■リネンの下に 04.さらば(2015年10月31日UP)
消毒の強い匂いと見慣れない布団と枕、痛む足。気が付けば、病院だった。だんだん目覚め、何をしてどこに居るのか気付いた途端、上げ強い不安、後悔が押し寄せた。
反対を向く。
点滴に繋がれた腕。足の他、あちこちの痛みに呻く。
夜だった。
カーテンで仕切られ、部屋は広さも何もわからない。
痛みより眠気が強く、幸照はいつしか夢の中に居た。
飛ぶ帽子、追う自分。福子の声、ブレーキの音。他人事(ひとごと)のように眺める夢だった。
幸いに足の骨折、多数の打撲、擦り傷で、命には障りなかった。
女房は昼過ぎに来た。
跳ねた男も見舞いに来、頭を下げた。
「いやもう、こっちが全部悪いんですから、謝らんとって下さい」
「……兄ちゃん、すまんの」
女房が恐縮し、頭を下げる。幸照もそれに倣った。
若者は肩を震わせ、泣いていた。
「よかった……マジ、よかった……生きてる……生きて……し……死なないですよねッ?」
顔を上げ、幸照に縋りつく。
老人は改めて申し訳なく思い、謝る。
「あぁ、死なへん、死なへん、ピンピンしとぉ。心配さしてすまんな、兄ちゃん。」
お互いに何度も詫びを口にして、若者は菓子折を置き、引き揚げた。
四人部屋。怪我人ばかり、退屈でテレビ、雑誌とお見舞いで暇つぶし。
この騒動も、恰好の退屈しのぎ。患者らは、耳をそばだて興味深々。
カーテンを引いて、夫婦は一息ついた。幸照がポツリと問うた。
「帽子は?」
「あんた、まだそんな寝言、言うとんかッ!」
「寝言て……せやかて、気になるやんか……」
夢にまで見たとは言えず、ムッとして反駁し、火に油、女房は烈火の如く怒りだす。
「命より、そんな見えもせん毛ぇが大事かッ!」
「大事やッ!」
即答に福子の目から滝かとばかり、涙が溢れ、情けなく、嗚咽混じりに肩を落とした。
「一緒に金婚式しよ言うたのに……」
福子の声に血の気が引いた。
繕おうにも言葉を失くし、女房が自分で涙止めるまで、呆然とする。
女房は、毎日世話に来てくれた。
何もない病室の日々、夫は何を思ったか。
退院し、我が家で過ごす夜が来た。
幸照の頭が光り、共白髪にはなれないが、来年は金婚だ。
比翼連理の半世紀。その内の三十年は、毛がなくも、怪我はなく、呑む打つ買うに手を出さず、小春日のような暮らしで、夫婦揃って無事に来た。
ない毛に縋り、事故に遭い、妻を泣かせた。
運悪く、若者に迷惑を掛け、お迎えが来る前に、こちらから逝くところだった。
本当のお迎えまでの時の残りは知らないが、この期(ご)にも、ない毛に縋る我が身を思い、俯いた。
洗面所。
入院中、地肌には何もつけずに過ごしたが、特に支障は見られない。鏡の前の瓶各種、育毛、養毛、保湿ローション、十数本の中身を流し、袋に詰める。
すっきりと片付いた。ゴミ袋には、執着の残骸がある。
乾いた布で鏡を拭いた。これまでは、瓶が邪魔して拭けなかったが、全体を磨き上げられ、隅々までも輝いた。
鏡に映る頭には、怪我はあっても毛がなくて、年相応に皺がある。
頭頂で何かが動き、顔を上げ、鏡に見入る。
手が震え動悸が跳ねた。怖々と手を伸ばす。
一本の白髪があった。短いが、しっかり根付き、揺るぎない。
年相応の白いもの。
次の朝、幸照は瓶類のゴミを捨て、高架へ向かう。帽子を売りにあの店へ……