■薄紅の花 03.カルサール湾-23.踏み出す （2015年08月23日ＵＰ）
双魚は結界の輪から出た。ゆっくりと魔物に近付きながら、【風の矢】の呪文を唱える。
「風束(かぜつか)ね 空を弓とし 矢と番(つが)え 狙い違(たが)わず 敵を撃つ」
風が収束する。見えない矢が、唸りを上げ、魔物のわき腹に小さな穴を穿った。
双魚は勿論、あの巨体をこんな術でどうにかできるなどとは、思っていない。魔物の注意を逸らしたかった。三ツ矢が距離を稼ぎ、強力な呪文を唱える時間が欲しかった。
魔物はもう一歩、前に出た。
立て続けに三本の矢を放ち、魔物に小さな傷を付ける。意に介している様子はなかった。
双魚は少し距離をとり、【礫弾】を放った。
「力得よ 石よ意志持ち 飛び立て敵へ 飛礫(つぶて)となりて 降り注げ」
足下の小石が浮き上がり、魔物めがけて飛んでゆく。大きい物は拳大、小さい物でも胡桃大の石が、一斉に魔物の背へ降り注ぐ。
「おい！ こっちだ！ こっち向け！」
双魚は声を張り上げた。
魔物の頭が、のろのろとこちらを向く。
耳が片方千切れ、見える範囲の牙は折れていた。焦点の合わない目に僅かな光が戻る。血を吐きながら喘ぎ、体を傾けるようにして双魚に向き直った。
双魚は、小石の多い場所を目指して走った。震える足は思った程、動かない。離れ過ぎては、術が届かない。十数歩で立ち止まり、振り返った。
魔物が近付いてくる。
再び足下の石に力ある言葉で呼び掛けた。
「力得よ 石よ意志持ち 飛び立て敵へ 飛礫となりて 降り注げ」
石飛礫が満身創痍の魔物を襲う。
「助太刀するぞ！」
男の声に振り向いた。
重装備の男達が、獣道を踏みしめ、近付いて来る。先頭の男は、金属の盾と抜き身の長剣を握り、後に続く四人も、槍や弓を携えていた。
双魚はすぐ、魔物に向き直り、【風の矢】を放った。三本の内、一本が右目に刺さり、魔物が仰け反る。
男達が双魚の前に出た。
鎖帷子が、ジャラジャラ音を立てる。五人とも、右肩に同じ印の腕章を巻いていた。
分厚い革の鎧を身に着けた男が、一人離れて斜面を登る。程々の所で足を止め、手にした弓を引き絞った。
槍や剣を持った男達が、陣形を整え、魔物と対峙する。
「あ、あの、毒……毒があるから、近付いちゃダメです」
双魚は、射程の短い武器を持つ男達に声を掛けた。
剣と盾を構えた男が振り返る。編んだ鎖が揺れ、大きな音を立てた。
「蛇が居ないから、大丈夫だ」
魔物は殆ど這うような動きで、じわじわ近付いてくる。
矢が放たれた。
魔物の横面に刺さる。二の矢、三の矢も狙い違わず、魔物の首筋に突き立った。
男の一人が、槍を投げる。咆哮を上げる魔物の口の中に刺さった。喉の奥に刺さった槍を抜こうと、魔物は首を振り、前足で宙を掻いてもがく。
「荒玉(あらたま)の 天日(あまつひ)此処へ 火輪(かりん)呼び 高光(たかひか)る真日(まひ) 地にありて……」
呪文を唱える声が、幽かに聞こえた。双魚の知らない呪文だ。
斜面の下から、三ツ矢が顔を出していた。血の気が失せ、荒い息の下から、力ある言葉を絞り出す。
「……幽界(かくりよ)の……傍生(ぼうしょう)屠(ほふ)り……」
双魚は魔物から目を放さず、三ツ矢に近付く。三ツ矢は枝を掴み、斜面にせり出した幹に身を預けた。腹からの出血が酷い。呪文の最後の一節を声に出し、魔物を指差す。
「……間(あわい)へ還せ」
魔物と三ツ矢の間に、小さな灯が点った。
灯は明滅を繰り返しながら、魔力を圧縮する。魔物は相変わらず、喉に刺さった槍を抜こうと足掻いている。
三ツ矢が腕を横に薙いだ。
灯が地面に沿って飛ぶ。魔物の胴に触れ、溶け込むように消えた。
魔物の動きが止まる。
双魚も、武器を手にした男達も、時が止まったように感じた。三ツ矢の苦しい息遣いだけが聞こえる。
魔物の胴が、数倍に膨れ上がった。双魚が頭を抱えてしゃがむ。
一呼吸後、音もなく、魔物の胴が消えた。
落ち葉の上に魔物の頭と足先が、音を立てて落ちる。
男達は、呆然と立ち尽くした。
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第03章.カルサール湾
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