■碩学の無能力者-02.日常 (2014年12月10日UP)

 玄関の鍵を開け、誰も居ない家に入る。居間の時計は、午後二時前を指していた。
 家の電話で短縮ダイヤルを押す。
 電話に出た愛子(あいこ)叔母さんから、仏の明石とほぼ同じ事を言われた。
 「困った事があったら、すぐに言ってね。夜中でも遠慮しなくていいから」
 俺は今、現に困ってるんですが……
 俺よりも当時をよく知ってる筈なのに、叔母さんは事件を未然に防ぐ気がないらしい。
 オカンが何かやらかしてからじゃ、遅いんだってば!
 祖父ちゃん祖母ちゃんは、元々うちで一緒に住んでいた。でも何故か、俺が小一の時に愛子叔母さん……都内に住む父ちゃんの妹の家に引越した。
 祖父ちゃんならわかってくれると思ったが、今は専門の病院に通ってリハビリ中だ。
 一月に脳卒中で倒れて、命は助かったけど、左半身に麻痺が出てしまった。でも、リハビリが巧く行けば、日常生活で困らないレベルまで、身体機能を回復させられるらしい。
 祖父ちゃんの特訓を邪魔する訳にはいかない。
 叔母さんにお礼を言って、受話器を置いた。

 終わった……

 いや、まだだ。
 いざとなったら、俺が自力で赤穂と須磨春花と塩屋さんを守る。
 俺は、生まれて初めて「回避」以外の行動に思い至った。
 でも、具体的にどう動けばいいのかは、まだ分からない。
 取敢えず、姉ちゃんと共同の自室に鞄を置き、部屋着に着替えて台所に立つ。
 朝食で使った食器を洗い、米を研いで炊飯器にセットする。
 食欲はなかったが、特売のベビーチーズを一個口に入れ、掃除機を稼働させた。
 父ちゃんは、友田寿一(ともだ ひさかず)。
 パッとしない外見で、まじめだけが取り柄の会社員。
 俺が物心つく前から、天神府の支社に単身赴任。帝都の自宅とは飛行機の距離で、年末年始とゴールデンウィークと、お盆休みにしか帰って来ないので、当てにできない。
 オカンは友田笑美華(ともだえみか)。母親ではなく、最早「敵」。
 年の割に若くて顔だけはキレイな専業主婦……の筈だが、家事は姉ちゃんと俺に丸投げ。俺が小一の時、それまで同居していた祖父ちゃん達が、愛子叔母さんの家に引越した。それ以来、夜遅くまで何処かに行っている。ブランド物とか買いまくってるから、内緒で何か仕事してるのかもしれない。
 クソ兄貴は、友田創歌瑠(ともだそうる)。オカン似の性格でオカンの味方。つまり敵。
 三流私大の三年生。金さえ払えば誰でも行ける所で、小学校からエスカレーター。「創歌瑠」と言う名をカッコイイと喜べる感性は、悩みがなさそうで、いっそ羨ましい。
 姉ちゃんは、友田迷露茶(ともだめろでぃ)。姉弟と言うより盟友。
 都立商業高校の三年生。早く独立できるように、就職に有利な資格をとりまくっている。「迷露茶」という音楽系と飲物系のコラボ名を心底嫌がっていて、変えられるものなら改名したいと愚痴っている。
 俺も「鯉澄」は嫌なので改名したい。「理澄」で「さとすみ」と読むなら、どちらかと言えば、普通の名前なのに。何だよ。どういう意味だよ。「鯉澄」で「りずむ」って。

