■碩学の無能力者-06.情報戦 (2014年12月10日UP)

 「ちょっと、そんなカッコで寝たら風邪引くじゃない」
 姉ちゃんの声で起き上る。窓の外は真っ暗だった。
 「今日はね、店長がトンカツ分けてくれたから、カツカレー。早く食べよっ」
 姉ちゃんは、食堂でバイトしている。高校の最寄り駅の前で、客は大学生やサラリーマンがメイン。店長は、話の分かるおばちゃんだ。
 姉ちゃんが、オカンにバイト代を巻き上げられる事を言ったら、研修期間終了後の時給UP分は、口座に振り込まず、現金払いにしてくれた。姉ちゃん用に手提げ金庫を用意して、店の金庫の中で別保管してくれている。
 姉ちゃんの金庫には、この二年ちょっとで、大卒の初任給くらい貯まっていて、寮付きの会社に就職できたら、最初の給料が出るまで、余裕で凌げるらしい。
 おまけに、賄いをテイクアウトさせてくれるから、食費と栄養も助かっていた。店長には、どれだけ感謝しても足りない。俺達姉弟の命の恩人だ。
 体に力が入らない。のろのろした動作で、ベッドから這い出る。
 何か落ちた。
 銀の腕環……
 一気に目が覚めた。腕環を拾い上げる。夢じゃなかった!
 「キレイね。それ、どうしたの?」
 「腹減った……食べながら説明するよ」

 俺は、順を追って説明した。但し、デーレヴォが裸で出現した件は、内緒だ。話している内に昼間の感動と興奮が蘇ってきて、胸が熱くなる。
 姉ちゃんは、驚いたり、喜んだり、神妙な顔をしたり、くるくる表情を変えて、相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。
 「改名の条件は、法務省とか家庭裁判所のサイトで、ちゃんと調べようね」
 姉ちゃんは慎重に言った。
 一応、学校の課題や宿題で使うから、クソ兄貴と姉ちゃん&俺に一台ずつ、ノートパソコンが与えられている。回線もそれぞれの部屋に引いてある。
 父ちゃんとオカンの部屋にも一台ある。オカンはメカ音痴だから、俺達のパソコンには触らない。せいぜい、ネット通販するくらいだ。
 説明の最後に、俺は腕環を着けた。
 巴家で貰った服を着たデーレヴォが現れる。
 「すっごい……かっわいいいい!」
 姉ちゃんは、デーレヴォに抱きついて、無邪気に喜んでいる。銀髪の美少女は、ストレートに褒められて照れたのか、微かに頬を染めて、はにかんだ。
 可愛い……この笑顔の為なら、過労死してもいい!
 「あ、この子の晩ご飯どうしよ? 何食べるの? カレー大丈夫?」
 「デーレヴォ、カレー食べられますか?」
 「私には、物を食べる機能がありません」
 デーレヴォは、淡々と答えた。ホントに魔力か体力だけで動くんだ。
 それを聞いて、姉ちゃんは、デーレヴォを放して椅子に座り、真剣な顔で考え事を始めた。考え中の姉ちゃんには、話しかけてはいけない。俺はそっと立ち上がって、食器を流しに運び、デーレヴォに食器の洗い方を説明した。
 食器を洗いあげ、お茶の淹れ方も説明する。
 テーブルに湯呑みを置くと、姉ちゃんは重々しく口を開いた。
 「この子って……可愛いけど、諜報員……なのよね?」
 「えっ……あ、うん。巴先生はそう言ってたけど……」
 姉ちゃんの向かいに俺、俺の左隣にデーレヴォが座っている。姉ちゃんは、お茶を一口すすって湯呑みを置くと、今まで見た事もない険しい表情を俺に向けた。
