、床のカップを踏んで後ろ向けにひっくり返った。
 ……デーレヴォ……だよな? 
 台所に現れたのは、いつもの繊細な美少女ではなく、魔物だった。
 キレイだ……けど、怖い。
 上半身はデーレヴォだけど、背中には蝙蝠のような羽が生え、頭から腕環と同じ銀の枝が生えている。下半身は銀鱗の蛇。もらった服は着ていない。そして、髪と瞳だけでなく肌まで金属光沢のある銀色だった。
 魔物のデーレヴォが、ボディに一発喰らわせると、オカンは包丁をがっちり握ったまま、倒れて動かなくなった。
 ……死んでない、よな? 
 父ちゃんは驚いて固まっている。
 姉ちゃんは、床に倒れたオカンを跨いで、台所の入口横にある電話に飛びついた。
 一一〇番
 姉ちゃんが半狂乱で通報している間に、俺は小声で、デーレヴォに腕環に戻るように頼んだ。姿は違っても、やっぱりデーレヴォだった。
 やさしい微笑みを残して靄になり、銀の魔物が消える。
 クソ兄貴は、頭でもぶつけたのか、動かなかった。

 オカンは手が硬直したのか、包丁を握ったまま救急搬送された。クソ兄貴も念の為、病院に運ばれた。
 父ちゃんは、警察が来る前に、ちゃっかりDNAサンプルとして、二人の頬の内側の粘膜を採取していた。
 姉ちゃんが、到着した警官の一人にしがみついて、号泣している。こんなに取り乱した姉ちゃんを見るのは、初めてだ。
 「お巡りさん! 助けてッ! 包丁ッ! お母さんに殺される! 包丁が……!」
 「大丈夫、もう大丈夫だから、落ち着いて」
 「包丁ッ! 包丁なの! 殺されるッ! お母さん……私、殺すって! 包丁! ガッって……」
 「うん。もう大丈夫だからね、お母さん連れてったから、今、居ないからね」
 年配の警官は、泣き叫ぶ姉ちゃんの背中をトントン叩きながら、落ち着いた声で言った。
 俺は、自分でもよくわからない。
 何故かわからないが、涙が止まらない。でも声は出ない。泣いているのかどうかも……わからない。ただ涙と鼻水だけが、だらだらと流れた。
 この後、どうすればいいのかも、わからない。
 父ちゃんは、そんな俺を抱きしめて、頭を撫で続けている。父ちゃんの肩は、俺の涙でぐっしょり濡れていた。
 何だろう? さっきは割と冷静に動けてたのに。俺、何で涙……出てるんだろう?
 泣いてる……? 涙は出てるけど……別に悲しいとか痛いとか、そういうんじゃない。
 姉ちゃんが泣き叫ぶ声をBGMに、別の警官が父ちゃんに質問する。父ちゃんは、さっきと同じ冷静な声で答える。
 デーレヴォの事は言わず、父ちゃんが自分でオカンを殴り倒した事にしていた。
 「ボク、質問……大丈夫かな?」
 警官が、俺には小さい子に言うような口調で、質問してきた。何とか首を縦に動かすと、父ちゃんと同じ質問をされた。
 「………………」
 口が少し開いただけで、声が出ない。
 証言しなきゃいけないのに。黙ってたら、オカンはすぐ家に帰ってきて、俺達、殺されるのに。何で肝心な時に限って、声が出ないんだよ。
 何か……何か、言わなきゃ……早く……えーっと……何を見たんだっけ? さっき、何が……
 俺は愕然とした。

 記憶が……消えた? 

