■リネンの下に 02.額と頭(2015年10月31日UP)

 妻は麦茶を淹れていた。
 「おかえり。まだ冷えてへんけど、氷入れて飲む?」
 「いや、いらん。それより、フク……これ見てくれ」
 汗だくの腕を突き出し、帽子の中を見せる。妻の福子(ふくこ)は怪訝な顔で、老眼鏡を掛け直し、中を覗いた。
 「落としもん、拾(ひろ)たん?」
 「違(ちゃ)う。高架下で買(こ)うた」
 「あぁ、さよか。新品やない思たら、中古かいな」
 「あぁ、それよりフク、中見てくれや、帽子ん中」
 「中?」
 古女房が覗きこむ。眉間の皺が深くなる。
 「何やいな。洗濯もせんと売っとったんか。前の人の毛ぇ付いとぉやないの」
 「前の人違(ちゃ)う」
 「違(ちゃ)うて、何やのね」
 薬罐のような頭を見上げ、首を傾げる。
 妻の頭は天然のまま、少し黄ばんだ白糸を茂らせている。若い頃よりやや減って、近頃は洗うのが大儀だと短くし、飾り気はない。櫛で梳き、さっぱりと撫でつけていた。
 まじまじと妻の頭を見詰めて黙る。
 「ユキさん、どなしたん? 熱中症で気分悪なったんか?」
 「違(ちゃ)う」
 続きを言えず、口を結んだ。
 女房は諦めて流しに立った。
 幸照は手を洗い、鏡に映る顔を見た。
 眉毛より上には何も残っていない。肌はツヤ良く、汗が玉成し輝いている。額と頭、その境界は判然とせず、一続きだった。
 洗顔し、汗の滲んだ頭部も洗う。
 さっぱりすると人心地つき、女房に話す勇気が湧いてきた。
 茶の間へと取って返すと、女房が帽子を持って端坐していた。
 背筋を伸ばす女房に幸照は、全身が強張った。
 意を決して、その前に腰を降ろした。勢いを付け、一気に話す。
 「それな、儂の毛ぇやねん」
 女房は答えない。
 自分でも、有り得ないとは思っている、だが、現にここにある。
 「ちょっと貸してみ」
 受け取ってすっぽり被り、頭を撫でる。
 布越しにブラシのような手触りをはっきり感じ、推測を口に出す。
 「中は普通の布やろ? 何でか知らんけどな、これ被っとぉ間だけ……け……毛ぇ生えるんや。ちょっとこっち来て、触ってみ」
 動悸がし、頭が熱い。だが、言った。
 女房が、首を捻って手を伸ばす。
 幸照は耳を赤くし、目を閉じた。
 妻の手が、帽子に触れる。布と毛がこすれ合い、わしゃわしゃと幽かな音を立てている。懐かしい感触に、遠い昔の風景が脈絡もなく思い出された。
 「何やこれ? 手品の帽子?」
 ひょいと帽子をつまみ上げ、しげしげと中を見る女房の声で現に戻された。
 手品なら、毛は帽子から生える筈。
 「違(ちゃ)う……何やわからんけど、儂の頭に毛ぇ生えるんや。今度はちょっと、引っ張ってみぃ」
 「何でやねん。頭おかしいんちゃうか?」
 その言葉、中身のことか、頭皮を指すか。追求せずに今はただ、帽子を被る。
 女房は付き合って、言われるままにつまんで引いた。
 「あれっ? これ、何やのね?」
 異変に気付き、身を乗り出して更に引く。知らぬ間に力が籠り、頭皮がぐいと引き上げられる。幸照は腰を落ち着け、踏ん張った。
 力比べに耐えきれず、ブチブチと毛が抜ける。
 妻の手がすっぽ抜け、尻餅をつく。女房は帽子の中を覗き込む。
 気味悪そうに顔を上げ、亭主の頭、特に先程、引いた所を穴のあく程見る。
 「こんなツルツルの身ぃつまめるワケあらへんのに……赤(あこ)なっとぉな……」
 「毛ぇ引っこ抜かれたから、ちょっと痛いわ」
 得意げな声に自分で驚いて、幸照はじんわりと痛みの残る頭を撫でた。いつもと同じ、ツルツルの身が手に触れる。
 「何、喜んでんねん。気色の悪い」
 「何がやねん。儂の毛ぇやないか」
 「有りもせんもんが有るから、気色悪いねやんか。古希過ぎてそんな真っ黒の毛ぇ、ホンマにユキさんのんかいな」
 「今、めっちゃ痛かったわ。儂が痛いねやから、儂のんで間違いない。大体、白髪になるまで、生えてへんかったんや。黒うて何がおかしいねん」
 言ってから、自分の声に傷ついて、涙が滲む。
 福子は夫の涙を見、声を和らげ心配を口にした。
 「せやかて、そんなワケわからんもん……ユキさんに害はないんやろね?」
 「知らんがな」
 涙に揺れると息と共に声を出す。福子は更に懸念を示す。
 「得体の知れん帽子被って、何ぞあってからじゃ遅いからね。サイズ合わんかったか何か、テキトー言うて、お店に返しといでよ」
 「いやや」
 「……さよか。そしたらもう知らんからね。勝手にし」
 夫の気性を良く知る妻は、諦めて夕飯の支度に立った。

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