 「お父さんに、離婚してもらおう」
 「えっ!?」
 唐突な言葉に思考が停止する。
 姉ちゃんは、苦しそうに説明を始めた。
 「お母さんはね、浮気してるの。私は今……少しずつ証拠を集めてて、クレジットカードの明細とかをゴミ箱から拾って、学校のロッカーに貯めてるの。お母さんが毎日何時に帰ってきて、その時、どんな様子かも記録してんの。でも、それだけじゃ、証拠として弱過ぎて、お父さんには言えなかったの」
 全然、知らなかった……
 「今のまま名前を変えたら、絶対、お母さんに殺される。だから、お父さんにお母さんを追い出してもらおう。あんただって、あんなお母さん、いらないでしょ?」
 姉ちゃんと俺は、お互いに名前を呼ばない。俺は無言で頷いた。
 「明日、ICレコーダとカメラ買ってくるから、この子に使い方を教えて」

 デーレヴォという諜報員を得た俺達は、家族の皮を被った敵との戦いを始めた。

 濃密だった第三日曜の翌日。
 俺達は、改名の為の情報戦を開始した。まずは、軍備の増強を図る。
 姉ちゃんが、バイト帰りに中古屋でICレコーダ三台、電機屋でコンパクトデジタルカメラ一台、新品のSDカードとDVD‐RとUSBメモリ、カメラ屋でフィルム式の使い捨てカメラを二台買ってきた。
 ICレコーダは姉ちゃん、俺、デーレヴォが一台ずつ持つ。姉ちゃんと俺はオカン……ついでに、クソ兄貴の暴言の記録用。デーレヴォは、オカンの浮気の証拠用。
 コンデジは、浮気現場の動画用。型落ちの展示品がビデオカメラよりも安くて、動画撮影機能が付いてたから。SDカードはコンデジのメモリ。
 DVD‐RとUSBメモリは、証拠をまとめてコピーして保存する為。
 使い捨てカメラは、デジタル写真は改変しやすく、証拠能力が低い為。現像とプリントに別料金が掛かっても、フィルム式でないとダメだから……だそうだ。
 姉ちゃんは、パソコンにテキストファイルで、オカンの観察記録を付けていた。
 記録は数年前……姉ちゃんが中二の秋、残高がゼロになった俺達の通帳を見つけた日から、始まっていた。
 俺が、ただ、こき使われて殴られてる間、姉ちゃんは、俺達がされた事を記録していた。
 俺達の将来の為の預金を使いこまれた事、俺達がさせられた家事、振るわれた暴力、浴びせられた暴言、「長男」と「長女&次男」の扱いの差、オカンの外出と帰宅の記録、食費と光熱費の記録、オカンの衣裳部屋にあるブランド物の服やバッグ、アクセサリー、化粧品、靴の一覧表……
 毎日びっしり、項目ごとに事実のみを淡々と、一切の感情を交えず記録してあった。
 姉ちゃん目線の記録は、俺が経験したのとは、違う世界の出来事みたいだった。
 俺は、自分が兄貴みたいなイケメンじゃなくて、鈍臭くて勉強で一位になれなくて、家事も上手くできない、取り柄なしの役立たずだから、オカンがキレるのは仕方ない……自分がもっと頑張れば、オカンを怒らせずに済む、と思っていたけど、姉ちゃんの記録は違った。
 記録の項目は全部で五つ。
 身体的虐待
 精神的虐待
 育児放棄
 不貞行為
 家計費の浪費
 児童虐待のニュースは見た事がある。でも、もっと小さい子の事だと思っていた。

 俺達って、オカンに虐待されてたのか……? 