 頭の中が真っ白だ。
 たった今、目の前で起きた事が全く思い出せない。
 ついさっきなのに……?
 涙だけがだらだら流れ、半開きの口の中にしょっぱい味が流れ込む。
 「ごめんな。怖かったもんな。もう少し落ち着いたら、お話ししてくれる?」
 「ね……ねぇちゃ……」
 「うん。お姉ちゃんは無事だから、大丈夫だよ」
 「録音……レコーダ……ICの奴、姉ちゃん、録ってる」
 俺、何でこんな片言になってんだよ。涙止まんねーし。
 警官が姉ちゃんの方を向く。姉ちゃんは、ポケットからICレコーダを出そうとして、ジタバタしていた。引っ掛かったらしい。
 「これ! ここ! さっきからずっとONで……」
 姉ちゃんは、漸く引っ張り出せたICレコーダを震える手で高く掲げて言った。
 家の前に野次馬が集まっている。
 近所の人が、別の警官の質問に答えていた。
 パトカーで移動して、警察署での事情聴取には、ちゃんと答えられた。
 会議室っぽい場所で、刑事さんが「子供だから特別。みんなには内緒な」と、奢ってくれた自販機のジュースを飲んで、落ち着いたからかもしれない。
 今日の出来事も、オカンに普段からされている事も、証拠を集めている事も、ちゃんと話せた。
 刑事さんによると、初動でこれだけ警官が来たのは、日頃から近所の人達が何人も、オカンの事で警察署に相談していたのと、オカンが以前にも警察沙汰を起こしていたのと、今日も、姉ちゃんの悲鳴で、近所の人達が通報してくれたかららしい。
 お礼を言いたいが、守秘義務があるから、誰が通報したかは、教えてもらえなかった。
 「最後に聞くけど、お母さんに早く帰ってきて欲しい?」
 「嫌です。帰ってきたら、今度こそ俺達殺されます。二度と会いたくありません。これ、他人だったら、殺人未遂の被害者と加害者ですよね? 何で親子だったら、また加害者と一緒に住まなきゃいけないんですか? 通り魔とか、他人だったら、こんなの絶対あり得ないでしょう? オカンが帰って来るんなら、俺、家出します。家出して、オカンの居ない場所に逃げます。探さないで下さい」
 言葉も涙も止まらなかった。恐怖も悲しみもなく、口調は他人事のように淡々と、涙も、ただ流れるだけだ。
 自分でも、感情が冷め過ぎてて、異常だと思う。
 「……うん。そうだな。じゃあ……お母さんとお兄ちゃんは、最低二、三日はお家に帰れないから……その間、お父さんに、児童相談所でこれからどうするか、相談して貰おう」
 クソ兄貴は、救急車の中で目を覚ましたものの、化け物がどうとか、意味不明な事を口走って、錯乱状態だったらしい。
 任意で尿検査をした結果、イケナイお薬を検出。逮捕されたそうだ。
 二度と帰ってこなくていい。
 その日は、父ちゃんと姉ちゃんと三人で、叔母さんの家に泊めてもらった。
 急に人数が増えたから、叔母さんは出前を取ってくれた。
 食欲はなかったが、祖父ちゃんに「しっかり食べて体力をつけないと、暫くゴタゴタするから乗り切れんぞ」と言われて、取敢えず口に入れた。
 何を食べたのか記憶にない。
 父ちゃんは、オカンの実家に電話して「笑美華が逮捕されました。詳しい話をしたいのでお越しください」と、だけ言って切っていた。
 オカンの実家から折り返し掛かってきても、「帝都に着いてから、携帯に連絡下さい」だけ言って、ガチャ切り。
 祖父ちゃんが、父方の親戚にも連絡して、夕方には首都圏に住んでいる叔父さん達が、愛子叔母さんの家に集合した。
 父ちゃんと父方の親戚は、大人だけで夜遅くまで相談していた。

