■碩学の無能力者-09.援軍 (2014年12月10日UP)

 「起きてる?」
 ノックの音と姉ちゃんの声で目が覚めた。
 頭の脇にノーパソ。画面は真っ暗。スリープモードになっていた。
 窓の外も真っ暗だ。
 俺はベッドから出て箱を除け、鍵を開けた。スーパーのビニール袋と、エコバッグを持った姉ちゃんが入ってきた。鍵を掛け、箱を元に戻す。
 「今、家に二人きりだけど、念の為にね」
 姉ちゃんは、いつもの地味な恰好で言いながら、机にスーパーの弁当を置いた。パソコンのスリープモードを解除し、エコバッグからICレコーダとCD‐Rを出す。
 「写真はご飯食べながら見よう。半額のお弁当でごめんね」
 俺は机にパソコンを置き、自分の分の弁当を持って、椅子ごと姉ちゃんに近付いた。
 「姉ちゃん、変装は?」
 「したよ。バッチリ。友達が手伝ってくれた」
 「友達!?」
 思わず声が大きくなった。
 「高校に入ってからできた友達。妻鹿(めが)葵(あおい)さんって言うの。家が遠いし、学校や外で会う分には大丈夫。服とウィッグを貸してくれて、メイクもしてくれたの。葵さんちで着替えとメイク落としもさせてもらったから、すっかり遅くなっちゃった」
 姉ちゃんにも、赤穂みたいな学校限定の友達が居るんだ。
 姉ちゃんも、孤独じゃなかった。しかもこんな、バレたら洒落にならない事に協力してくれるって、親友レベルじゃないか。
 「姉ちゃん、よかった。友達……できてよかった」
 「ん? うん。ふふっ。ウチの学校、部活強制だから一応、調理部に入ったの。葵さんは部活の友達。私はバイトで殆ど行けないけど、何か仲良くなってね」
 俺は胸が詰まって、言葉もなく頷いた。
 校内限定の友達。そう言う良い縁もあるんだ。
 「葵さんち、両親がそれぞれ浮気して、小三の時に離婚したんだって。でも、どっちも子供要らないって押し付け合って……結局、母方の実家に引き取られて、今も、その家に居るの」
 ひでぇ……
 言葉を失う俺に構わず姉ちゃんは続けた。
 「葵さんに服貸してって言ったら、理由を聞かれて、説明したら、ノリノリで手伝ってくれて、尾行にもついて来てくれたの」
 「えぇっ!?」
 「多分、標的にはバレてないから、大丈夫。私達、観光客のフリして、葵さんのお祖父さんのカメラで、写真撮りまくったし」
 姉ちゃんはCD‐Rからパソコンにデータをコピーする間、嬉しそうにミッションの報告をしてくれた。