 姉ちゃんは、膨大なテキストが詰まったフォルダをUSBにコピーしながら言った。
 「あいつは口がうまくて外面がいいから、私達がお父さんに言っただけじゃ、信じてもらえないでしょ。それに、役所にチクるのも、証拠があった方がいいし」
 証拠を固めて、言い訳できないようにしてから行動しないと、逆に俺達が悪者にされて……詰む。姉ちゃんは、俺よりずっと頭がいい。
 姉ちゃんは、フリーメールのアカウントを、別々のサービスで、ひとつずつ取得した。テキストファイルの入ったフォルダを圧縮して添付したメールを送信する。
 オカンにパソコンを壊されたり、USBを奪われたりした時の為の保険だ。もし、何かあっても、サーバには残る。
 そのサーバも一カ所だと、飛んだ時に泣きを見る。ひとつは送信専用にした。別のサービスで取得したもうひとつのアカウントは、受信専用のバックアップにした。
 玄関が開く音で、二人とも息を止めて固まった。
 思ったより早く、オカンが帰ってきてしまった。
 いつもは夜遅いのに、今日は夕飯の味噌汁がまだ冷めきっていない。
 姉ちゃんはオカンに呼ばれて一階へ。クソ兄貴はまだ帰っていない。
 デーレヴォに機器類の使い方を教えるのは、諦める。声を聞かれて怪しまれるとマズイ。腕環に戻して通学鞄の底に隠した。
 念の為、ポケットにICレコーダを忍ばせて、衣裳部屋に入った。二階は階段に近い方から、姉ちゃん&俺の部屋、衣裳部屋、クソ兄貴の部屋。
 灯を点け、一旦、廊下に出て部屋全体をコンデジで撮る。シャッター音が廊下に響き渡り、心臓が止まりそうになった。設定をいじって、消音モードに切り替える。
 今日のミッションは、オカンの浪費の証拠集めだ。姉ちゃんは「納品書の補足説明だから、コンデジの写真でいい」と言っていた。
 オカンがこちらの動きに勘付いて、証拠隠滅した場合の対策として、画像を残す。
 レシートは、その場で捨ててくるのか、家のゴミ箱では見た事がない。ネット通販の納品書は、既に姉ちゃんが押さえている。通販だけでもかなりの額だ。
 たくさんのハンガーラックに、服がぎっしり掛けられ、服屋みたいになっている。
 ラックの下には、靴の紙箱が幾つも積み上がり、部屋の隅には、半透明の衣装ケースが五段重ねになっている。中身はハンドバッグやショルダーバッグの類だ。
 ……これ全部フリマで売ったら、一体、幾らになるんだろう。
 膨大な量に眩暈がした。これをひとつずつ写真に撮るのか……
 オカンの在宅を考慮し、今日は一番数が少ない靴だけ撮って、撤退することにした。
 箱を床の空きスペースに置き、蓋を開ける。紫色のハイヒール。手ブレを考慮し、数枚撮って蓋を閉め、元の位置に戻して次の箱に取り掛かる。
 一階から、オカンが喚く声が聞こえてきた。
 ドアを閉めているので、内容まではわからない。一階に行くべきか、躊躇する。
 俺が行っても、姉ちゃんを助けることはできない。きっと姉ちゃんなら、致命傷にならないように、オカンの攻撃を回避してくれる筈だ。今までずっと、そうだった。
 ……と言うか、姉ちゃんがオカンを引きつけてくれてる間に、作業を進めないと。
 俺は姉ちゃんを信じて、ミッションを続行した。
 部屋に仕舞ってある靴は、三十四足だった。まだ、玄関の靴箱にもある。
 足は二本しかないのに、こんな大量にあってどうすんだよ。姉ちゃんは、学校指定の革靴と運動靴、俺は運動靴と百均のビーチサンダル各一足なのに。
 箱を全て元の位置に戻し、灯を消して廊下に出る。
 オカンは、まだ、姉ちゃんを罵倒していた。晩飯が気に入らないらしい。
 ……だったら自分で作れよ。
 何かがひっくり返る派手な音。
 足音荒く廊下を歩く振動。
 玄関のドアが開く音。
 ドアが乱暴に閉められる音と振動の後、急に静かになった。
 そっと階段を降り、玄関を確認する。姉ちゃんの靴はある。施錠して台所へ。