 ソウル・メロディ・リズム……

 うわぁ……可哀想に……という、世間のまともなネーミングセンスの大人の目が痛い。
 オカンが「この名前を認めないんなら、この子を殺して私も死ぬ!」と、毎回やらかして、父ちゃんも父方母方双方の親戚も、お手上げ。
 そして、創歌瑠・迷露茶・鯉澄の三兄姉弟が、できあがってしまった。
 音楽の授業が苦痛でたまらない。音楽会なんて行事が、なければいいのにと思う。
 クソ兄貴と、姉ちゃん&俺の扱いが全然違うのを知っている人は、誰も居ない。
 クソ兄貴は、毎月小遣い貰って、スマホの最新機種持ち。部屋は個室。
 部活して、同レベルの奴とつるんで悪さして、アホなのにやたら金掛かる大学に行って、家事もバイトもせず、女遊びしまくり。
 姉ちゃん&俺は、小遣いなし、ケータイなし。相部屋で二段ベッド。お年玉も父ちゃんの正月休みが終わったら、「食費」として、全部、オカンに取り上げられる。
 俺の部屋になる筈だった部屋は、オカンのブランド服置き場になっている。
 部活は「金が掛かるから」と、オカンに反対され、万年帰宅部。
 オカンは、何故か、姉ちゃん&俺の交友関係を全力で潰してくる。
 小さい頃、公園で知らない子と遊んでいたら、オカンは「バカが移る! 遊ぶな!」と喚き散らして、その子に空缶ぶつけて、追い払ってしまった。
 同性の同級生は「こんなレベルの低い子と遊ぶな」と、全方向性のダメ出し。
 異性の同級生は「子供の癖にマセててイヤらしい」と、エロ方向のダメ出し。
 隣の須磨兄妹は「早く死んでくれればいいのにね」と、存在自体を完全否定。
 大学は「あんた達みたいなバカに行ける所なんてないし、受験料が無駄」と、オカンに反対されてる。塾にも行かせてくれないから、学校と家で頑張るしかない。
 家事は、姉ちゃんと俺が手分けして、全部やってる。「出来損ないのお前達を育ててやってるんだから、このくらいやって当たり前」がオカン理論だ。
 オカンは何故か突然、わざわざゴミを撒いてから「掃除がなってない!」と布団叩きで、髪や服で隠れる部分を殴る。
 俺が何か「地雷」を踏んだからだろう。
 以前は姉ちゃんが標的だったが、バイトを始めてからは、俺がメインの家事担当者になると同時に、サンドバッグにクラスチェンジ。
 俺達姉弟が庇い合うと、火に油を注ぐだけなので、黙って耐えるしかない。
 父ちゃんの帰宅が近い時期には、機嫌がよくなり、痣ができるような事はしない。
 姉ちゃんは、独立資金を貯める為にバイトしてるけど、給料が振り込まれる通帳とカードをオカンに奪われて、使い込まれている。
 姉ちゃんが「バイト辞める」って言ったら、オカンにボコられていた。結局、高校に入ってからずっと、同じ食堂「北斗星」でバイトを続けている。
 黙々と掃除機を動かし、居間と台所と一階の廊下の掃除を終えた。炊事や掃除をしている最中は、何故か、いつも嫌な事を思い出してしまう。
 満タンになった紙パックを交換し、掃除機を片付けた。
 嫌な記憶を振り払うように腕を振って、風呂場に向かう。シャワーで浴槽を流しつつ、洗剤不要のスポンジで、しっかりこすって湯垢を落とす。
 祖父ちゃんも、叔父さん、叔母さんも、従姉兄も、みんな好きだ。
 好きな人にこそ、迷惑を掛けたくないから、なるべく頼りたくない。
 父ちゃんは、仕事と移動で疲れきっていて、家ではずっと寝ている。しかも、オカンがべったりへばりついている。
 俺と姉ちゃんには、説明する機会すらなかった。
 何もかも、クソ兄貴が美人のオカンに似てイケメンで、姉ちゃん&俺は、父ちゃんに似てパッとしない外見だからだ、と思う。
 うだうだ考えている内に風呂掃除完了。汚れに怒りをぶつけていると、掃除が捗る。
 すっかりキレイになった浴室を見ると、気持ちも少しスッキリした。
 俺は、夕飯の仕込みをしに台所に戻った。
 明石先生がくれたクッキーは、後で姉ちゃんと半分こしよう。
 甘い物は、元日に親戚の家に行った時以来、三か月振りだった。

 始業式の翌日、早速授業が始まった。と、言っても今日までは午前中授業だ。
 掃除が終われば帰れる。
 塩屋さん、須磨春花とは別の班になったが、巴とは同じ班になった。出席番号順だから仕方がない。それに、ある意味セーフと言える人員配置だ。
 俺達の班は、男女三人ずつ計六人。今週は本校舎の東階段担当だ。
 回転箒で埃を集めてから、雑巾モップで磨く。
 巴は、女子に話し掛けられまくっていたが、ずっと暗い表情で、足下のモップの動きを見ていた。返事は単語のみ。
 それでも、女子達は根掘り葉掘り、誕生日、血液型、好きな色……と、あれこれ質問を浴びせていた。
 これは、巴でなくてもうんざりする。お前ら刑事かよ。
 「水捨ては重いから俺らが行く。女子はゴミ捨てに行ってくれ」
 班長の西代(にしだい)が返事も待たず、巴の手を引いて手洗い場に向かった。
 俺もバケツを持って後を追う。
 「あいつらしつこいよな。個人情報保護法とか知らねーのかよ」
 バケツの中で雑巾を洗いながら、西代が言った。
 巴は小さく頷いた。西代が俺を見たので俺も頷いて同意を示した。
 「巴さ、イヤだったらイヤって言えよ。一発ガツンと言ってやりゃ、あいつら黙るし」
 陰で「サイテー」とか言われるけどな。
 巴は、雑巾を絞りながら黙って頷いた。
 「お前、大人しいなぁ。言い難かったら俺が言ってやろうか? 班長として」
 「……うー…………ん……」
 巴は、否定とも肯定ともつかない曖昧な声を出して、雑巾を広げた。
 西代が困った顔でオレを見る。俺は外国人のように肩を竦めてみせた。