 妻鹿さんは、祖父からフィルム式の一眼レフを借りて、姉ちゃんと一緒にオカン達の待ち合わせ場所、奇知浄地(きちじょうじ)駅前に行った。
 ジャズ喫茶やライブハウスがたくさんあって、ミュージシャンとかが大勢住んでいる事で有名な町だ。歴史のある神社仏閣も多く、新旧の商店街が連なり、買物も充実している。参拝・観光客や買物客も、それなりに訪れる。
 約束の五分くらい前に男……龍寿が現れ、オカンは十分くらい遅れて来た。
 合流の様子は痛いくらいバカップルだった。オカンは龍寿の背後から忍び寄り、人通りの多い奇知浄地駅前で「だーれだ♪」をやらかした。
 「ん〜……笑美華さん?」
 「あたりー♪ 待った?」
 顔から手を離して、背後からべったり抱きつく。龍寿は、まんざらでもなさそうに、顔だけちょっと振り向いた。
 「全然。俺も今来た所」
 「お昼ね、アニスシージアのミニコース予約してあるの」
 「お、気が利くなー」
 龍寿がオカンの肩を抱き寄せて、並んで歩きだす。
 フォルダをふたつ開いて、姉ちゃんと妻鹿さんが撮った画像を交互に表示させる。
 ディスプレイに表示された写真に胃が痛んだ。二人が別々の角度から撮った写真には、全部、幸せそうに笑うバカップルの姿が、収められていた。
 オカンがこんな楽しそうに笑ってるとこなんて、今まで一度も見た事がない。
 カップル繋ぎで奇知浄地の街を歩く姿。
 石畳が敷かれた小洒落た商店街のお洒落な雰囲気のレストランに入るバカップル。その写真に写った店舗前の小さな黒板には、ランチミニコース二千五百円と書いてある。
 因みに、家族四人分の一週間の食費は三千円だ。米は親戚からの産地直送で無料。
 借金がある身で、一食にこんなに使ってるのがわかったら、父ちゃんはきっとブチ切れてくれる筈。
 俺は、四百九十八円が半額になった二百四十九円の唐揚げ弁当を口に運びながら、期待で胸が熱くなった。
 俺達の今夜の晩飯、オカンの昼飯の十分の一の値段。何この格差。
 オカン達はウェイターの案内で、オープンテラスに出てきた。姉ちゃん達は向かいの喫茶店に入り、窓際の席に着いた。
 外のテラスで楽しそうに話す写真。
 デーレヴォには「二人の室内での会話をICレコーダで録音して」と言ってしまった。外の席だから、録音はしていないだろう。
 外で食事をする可能性に気付かなかった。自分の迂闊さが憎い。
 運ばれてきた料理のアップ。妻鹿さんの一眼レフの写真が続く。
 前菜。オカンが、上品に盛り付けられたパテと温野菜で「はい、あーんして」をやらかした。美味しそうにオカンの分の料理を食べる龍寿。
 イケメンでも、食べ物を頬張る顔は間抜けだ。
 ホストっぽいジャケットとカラーワイシャツ、一応付けたネクタイはゆるゆる、スラックスは普通だけど、幅広のベルトは、鋲付きでバックルが蝙蝠だ。
 男だけど、ピアスとシルバーの指輪をしてる。髪の脱色が半端でプリン状。全体的にチャラくて、だらしない感じだ。
 オカンは美容院でセットしたばかりの艶々の髪。ふわふわの巻き髪にばっちりメイク。一目で高価とわかる上品なワンピースに、白いレースのカーディガン、ワンピースと同じ若草色のハイヒール。
 小さなショルダーバッグは、あれ一個で数十万するブランド物だ。イヤリングとネックレスも、本物の宝石が付いた高い奴。でも、指輪はしていない。
 頭の中を数日前に見た通販の伝票が駆け巡る。服と靴は今日の為にわざわざ買った物だ。
 ミニパスタはペスカトーレ。
 一本のパスタを二人で端から食べている写真。
 デーレヴォには「お菓子でする」って説明した。あの恥ずかしい説明が無駄に……
 姉ちゃん達に行ってもらってよかった。
 テーブルに身を乗り出し、顔を近付けるバカップル。背景に写り込んだ窓際席の客が、半笑いで二人を見ている。
 パスタを食べきり、そのままキスする二人を店内の客が笑って見ている。どう見ても、「微笑ましい」ではなく、絵に描いたようなバカップルをネタ認定する笑いだ。
 羞恥心と言う物を持ち合せていれば、こんな事は不可能だ。
 楽しそうに料理を口に運ぶ二人の写真が続き、食後の飲み物になった。オカンはアイスティー的な何か。龍寿はホットコーヒーか何かだ。
 推定アイスティーに曲がるストローを二本挿して、二人で飲む写真。またしても、店内の客がウケている。
 俺も、これが他人だったら、笑わない自信はない。
 店の入り口からレジが見える。龍寿は外で待っていて、オカンがカードで支払っている。
 街を歩く二人。
 龍寿がオカンの腰に手を回して、暑苦しいくらいベタベタしている後ろ姿。
 間で時々、横を向いてキスする写真が出てくる。
 ちょっと古くて、雑多な感じの商店街を歩く二人の後ろ姿。
 オカンが、龍寿にぶらさがるように腕を組んで歩く、嬉しそうな横顔。
 信号待ちの間、人目も憚らず正面から抱きつくオカン。どこか遠くを見ながら、オカンの背中に腕を回す龍寿。ギョッとした目で見る通行人。
 スーパーに入る二人。
 「店内撮影禁止だから、私達は外で待ってたの」
 姉ちゃんが説明する。室内だから、デーレヴォが会話を録音してくれている筈だ。