 「あ、丁度いい所に。カメラ持って来て。使い捨ての方。それと腕環の子も」
 姉ちゃんに嬉しそうな顔で指示され、回れ右して二階へ引き返した。
 台所に戻っても、姉ちゃんは床に座り込んだままだった。
 デーレヴォは、台所の惨状に息を呑んで暗い顔になった。
 テーブルがひっくり返り、割れた食器とご飯と味噌汁、踏みにじられた焼き鮭が散乱している。味噌汁を浴びせられた姉ちゃんは、髪と服にワカメと豆腐がくっついていた。
 「腕環の子に教えながら撮ってね」
 デーレヴォに使い捨てカメラの使用方法を説明しながら、廊下に下がり、まずは惨状の全景を撮る。それから俯く姉ちゃん全体、姉ちゃんの味噌汁汚染部分、床の散乱物、踏みにじられた鮭……をそれぞれアップで撮った。
 ついでに、コンデジの動画撮影機能の使い方を説明してから、ムービーも撮る。撮影が終わると、姉ちゃんは立ち上がりながら、テーブルを起こした。
 「デーレヴォ、掃除を手伝って下さい」
 「かしこまりました」
 姉ちゃんは、味噌汁がシミにならないように、風呂場へ洗濯しに行った。俺は、デーレヴォに説明しながら、割れた食器と、生ごみと化した晩飯を片付ける。
 プラスチックの汁椀と箸だけを洗って、仕上げに台布巾でテーブルを拭く。デーレヴォに手伝って貰ったら、いつもより早く片付けが終わった。
 うちのテーブルが、巴んちみたいにごついのだったら、ひっくり返されないのに。
 オカンに何度もひっくり返された安物のテーブルは、あちこちにガタがきていた。
 洗濯と入浴を済ませて、パジャマに着替えた姉ちゃんが、「あんたも入んなさい」と、カメラと腕環を回収した。姉ちゃんは髪が短いからすぐ終わる。
 何かどっと疲れが出たので、シャワーで済ませ、自室に戻る。
 姉ちゃんは、不敵な笑みを浮かべて、パソコンに向かっていた。
 「ふふっ……今日だけでこんなに証拠が……」
 俺は鍵を掛け、ドアの前に古い教科書を詰めた段ボールをふたつ置いた。寝ている間に勝手に侵入されない為の対策だ。
 肩越しにディスプレイを覗くと、圧縮フォルダを添付したメールを発信した直後だった。
 衣裳部屋と靴の画像、オカンの暴言音声、卓袱台返し後の惨状動画。
 「どこ行ったの?」
 「ん? 口直しにスターアニスに行くって言ってた」
 スターアニスは、湊区にある三つ星ホテルの高級レストランだ。
 「朝ご飯の時に『昨日の残りのカレーはヤダ、魚がいい』って言ってたから、別に用意したのに、鮭が気に入らなかったみたい。『骨がイヤなの!』ってキレ始めて『安物の米買いやがって! 味も匂いも最悪で吐きそう! 味噌汁もよくこれだけ不味く作れるもんね!』……で、一口も食べてないのに、テーブルガッシャーン!」
 姉ちゃんは、テーブルをひっくり返す真似をした。
 よくある事だった。何が地雷になるのか、全く予測できない。
 俺はいつも考察しているが、未だに地雷の基準はわからず、対策も思いつけない。
 因みに、米は、オカンの親戚が定期的に送ってくれるので、一度も買った事がない。その親戚は、有名な米産地在住で、プロの稲作農家だ。
 「で、『何の為に食堂でバイトさせてると思ってんの! ちょっとは料理が上手くなるかと思ったのに! この無能! 役立たず! 食堂で何やってんのよ!』って言うから、『ホール係』って答えたら、『口応えすんな!』って、椅子を投げられて……」
 「ちょ……姉ちゃん……!」
 「流石に、それは避けたわ。そしたら『魚もロクに焼けない癖に!』って、鮭グシャー」
 「あぁ……」
 食い物を粗末にするクズは、餓死すればいいと思う。
 「一口も食べてないのに、『口直しにスターアニスに行くから、明日の朝はパンにしなさい!』って、私に鍋の味噌汁、ぶちまけて出てった」
 「姉ちゃん、火傷は……」
 「大丈夫大丈夫。こんな事もあろうかと、汁椀一杯分だけ、レンジで温め直して出したから」