 連休最終日の月曜日。
 父ちゃんは、警察とか色々用事で、朝から出掛けている。
 姉ちゃんは、従姉兄に色々聞かれて、ちょっと興奮気味に熱く語っていた。
 これまでの事、昨日の事、これからどうしたいか。
 「刑務所に入ってる間に、内緒で引越して縁切るの!」
 「ニュースでよく見るけど、初犯だったら執行猶予付いて、刑務所入らないかもよ?」
 「あー……そっかー……じゃあ、追い出して、実家に帰らせて、その間に引越す!」
 「笑美華伯母さんと一緒に、あっちの親戚も縁切るの?」
 「うん、だってそうしないと、セットだもん」
 「だよな。寿一伯父さんが離婚したら、俺らは関係なくなるけど、そっちはそうだよな」
 俺は、その遣り取りをぼんやり眺めていた。
 気が抜けたのか、何もする気が起きない。
 腕環は着けっぱなしだったが、魔力モードだからか、全く疲れていない。袖の上からそっと腕環に触れる。何かの……いや、デーレヴォの気配に安心する。体力モードでも魔力モードでも、腕環の中にいる時の気配は同じだった。
 昼過ぎに父ちゃんが戻って来た。
 母方の……花隈(はなくま)の祖母ちゃんと、オカンの兄……花隈家長男の義一伯父さんが一緒だった。花隈の祖父ちゃんは、ずっと前に亡くなったが、オカン以外みんな常識人だ。何でオカン一人があんななのか、謎過ぎる。
 居間と客間の襖を取って広くした部屋に、全員集められた。
 姉ちゃんが、手に持っていたICレコーダの録音ボタンを押す。俺のポケットに入っていた物だ。姉ちゃんのは、証拠として警察に預けてある。
 「一度ならず二度までも、こちら様には大変なご迷惑をお掛け致しまして、誠にお詫びの言葉もございません」
 祖母ちゃんは菓子折り、義一伯父さんは、三十キロ入りの米袋を差し出して、友田家の親戚一同に土下座した。
 父ちゃんは、分厚いA4封筒三つを脇に置いて、重々しく口を開いた。
 「笑美華は、結婚当初から不貞行為を続けていました。相手は七人、明確な証拠があるのは、直近に交際した三人。全員の素性と交際期間、証拠写真等のコピーです」
 顔を上げて固まった二人の前に、封筒のひとつを置いた。
 祖母ちゃんと義一伯父さんは、泣きそうな顔で、もう一度頭を下げた。
 「不埒な娘で申し訳ございません。この償いは、必ず致しますので、子供達の為に離婚は思いとどまって下さいませんか……?」
 「私は単身赴任していましたが、家計費の口座は別に作って笑美華に渡し、毎月決まった日に、十五万円ずつ振り込んでいました。家のローンと税金、子供達の学費の積立は、私の口座からの引き落としで、十五万円は、食費や光熱費等の生活費として、渡していたお金です」
 一週間の食費三千円で一カ月だと二万以下……
 オカン、何に使ってたんだよ。いや、まぁ見たけどさ……
 「笑美華が、審査のゆるい所でクレジットカードを作り、浪費していた事がわかりました。家計費の殆どを使い込んだ上、娘のアルバイト収入も、この子たちの為に友田の祖父母が積み立てていた貯金も、お年玉も全て、私が留守の間に取り上げて、浪費していました。これは、その浪費の証拠のコピーです」
 父ちゃんが、ふたつ目の封筒を不貞の封筒の上に重ねた。
 祖母ちゃんと義一伯父さんが、更に低く頭を下げる。
 「至らぬ妹で、申し訳ございません。借財は、私共が必ずお返し致します」
 祖母ちゃんの涙が、畳に落ちた。
 「以前は、私の両親と同居していましたが、七年程前に笑美華が追い出してしまいました。その後、長女と次男に家事の全てを押し付け、暴言や暴力等の虐待もしていました。私に告げ口しないように、暴力で脅されていた為、不覚にも最近まで気付かず、子供達には……長い間、申し訳ない事を……」
 父ちゃんは、そこで声を詰まらせ、祖母ちゃんが、涙でぐしゃぐしゃになった顔を姉ちゃんと俺に向けた。義一伯父さんも、目にいっぱい涙を溜めている。
 「お母さんは、お兄ちゃんの事は甘やかしまくって、お小遣いいっぱいあげて、どんな悪い子と付き合っても、何も言わなくて、万引きとか悪い事しても、全然叱らなかったから、今でも不良大学生で、昨日イケナイお薬使ってるのがわかって、逮捕されたの」
 涙を拭う父ちゃんに代わって、姉ちゃんが淡々と説明を始めた。
 「私達は、誰とも遊ばないようにお母さんに監視されて、私達と遊んでくれた子に空缶ぶつけたりして、暴力で追い払われて、その事がみんなに知れ渡ってるから、学校でも近所でも、ずっと一人ぼっちだったの」
 二人は驚いた目で、姉ちゃんの顔をまじまじと見る。
 「私達は何も悪い事してなくても、殴られたり、出来損ない、ゴミクズって罵られたり、病院で取り違えられた他所の子だとか、こんなブス要らないとか、お前みたいな不細工、生きてても仕方ないとか……毎日毎日、ずっとそう言う事しか、言われてないの」
 姉ちゃんは無表情で、ニュースの原稿でも読み上げるように、淡々と言った。
 祖母ちゃんは、声を上げて泣き出した。
 父ちゃんが大きく息を吐いてから、言葉を続けた。
 「連休前の木曜、児童相談所に行きました。何年も前から繰り返し、近所の方々が何人も通報して下さっていました。生命に別条はなさそうだと判断され、役所が直接我が家に関与する事はありませんでしたが、通報の記録は多数残されています」
 「今までずっと、お母さんに邪魔されて言えなかったけど、いつか伝えられると思って、記録を付けて、証拠を残しといたの」
 姉ちゃんが、不貞と浪費の封筒の上に、虐待の証拠のコピーが入った封筒を積み重ねた。
 「昨日、離婚の話し合いをしている時に、笑美華は包丁で娘を殺そうとしました。私が殴って気絶させたので、この通り、娘は無事です。悲鳴を聞いたご近所の皆さんが通報して下さって、笑美華は一旦、病院に運ばれましたが、事情聴取の警察官に暴力を振るって逮捕され、今は留置場に移されています」
 友田の親戚がざわつく。
 祖母ちゃんと義一伯父さんは息を呑み、廊下に出て土下座した。
 「笑美華が起訴されても、されなくても離婚します。こんな事になるまで気付かなかった事は、私の不徳の致す所ですが、ご了承下さい」
 父ちゃんは、そこで一旦言葉を切って、廊下の二人を見た。
 二人は少し顔を上げて、何度も頷きながら、平伏した。
 「現在、DNA鑑定の結果を待っています。私の子なら、私が親権者になります。私の子でなかったとしても、この子達は、福祉施設等に預けて、笑美華の手の届く所には、置きません」
 「あの女を本家の裏山にでも埋めてくれるんなら、会いに行ってもいいけど、私もこの子も、あの女が生きてる限り、絶対に花隈の親戚には会わないし、連絡もしませんから」
 姉ちゃんが、オカンをあの女呼ばわりしても、誰も何も言わなかった。

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