 俺は、食べ終えた弁当ガラと割り箸をスーパーの袋に押し込んだ。
 姉ちゃんが「お茶淹れてくる」と席を立ったので、俺もトイレに降りる。念の為にブラウザを起ち上げ、ニュースサイトを表示させておく。
 23時07分。
 オカンもクソ兄貴も、まだ帰っていない。
 足がふらふらする。
 トイレから出て、台所の姉ちゃんに声を掛ける。
 「ついでに風呂入っていい?」
 「いいよー」
 着替えは今朝、風呂掃除の後で、姉ちゃんが用意してくれていた。シャワーで要所要所だけ洗って五分で終了。それでもすっきりして、少し元気になった。
 歯を磨いて部屋に戻ると、姉ちゃんがお茶を淹れて待っていた。
 「私もすぐ上がるから、念の為に鍵掛けといて」
 俺は鍵を閉め、パソコンをプリンタに繋いだ。検索して、瀬戸川区児童相談所の地図を印刷する。
 弁護士事務所と探偵事務所の「離婚Q&A」ページ、それから家庭裁判所、児童相談所、瀬戸川警察署のURLをメモ帳にコピーした。
 件名を「役に立つリンク集」として、そのリストを例のフリメから、もう一個のアカウント宛に送った。
 【浮気】の正式名称……? が【不貞行為】って言う事を知った。
 不貞行為の証拠の集め方は、姉ちゃんのやり方で完璧だった。
 離婚の慰謝料は「有責配偶者」が払う事も知った。
 夫婦の内、悪い事した奴が払うって事だ。夫婦間の「悪い事」は、不貞行為、長期間の別居による婚姻生活の破綻、子供への虐待、DV、浪費……他にも色々。
 これをやってたら、どちらかが「離婚するのヤダ」ってごねても、家庭裁判所で調停や裁判をすれば、離婚できる。
 オカン、当てはまり過ぎ。
 父ちゃんがやってんのって、別居だけだ。それも、仕事で仕方なく、単身赴任してるだけだし、盆暮れ正月と連休には、ちゃんと帰ってきてる。
 もうすぐゴールデンウィークだ。父ちゃんが帰ってくる。でも、家にいる間はオカンがべったりへばりついて離れない。
 証拠はたくさん集まったけど、どうやって父ちゃんに渡せばいいんだ?
 姉ちゃんが、バスタオルで頭を拭きながら戻ってきた。
 俺は父ちゃんにどうやって知らせるのか、聞いてみた。
 「音声と動画は、腕環の子の分もDVDにまとめて、印画紙の写真とクレカの明細と通販伝票のコピーも一緒に、お父さんの会社に郵送するの。発送は早くても月曜日かな? ネガは店長に預かってもらったから、大丈夫。今日、写真屋さんで、印画紙にプリントして貰った分だけでも、充分過ぎるくらい威力あると思う」
 姉ちゃんは引き出しから、緊急連絡用にもらっていた父ちゃんの名刺を出した。
 うん。スゲー緊急事態だ。
 「転送した携帯メールは、受信用アカウントのIDとパスをメールで送って、先にあっちで見てもらう。わかった?」
 メールサーバには、デジカメの画像データもある。
 「わかった。やっぱ、姉ちゃん、頭いいわ」
 「またまたー。おだてたって何も出ないよ」

 姉ちゃんは、ミッションの報告を再開した。
 スーパーから出てきた二人の写真。色々買いこんだスーパーの袋一個を二人掛かりで持っている。鳥肌が立った。
 「バカップルの動作」コンプリートだ。
 もし、デートの場所が海辺だったら、砂浜を走って「ホホホ……捕まえてごらんなさーい」も、やるに違いない。
 俺達は、証拠を集めやすくて助かるけど、こいつら、人として終わってる。
 もしかすると、龍寿はオカンに「二十代の独身」って騙されてるかもしれない。でも、オカンが結婚してるの知ってて、不貞行為したなら、父ちゃんは、龍寿にも慰謝料を請求できる。オカンに飯を奢らせてるような男に払えるんだろうか?
 ディスプレイには、住宅街を歩く二人の後ろ姿が表示されている。
 二人がアパートの外階段を上がる様子。二階の一室に入る様子。部屋番号は二○三。
 アパートの全景。電柱の青い住所表示板が写り込んでいる。
 アパートの郵便受けの写真。こちらにも住所表示がある。二人が入った部屋の番号には名札が入っていなかった。
 姉ちゃんは、その住所をテキストファイルに入力した。
 「相手の名前、携帯のアドレス帳にはあった。野田龍寿(のだりゅうじゅ)……偽名じゃなきゃね」
 オカンがまだ帰っていないから、デーレヴォもまだだ。午前零時過ぎ。もう終電も行った。タクシーを使わない限り、今夜はもう帰らないだろう。
 さっきまで寝ていたのに、まだ眠い。
 「私達は、ここで帰ったから、後の事は腕環の子が戻るまでわからないんだけど、まぁ……お父さんに任せよう。画像のコピーとかは、私がしとくから、あんたはもう寝なさい」
 姉ちゃんはそう言って、部屋の灯を消した。