 俺はホッとして、膝から力が抜けた。姉ちゃんは頭がいい。俺だったら、バカ正直に鍋で温め直して、火傷させられるところだった。
 「証拠がいっぱい集まったし、その子にカメラの使い方も教えられたし、今日はいい一日だったね」
 パソコンの電源を切りながら、姉ちゃんは、心底嬉しそうに笑った。

 作戦開始二日目の火曜。
 昨日、夜遅く帰ってきたオカンは起きて来ず、クソ兄貴は彼女の所に泊まったらしく、不在。俺達は平和に朝食を摂り、登校した。
 機器類をオカン達に盗られないように、姉ちゃんと分担して学校に持って行く。俺はコンデジとICレコーダ二台。
 巴は、昨日も今日も、先週と変わりなく無口だった。朝、目があった時、お互いに小さく会釈した以外は、これまで通り。
 きっと、昼飯のお礼とか言った方がいいんだろうけど、そんな事して、友達認定されたら、巴を危険に晒してしまう。巴の家族にも迷惑を掛ける訳にはいかない。
 オカンは、猛犬ポテ子に毒餌食わすくらいの事は、平気でやってのける。
 そうこうしている間に昼休みになった。
 机を寄せたり校庭に出たり、各自思い思いの場所で弁当を食べる。
 俺の班の女子は、他クラスの女子と校庭に行った。空いた席に、さも当然のように赤穂が座る。二年になってから、雨の日以外はずっとこうだ。
 弁当を食べながらオカルト話をする。
 昨日はデーレヴォの事は伏せて、フリマで会った占い師の爺さんの話をした。
 可能性の卵に会った件で昼休みが終わり、巴の家に行った事は話していない。話す気もない。言えば絶対、行きたがるから。
 今日は、占い師の名刺を持ってきた。最初に貰った無記名の方を赤穂に渡す。
 「お、巴の母ちゃん、料理上手いんだな。一口くれよ」
 名刺を受け取ろうと腰を浮かせ、視界に入った唐揚げをナチュラルに一個つまむ赤穂。
 赤穂……お前って奴は……
 「俺の母ちゃん、料理下手でさー、こんなのでもよかったら、交換で何か取って」
 赤穂は巴に弁当箱を向けた。巴は無言で俯いている。
 俺は、何気に赤穂の弁当箱を見た。
 寄り弁……卵焼きを失敗したらしきスクランブルエッグは焦げ、キュウリの厚みはバラバラ、べっちょりと煮崩れた煮物と、皮を剥いた八朔が直入れしてあり、色々な汁が染み込んだご飯は、茶色くなっていた。
 何このカオス。赤穂には悪いけど、俺が自分で作った弁当の方が、まだマシ。
 唐揚げを頬張ってヘラヘラしていた赤穂が、一瞬で青ざめた。
 「うわ……ご……ごめん! すまん!」
 焦りでしどろもどろになりながら、巴に謝り始めた。
 異変を感じた奴が、チラチラこちらに目を遣る。俺もそっと立ち上がって、巴の様子を見た。
 巴は、無言で大粒の涙を零していた。
 「ちょっとー、委員長の癖に何いじめてんのよー」
 副委員長の網干さんが、箸を握ったまま、こっちに来て赤穂を非難する。
 それに呼応するように、他の女子達もガタガタと音を立てて席を立ち、あっという間に赤穂を包囲した。みんな険しい表情だ。
 立ち上がっていた俺は、図らずも人垣の一部になってしまった。
 「あ……その、いじめじゃなくって、ちょっとしたおフザケって言うか、美味そうだったからつい……まさか、泣くとは思ってなくて、その……」
 「いじめっ子って大抵そう言うよねー」
 「相手が嫌がった時点でいじめじゃん」
 「悪気がなかったら何してもいいってもんじゃないのよ」
 「赤穂君、最悪〜」
 「委員長サイテー」
 女子達が囂々と非難する中、巴は首を横に振り、ブレザーの袖で涙を拭った。
 男子達は、恐ろしい物を見る目で固唾を呑み、こちらを見守っている。弁当に集中して無関係を決め込んでいる奴もいた。
 「いっ……いじ……違……これ、母さんじゃ……違う……」
 嗚咽で言葉にならない。
 あ……あぁ、そう言う事か。
 巴が何を言おうとしているのか、わかった。でも、これ、俺が言ってもいいのか?