 帰る道々、巴の事がムカついて堪らなかった。
 ぬるい返事しやがって。気が小さいのか知らんが、自分の身くらい自分で守れよ。
 嫌だったら嫌って、意思表示すればいいのに。
 所詮、あいつら同学年の女の子じゃないか。女子にも何も言えないんじゃ、ヤンキーにカツアゲされ放題じゃないか。
 どうせ、「言っても止めてくれない、仕方がない」って思いこんで、一人で勝手に無常感に浸ってんだろ。
 俺みたいに、やるだけやってみて、それでもダメだったんなら、仕方ないけど、やる前から諦めて、何もしないとか、バカじゃねーの。
 マジキチな大人に理不尽にチャンスを踏み潰されてる訳じゃないのに。
 何で、自分が頑張れば、何とかなりそうな事なのに、自分の手で、何とかしようとしないんだよ。
 救いの手を、掴もうとすらしないんだよ。
 せめて、助け船を出してくれた西代に、お礼くらい言えばいいのに。何様のつもりだ?
 あいつ、あんな無気力で、よく今まで生きてこれたよな。それともアレか?
 「努力とか一生懸命とか、マジになってる奴だっせ―。バカじゃね?」って、クソ兄貴みたいに斜に構えて、「本気出したらスゲーけど、敢えて本気出さない俺カッコイイ」って、世間様を舐めてるダウナー系中二病なのか?
 イケメン様は、頑張ってる奴を見下して、鼻で笑えるくらい、人生イージーモードなのか?俺なんか、顔はこれだし、授業中、超まじめに頑張って、家でも勉強頑張って、筋トレ頑張っても、平均点よりちょい上止まりなのに。

 帰ってすぐ、冷蔵庫内の所定の位置に隠された封筒を出し、中身を確かめる。
 三千円也。
 これで、家族四人、一週間分の食材を調達するのか……
 まぁ、どうせクソ兄貴は彼女の所に入り浸りで、オカンはどっか行ってる。
 朝以外は、姉ちゃんと二人分だけだし、毎回なんとかなっていた。
 オカンは家計簿をつけない。なのに、俺達のおつかいチェックは、やたら厳しかった。毎回、レシートと釣銭を提出させて、電卓で計算する。
 完全に姉ちゃんと俺を泥棒扱い。
 買物の内容ではなく、お釣りを盗んでいないか、調べているだけだ。
 クソ兄貴は小学生の頃、コンビニとかで万引きして、何度も捕まっていたが、姉ちゃんと俺は、泥棒なんて一回たりとも、した事がない。
 「創歌瑠たんは、おこづかいが足りないと、万引きしちゃうから」と、クソ兄貴には毎月、万単位の現金を渡している。
 姉ちゃんと俺は、小学生の頃から一度も、おつかいを褒められた事も労われた事もない。うっかり、オカンの嫌いな食べ物を買って、殴られた事ならある。
 姉ちゃんが、小五の家庭科の時間に「家計簿」を習ってからは、おつかいと光熱費分のみ、家計簿を付けている。それ以外の金の流れは、知らないので記録できない。
 オカンは、姉ちゃんと俺が使う金は、家族用の買出しでも、鬼の形相で監視するのに、姉ちゃんと俺が貰った金は、祖父ちゃん祖母ちゃんが「学費の足しにしなさい」と、積み立ててくれた定期預金でも、勝手に解約して使い込んでいた。
 数年前、姉ちゃんがゴミ捨ての時に、生ごみの中から、残高ゼロの通帳を見つけた。姉ちゃん名義百二十万、俺名義七十万貯まっていたが、解約されていた。
 姉ちゃんは通帳を拾い上げて、洗ってからビニール袋に入れた。
 「時機が来たら、お父さんに相談しよう」と言って、タンスの下に隠してある。

 その時機とやらは、いつ来るんだろう……

 俺は、エコバッグを持って家を出た。
 まずは、駅前のスーパー。一斤九十八円の食パンと、冷凍の鶏肉と特売の卵を買った。
 それから、商店街の八百屋「本山商店八百源(もとやましょうてんやおげん)」で、新鮮な野菜を買う。
 スーパーの特売品の方が安いが、野菜はいつも、ここで買っている。
 八百源の本山婆さんは、俺が買物に行くと、いつも「おつかい? 偉いね。お母さんには内緒だよ」と、おつかいのご褒美として、百円玉を握らせてくれるからだ。
 婆さんに家の事情を話した事は、ない。
 小一の時からずっとこうで、今日もニコニコ褒めてくれた上に、ご褒美もくれた。
 当初、遠慮して断っていたが「子供が遠慮しなさんな」と、笑いながらポケットに入れられたので、今はお礼を言って受け取っている。
 八百源で貰った百円玉は、オカンに見つからないように隠してある。
 学習机の引き出しの裏に貼り付けた封筒に入れ、千円貯まったら、お札に両替して、別の場所に移す。お札は複数の封筒に分散して隠し、今の所は、見つかっていない。
 小一から現在までの「八百源貯金」は、五万一千円になっていた。

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