 日曜の午後二時過ぎ……十二時間以上眠っていた事になる。
 姉ちゃんの姿はなく、机の上にメモとパンが置いてあった。

 バイト。夜九時頃戻る。

 トイレに行って玄関の様子を見る。今、家にいるのは俺だけらしい。
 牛乳を飲んで部屋に戻る。カレーパンと菓子パンを食べて、みんなの帰りを待つ。オカンはまだ帰らず、従ってデーレヴォも現地。
 クソ兄貴は……帰ってこなくていい。
 意識が持って行かれそうなのを何とか堪えてパンを完食し、再び布団に包まった。
 デーレヴォは、二十四時間以上活動を続けている。寝た分回復しているからか、俺もまだいけそうだ。
 目を閉じた途端、意識を失った。
 一度、トイレに起きて水を飲んだだけで、姉ちゃんに起こされるまで爆睡(ばくすい)していた。
 台所で二人きりの晩ご飯。野菜炒めとご飯と味噌汁と栄養ドリンク。食後に栄養ドリンクを飲んだら、意識がはっきりした。
 デーレヴォは、まだ帰っていない。オカンとクソ兄貴も居ない。
 「まさか二連泊するとは思ってなかったわ……ねぇ、大丈夫?」
 「うん、それ飲んだら、マシになった」
 「よかった。まさか、三連泊はないと思うんだけど……」
 「まぁ、何とかなるよ」
 その夜はシャワーの後、すぐに眠った。

 作戦開始から八日目の月曜。
 朝十時頃目が覚めた。祝日でよかった。姉ちゃんは、既にバイト先に行った後だ。
 机の上に栄養ドリンクが三本。寝過ぎで背中が痛い。一本飲んで、重い体に活を入れ、台所に降りる。
 ご飯に大根とワカメの味噌汁をかけて掻きこむ。食器を洗う気力もなく、洗い桶に沈める。牛乳を飲み、更に水も飲んで、トイレに行った。起きた時に水分を多めに摂っておかないと、脱水で死にそうだ。
 壁に手をつき、重い足を何とか持ち上げて、自室に戻った。
 三時過ぎに起きて、義務的に昼食を摂る。栄養ドリンクとご飯と味噌汁、朝食として冷蔵庫に用意されていた目玉焼きとサラダを口に入れて、すぐ寝に戻った。
 次に目が覚めた時、部屋には姉ちゃんが居た。パソコンに向かって何か作業をしている。
 「ねえちゃ……」
 「しーッ!」
 姉ちゃんは、すごい勢いで振り向いて、俺を黙らせた。俺をディスプレイの前に引っ張って、テキストに文字を綴る。

 お母さんとお兄ちゃんが帰ってる。お兄ちゃんは自分の部屋。腕環はあんたの鞄の中。

 俺は、テキストに目を走らせ、一文毎に頷いた。姉ちゃんは、俺の顔を見てひとつ頷くと、テキストを保存せずに終了した。俺は、最後の栄養剤を飲んでトイレに降りた。
 オカンは、どうやら風呂に入っているらしい。
 今日は何もしないで寝てただけだし、もういい。このまま寝る。

