■リネンの下に 03.夫と妻(2015年10月31日UP)

 その日から、幸照は例の帽子を必ず被り、出歩いた。
 妻の目が気になって、家では脱いだ。福子の留守は、部屋の中でも帽子を被り、頭に触れる。
 楽しみができた近頃、いつもの街のいつもの景色、いつもの日課、全てが光り輝いて見え、幸照は溌溂として日々を送った。
 洗面所には育毛剤が列を成し、幸照の努力の日々を物語る。風呂上りには欠かさず使い、帽子なしでも有るように、肌の手入れは休まない。
 福子は特に何も言わない。
 かと言って幸照は、帽子の謎を茂田氏ら、友達に語る事なく胸に秘め、何食わぬ顔で過ごした。
 一度だけ、呆れ顔した福子が言った。
 「外から見えんのやったら、有っても無(の)うても一緒やん。ちゃんとしたヅラの方が、みんなに見える分、まだマシやわ」
 幸照は力なく笑って、何も言わずにおいた。
 夫婦二人の帽子の秘密。
 誰も知らない黒髪のその存在が、夫婦の日々を明るく照らす。
 妻は、夫の眩しい笑顔、喜び様に、そんなにも嬉しいものかと、半ば呆れ半ばは共に喜んで、今日も一緒に夕飯の買物に出た。
 以前なら、カートを引いて一人行くこの道を夫と二人、手を繋ぎ、足取り軽くのんびりと行く。
 若い頃すらなかった事だ。
 世の中は何が起こるかわからない。しみじみと噛み締めた。
 穏やかに日々は流れる。
 本格的な夏が訪れ、日除けの為に日傘、帽子が欠かせない時節になった。
 苦瓜が窓に茂って実を下げる。影を通った外の熱気が、網戸を抜けて部屋に来る。
 そろそろ勘を取り戻し、自力で生えていい頃だ。根拠なくそう思う。
 「そんな夢みたいな事……」
 女房は笑うが「夢」は否定せず、生ぬるく見守った。
 この帽子、そのものが夢かも知れず、迂闊な事を言ったが最後、消えてなくなるかも知れなかった。
 帽子を失くし、夫が生きて行けるのか。
 入れ込み様に妻は帽子の無事を祈った。

 台風が巻き、風が次第に強くなる。空はまだ晴れていた。
 むっとする強い湿気に、汗の衣を纏わされ、買物に出る。
 「帽子蒸れへんか?」
 「いいや。涼しいで」
 「さよか」
 雲速く、幟はためく道すがら、他愛ない話をしつつスーパーへ行く。
 「カラアゲとビールがえぇなぁ」
 「クソ暑いのに、揚げもんさすんかいな」
 「出来合いのやつ、買(こ)うたらえぇやねぇ」
 「そんなんでえぇんかいな。野菜も食べ」
 「フクも暑うて料理する気せんやろ。何か買(こ)うて半分こしよ」
 「ほな、野菜炒めでも買おか」
 南の海の風が吹き、帽子が飛んだ。
 幸照が見た事のない速さで追って、飛び付いた。手の中にリネンを捕らえ、立ち止まる。
 「危ない!」
 福子が叫び、通行人が息を飲む。ブレーキにタイヤが軋み、悲鳴を上げる。

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