 やや迷ったが、俺は口を開いた。
 「あ……あの……」
 みんなの視線が集中し、ドキリとする。背中がひやりと冷たくなった。
 「とっ巴の母ちゃん、先月亡くなったばっかりなんだって……それで、多分……いじめじゃなくって、単に委員長が『母ちゃんの弁当』って、地雷踏んだだけって言うか……」
 巴がしゃくりあげながら頷く。
 教室は、水を打ったように静まり返った。
 「うわ! マジごめん! 知らなくって、その、ホントごめん!」
 「えッウソ……マジで……?」
 「えぇーッ!? 可哀想〜……」
 「あー……取敢えず、これ使って」
 平謝りする赤穂。一気にざわつく教室。同情する女子達。
 網干副委員長が、そっとポケットティッシュを差し出した。

 家に帰ってすぐ、デーレヴォを呼び出す。デーレヴォは、かなりハイスペックで、一度の説明で、何でも完璧にこなした。
 掃除機の使い方を説明し、以前は祖父ちゃん達の部屋だったけど、今は居間として使っている六畳の和室の掃除をしてもらう。
 その間、俺は、オカンが朝食を食べ散らかした台所を片付け、夕飯の仕込みをする。
 因みに俺達は、オカンに物事を教えられた事がない。
 家事も、お手伝いからスタートではなく、いきなりメイン担当者として、丸投げされた。
 とにかく、色んな事を「さっさとしなさい! この愚図!」と、せっつかれて、未知・未経験でも、自分で調べる時間すら、与えられない。
 仕方なく、勘でやっても、オカンは「初回から成功して当たり前」な態度。一度も褒められた事はない。
 失敗したら「こんな事もできないの!? バカ! 役立たず!」と殴られる。
 小さい頃に「だって知らないもん……教えてよ」と言った事がある。オカンは「こんなの常識じゃない! 何でこんな当たり前の事も知らないの!? 非常識なガキね!」と怒鳴って、グーでボコボコにしただけで、結局、何も教えてくれなかった。
 俺と姉ちゃんは、オカンには、もう何も期待していない。
 風呂掃除の仕方を説明し、続きを任せてから、狭い庭に干した洗濯物を取り込む。居間で洗濯物を畳んでいる最中に、風呂掃除完了の報告を受けた。
 「お風呂掃除が終了しました」
 「ありがとう」
 お礼を言うとデーレヴォは、やわらかな微笑みを浮かべて、小さく頷いた。
 「じゃ……じゃあ、次、洗濯物片付けるの手伝って」
 「かしこまりました」
 一緒に洗濯物の山から一枚ずつ服を取り、畳んで積み重ねる。
 他所見して、洗濯物ではなく、デーレヴォの手を握ってしまった。
 「わ! ご、ごめん!」
 慌てて手を放したが、デーレヴォは不思議そうに首を傾げただけだった。
 やわらかくてあたたかい。
 姉ちゃんの手と何の違いもない、普通の女の子の手だった。自分の頬が熱くなるのがわかった。耳も赤くなってるに違いない。
 家事の負担が平等な新婚さんって、こんな感じ……?