 作戦開始から九日目の火曜。
 寝過ぎで背中と節々が痛い。手足に力が入らない。
 姉ちゃんが買い足してくれた栄養剤を飲んで、半分寝ながら朝食を食べた。オカンとクソ兄貴は、まだ寝ているらしい。
 だるい体を無理矢理動かし、登校する。
 二時間目終了後の休み時間、チャイムと同時に机に突っ伏した俺の横に、誰かが立った。
 「友田君、大丈夫?」
 忘れられない細く儚げな声。顔を上げなくてもわかる……塩屋さんだ。
 緊張で体が固まる。
 「あの、体調すごく悪いみたいだし、保健室、行く?」
 どうしたもんか……単なる過労だから、寝てれば回復する。病気じゃないんだ。
 「さ、最近、朝晩の寒暖差で体調崩す人多いんだって。ほら、高砂(たかさご)君も休んじゃってるし……えっと、私も保健委員だから、あ……あの、ホント大丈夫? 保健室まで歩ける?」
 高砂……? あぁ、男子の保健委員。顔を上げ、塩屋さんの方を向く。
 「えっ!? ちょっと、ホント大丈夫? 顔真っ青!」
 マズい。何か言って誤魔化さないと、重病人扱いされてしまう。
 巴が、塩屋さんの隣に立って言った。
 「貧血? 保健室で休んだ方がいいよ」
 「ん? ……あ、ああ、貧血貧血」
 俺は、巴にできる限り軽いノリで、同意した。いつの間にか傍に来ていた赤穂が、俺の顔を覗き込んで、宣言する。
 「友田君を保健室に連れて行く。網干さん、悪いけど、明石先生に言いに行ってくれる? ……立てるか?」
 机に手をついて立ち上がった……つもりだった。
 足がぐにゃりと力を失い、塩屋さん達が立っているのとは、反対方向に倒れこむ。体に全く力が入らない。意識ははっきりしているのに、体だけが眠ってしまったのか。
 女子の悲鳴が幾つも上がる。人が近づいてくる気配と足音。
 塩屋さんが、心配そうに俺に呼び掛ける声が、やけに近い。
 視界が真っ白で、自分が目を開けているのか、閉じているのかも、わからない。
 赤穂が仕切る声が聞こえる。
 「西代君、箒二本持って来て。この班のみんな、ジャージの上着貸してくれる?」
 「え? うん。えぇけど、どないするん?」
 巴が方言で聞いた。赤穂は自分の席に戻ったのか、説明する声が遠い。
 「簡易担架を作る。チャック閉めて、袖から裾に柄を通す。最低五枚要るから、いい?」
 「うん。ちょっと待って」
 頭周辺で、ガタガタ机と椅子を動かす音がする。
 チャイムが鳴った。
 「オイ、どうした?」
 国語の板宿(いたやど)先生の声が近付いてくる。赤穂がてきぱき返事をした。
 「友田君が貧血起こしたみたいです。委員長の俺と巴君で保健室に連れて行きます」
 「そうか。そーっといくぞ。足持ってくれ」
 頭のすぐ傍で先生の声がして、腕の付け根と足首を掴まれた。体が浮いて横に移動する。
 「担架とか、大袈裟だよな」
 「委員長がおんぶしてやればよかったんじゃね?」
 「大袈裟なもんか。気を失ってる奴は、自力でしがみつけないから、おんぶはロープ等で固定しない限り、後頭部強打の恐れがある。だっこも、君らの体力と体格で保健室まで運ぶのは、階段が危ない。それに、倒れた時に頭を打っているかもしれないから、なるべく頭を動かさないように運ばないと、危険だ。赤穂の判断は正しい」
 誰かが小声で言った無責任発言に、先生が少し厳しい口調で説明した。
 体が動かないだけで意識はあるから、会話は全部聞こえている。
 「巴はいいぞ。赤穂と行く。教科書の十二から二十一ページを読んで自習! ……赤穂、行くぞ」
 先生の声と同時に、簡易担架が浮いた。

 白い天井、消毒薬の匂い。
 横を向くと、知らない部屋に高校の制服を着た姉ちゃんが座っていた。
 「気が付いた? あんた、学校で倒れて、病院に運ばれたの。無理させて……ごめん」
 姉ちゃんは涙声で俺の手を握った。
 保健室に運ばれている途中で、本格的に気絶したらしい。
 「姉ちゃんのせいじゃない。オカンのせいなんだから、謝らなくていい」
 「うん。でも、ごめんね。証拠……今朝、中央郵便局から速達で送ったから、明日には着く」
 姉ちゃんが、声を潜めて言った。
 思わず跳ね起き、両手を握りあって激しく振った。
 「もう面会時間終わるから帰るけど、後の事は心配しないで」
 「あ……病院代は?」
 「叔母さんが立て替えてくれた。学校の保険とかで、後で戻ってくるみたいだし、あんたはそんな心配しなくていいからね」
 「姉ちゃん、誕生日おめでとう。誕生日なのにこんな……」
 「そんなのいいから。あんたが無事でいてくれるだけで嬉しいから、元気になってね」
 「……うん」