 いや……でも、この子は諜報用のゴーレム……
 平静を装い、黙々と作業を再開する。
 デーレヴォと二人でやると倍疲れたが、倍速以上に早く家事が終わった。
 そして、一人でやるよりずっと楽しい。
 そうやって作った空き時間に、証拠集めの続きに取り掛かる。
 デーレヴォを衣裳部屋に連れて行き、今日はコンデジの写真撮影機能とICレコーダの使い方を説明した。
 ……だるい。このまま倒れそう……眠い。
 「デーレヴォ、この部屋の服をこうやって一枚ずつ写真に撮ってから、元に戻して下さい。もし、作業中に誰か帰ってきたら、俺の鞄にカメラを仕舞って、腕環に戻って下さい」
 「かしこまりました」
 本当は、二人で作業したかったが、限界だった。
 俺は自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。
 どのくらい眠ったのか、デーレヴォに声を掛けられて、目が覚めた。
 「写真撮影が終了しました」
 「ありがとう」
 コンデジを受け取り、デーレヴォには腕環に戻って貰った。少し楽になったが、まだ、だるい。腕環を外して鞄の底に隠す。
 重りが外れたように体が軽くなった。
 デジカメのデータを移すのは、姉ちゃんにやって貰おう。
 疲れ切った体を引きずってベッドに戻り、枕の下にコンデジを入れて横になる。
 作業が早く済んでも、俺自身が動けなくなるんじゃ、結局、同じじゃないのか……
 いや、そうでもないか。今は、まだ、説明段階だからで、デーレヴォが色々できるようになったら、別行動できるし……
 「大丈夫? 晩ご飯できたけど、食べられる?」
 姉ちゃんの心配そうな声に目を開ける。
 いつの間にか、完全に眠っていたらしい。まだ頭の芯に眠気が残っているが、体はかなり回復していた。
 「大丈夫。今日は服の写真撮って貰ってたんだ」
 「そう。あんまり無理しないでね」
 午後八時を回っていた。二時間以上眠っていた事になる。
 台所で晩ご飯を食べながら、作戦会議に入る。
 今日の賄いは、鯵のシソ巻き揚げとコロッケ。ご飯と味噌汁とサラダを追加して、栄養バランスを取っている。オカンと兄貴にはコロッケなし。鯵シソとサラダを皿に入れ、ラップして、冷蔵庫に仕舞った。
 「お母さんがお風呂に入ってる間にケータイ持ってくるから、あの子に使い方教えて」
 「ん? うん。でも、俺も使い方……」
 「私が教えるから、それを覚えるように言って」
 「わかった」
 二人きりだが、無意識に小声になる。
 オカンは髪が長いから長風呂だ。ドライヤーにも時間が掛かる。
 「あ、そうだ。やっぱり取りに行く所から、私の指示に従うように言ってくれる?」
 「うん。いいけど、何で?」
 「今夜だけで、全部転送できるか、わかんないじゃない。何日掛かるかわからないから、覚えてもらおうと思って」
 「メール……って、そんないっぱいあんの?」
 「多分……ね。携帯代の明細見た限り、相当なもんよ」
 「うわぁ……」
 俺達が風呂から上がっても、まだ帰ってこない。居て欲しくない時は居る癖に。
 姉ちゃんは証拠データの処理、俺は宿題をしてオカンの帰りを待った。それぞれの作業が終わり、ベッドで体を休めて待つ。
 うとうとし始めた頃、玄関が開く音で現実に引き戻された。十一時前。足音は台所に直行する。少しして、電子レンジの音が聞こえた。
 クソ兄貴だ。
 野菜を食べる気がないから、生野菜のサラダも、いっしょくたにレンジで温め直す。オカンは面倒臭がって、温めないでそのまま食べるか、姉ちゃんにやらせる。
 「明日にしよう」
 姉ちゃんが作戦の中止を宣言した。

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