 特に異常はなく、翌朝退院できた。今日は作戦開始十日目の水曜……だと思う。
 迎えに来たのはオカンではなく、姉ちゃんに頼まれた愛子叔母さんだった。叔母さんは車を運転しながら深刻な顔で言った。
 「詳しい話はウチでするから、今日は学校休んでね」
 有無を言わせない雰囲気で、それきり無言になる。
 叔母さんの家では、祖父ちゃんだけが待っていた。叔父さんは仕事、従姉兄(いとこ)達は大学だ。
 「体はもうすっかりいいのか?」
 「うん。心配掛けて、ごめん」
 卓袱台の上には、分厚いA4封筒がある。叔母さんがお茶とお菓子を持って来て座った。
 「証拠の複製を預かった。寿一には、もう郵送したそうだ。聞いたか?」
 「うん、速達だから、今頃、もう着いてるんじゃないかなって言ってた」
 「お姉ちゃんに『お父さんに任せて知らんぷりして、もし何かあったら協力して欲しい』と言われたが、本当に大丈夫なのか? そもそも、なんでもっと早く言わんのだ?」
 オカン以外の身内は、誰も俺達を名前で呼ばない。
 「だって、ここ遠いし、迷惑掛けたくないし……」
 自宅からここまで、電車で一時間くらい掛かる。交通費も痛い。それに何より、祖父ちゃん達にこれ以上迷惑を掛けたくなかった。
 「迷惑だなんて水臭い。こんな事なら、お父さんと一緒に、あんた達も引き取ればよかった。ごめんね」
 「いいよいいよ。叔母さん、子供四人もいたら大変だし、オカンって殆ど家に居ないし」
 「そうみたいね。昨日も、学校からお家に電話があった時に居なくて、お姉ちゃんの学校に連絡が行って、お姉ちゃんからウチに連絡が来たのよ」
 留守だったのは好都合だ。
 「オカンには入院の事、内緒にして欲しいんだ。『恥かかせやがって』ってキレるから」
 祖父ちゃんと叔母さんは、顔を見合わせた。
 「もう家に帰らないで、ウチの子になる?」
 「ん〜……家に帰るよ」
 「遠慮しなくていいのよ?」
 「遠慮じゃなくって、メールチェックとか、やる事色々あるし」
 俺が居たら、ここがオカンに襲撃される。
 「そう……じゃあ、危なくなったら逃げて来て。夜中でも遠慮しないで。そうだ、これ、タクシー代」
 叔母さんはそう言って、俺の手に壱萬円札を握らせた。
 困惑する俺に、二人で畳みかける。
 「盗られないように隠して、ね。生きていたら、いつか幸せになれるから」
 「寿一が決着を付けるまでの辛抱だ。それまでは何としても生き延びるんだ」
 「……わかった。ありがとう」
 俺は壱萬円札を生徒手帳に挟んで、ブレザーのポケットに仕舞った。
 昼ご飯とおやつをご馳走になって、夕方、叔母さんが車で送ってくれた。
 誰もいない家は平和だった。
 二日連続風呂に入っていないので、頭が痒い。着替えを取りに部屋に入ると、一足先に鞄が戻っていた。姉ちゃんだろう。腕環もある。
 風呂でさっぱりして、点滴痕の絆創膏を剥がす。すっかり元気になった。点滴スゲー。
 メールをチェックする。巴からの着信が一件。時間は昨日の19時12分。

 件名:大丈夫? 
 本文:これを読んでるって事は退院できた……で合ってる? 「なるべく早く家に来て」って宗教叔父さんが言ってる。夕方五時半以降なら、父さんが車で迎えに行けます。無理しないで。お大事に。

 ディスプレイの時間は17時23分。

 件名:Re:大丈夫? 
 本文:心配掛けてすみません。ジャージありがとうございます。俺はもう大丈夫です。今から行ってもいいですか? 歩いていきます。

 すぐにレスが来た。

 件名:OK
 本文:公園の東口で待っていて下さい。父さんが車で迎えに行きます。

 少し迷ったが、了解と返信する。
 腕環をポケットに入れ、姉ちゃん宛のメモを残して、家を出た。

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