■01.階段の鏡(2015年09月06日UP)
本館最北端の階段。一、二階間の踊り場には大きな鏡がある。
全身が映る長方形の鏡。左下には、「祝・新校舎完成 七回生有志一同」と小さな赤い文字が入っている。
そこを一人で通ると、「何か」が起こる。
その「何か」が何か、人によって異なる。
その「何か」は七つ……
ありふれた怪談話だ。
暑くなってくると、部活や委員会の先輩達が、精一杯、怖い雰囲気を醸し出しながら、下級生に語る。
部によって、微妙に異なる話が伝わっているのも、ご愛嬌。怖がらせる為に、どこかの代でアレンジが加えられたり、省略されたりしたのだろう。
その「何か」は七つ……と言うのは、鏡の贈呈者名からの連想か、ベタな七不思議にする為のこじつけだろう。
古い中学校だから、何年もかけて伝言ゲームをしていくうちに、話が変質するのは、ある意味、当たり前の現象だ。
保健委員の蛍池(ほたるがいけ)は、柴島(くにじま)を保健室に連れて行きながら、口には出さずに検証した。
本人は、「鏡の前を通ったから、貧血を起こした」と言っているが、「何かある」と言う思い込みがそうさせたのか、単にその「何か」を偶々起きた「貧血」に当てはめただけだろう。
明確に「何」が起きるか語らない。
人によって、違う現象が発生する。
何が起きるかわからない「得体の知れなさ」と、これがそうかも知れない、と思わせる「曖昧さ」がこの階段の怪談の怖さの真髄だ。
恐怖の原因が分かってしまえば、怪談の魅力は途端に色褪せる。
怪談が好きで、本やネットで余りにも大量に読み過ぎた弊害なのか、「恐怖のパターン」が見えてしまう。
蛍池(ほたるがいけ)には、踊り場の鏡を本気で怖がる同級生が、遠い世界の住人に見えた。
パターン化された他愛ない話を怖がれる初々しさが、幼く見えると同時に、羨ましくもあった。
「二年三組の蛍池(ほたるがいけ)です。柴島(くにじま)さんが貧血みたいなんで、少し休ませてください」
保健委員として、養護教諭に声を掛けた。
貧血の理由は言わない。言えない。
「熱はない? 朝ごはん、食べてきた? 吐き気は? ……大丈夫?」
養護教諭は、優しく声を掛けながら、彼女を白いベッドに寝かせる。脈と顔色を診て、一応、体温も測った。一通りのことを済ませ、保健委員の蛍池に声を掛ける。
「お疲れ様。後は先生が看(み)とくから、教室に戻っていいよ」
「柴島(くにじま)さん、大丈夫ですか?」
ベテランの養護教諭は、ヒマワリのような笑顔で答えた。
「大丈夫、大丈夫。思春期の女の子には、よくあることだから」
階段の怪談に怯え、ただの貧血以上に蒼白な柴島(くにじま)に聞かせる為に、次々と質問する。
「どうしてですか?」
「体が急に大きくなる時期で、鉄分とかが足りなくなるからよ。よっぽど重症なら別だけど、大抵は、レバニラ炒めとか、ヒジキたっぷりの豆腐ハンバーグとか、ホウレンソウとか、鉄分の多いおかずを食べてれば、ある程度防げることよ」
「よっぽど重症だったら、どうするんですか?」
「病院のお薬を服(の)んで、さっき言ったみたいな、鉄分の多いものを食べて、過度な運動を控えれば、すぐよくなるのよ」
「サプリじゃダメなんですか?」
「鉄分は、一度に吸収できる量が少ないからね。鉄を吸収するのに、ビタミンCとかも必要だし、好き嫌いせずに満遍なく、きちんと食事を摂るのが一番いいの」
「へぇー……」
柴島(くにじま)は、布団に潜っていた。顔は見えないが、今の話は聞こえただろう。
貧血を起こす科学的な原因、科学的な対処方法。
鏡の前を通ったから貧血を起こしたと言うのは、因果関係が立証できない。非科学的な話だ。
「ありがとうございました。じゃあ、後、よろしくお願いします」
蛍池(ほたるがいけ)は保健室を辞し、理科室に向かう。
柴島(くにじま)は移動中、教室に筆箱を忘れたことに気付いて、取りに戻った。休み時間だし近道だし、と理由を付けて例の階段を使ったら、偶々その時は一人だった。
理科室へ戻って来た柴島(くにじま)は、唇まで蒼白だった。
理科教諭に言われ、保健委員の蛍池が授業を抜け、柴島を保健室に連れて行った。
保健室へ行く途中、「あの階段だけはやめて」と懇願(こんがん)され、仕方なく遠回りした。
実験に遅れちゃう。
一階の保健室から、三階の理科室へ。近道をする為、例の階段を通る。
踊り場に上がると、必然的に鏡には自分の姿が映る。
二階への階段に足を掛けた瞬間、妙な浮遊感に捉われた。
あ、マズい。貧血……
後ろ向きに倒れないよう、やや前屈みになり、膝に手をついて耐えた。
古い映画でよくある「港で繋留杭(けいりゅうくい)に足を掛けるカッコつけの船乗り」的なポーズに、失笑する。
目の前の白いチラつきが消え、徐々に視界が元に戻る。
ゆっくり上体を起こすと、鏡が視野に入った。
鏡に映った自分は、まだ「カッコつけの船乗り」のポーズのままだった。
体の芯が氷柱になったように背筋を伸ばしたまま、鏡に釘付けになる。
夏なのに、冷たい汗が背中を伝う。
鏡の中の自分が、ほんの数瞬、遅れて現在の自分と同じポーズになる。
柴島(くにじま)と同じ、唇まで蒼白な顔が、こちらを見ている。
これは、貧血の顔。今朝、朝ごはん抜きで来たし、今、四時間目だし……
柴島も、先程これと同じ現象を経験したのか。
いや、人によって異なるはずだ。
その「何か」は七つ……
続きは、部によって伝承が異なる。
水泳部は、その「何か」は七つ種類がある。
美術部は、その「何か」は七つの鍵で、経験者に扉が開く。
蹴球(サッカー)部は、その「何か」は七つの能力の象徴で、それを失う。
卓球部は、その「何か」は七つ全て知ると、卒業できなくなる。
剣道部は、その「何か」は七つ全て経験すると、卒業まで生きられない。
園芸部は、その「何か」は七つの真実を知る為のヒントで、知ると呪われる。
合唱部は、その「何か」は七つの禍(わざわい)のミニチュア版で、大した害はないらしい。
陸上部は、その「何か」は七つの印で、印の生け贄が七人揃うと鏡で眠るモノが甦る。
先輩や友達から聞いた話は、全部バラバラ。
他の部には恐らく、また別の話が伝わっているのだろう。信憑性も何もない。
水泳部は、肝心の内容が抜け落ちている。
卓球部と剣道部は、ほぼ同じ内容だ。よくある怪談パターン。
園芸部の前半はあり得そうな話だが、後半はありがちな怪談。
美術部、蹴球(サッカー)部、陸上部は、厨二病にも程がある。誰の黒歴史ノートの御開帳だろう。
最も核心に近そうなのは、合唱部に思えた。
蛍池(ほたるがいけ)は、二番目に無害なものを選んだ自分の臆病さに気付き、小さく笑った。
一番無害なのは水泳部だが、脱落部分が気掛かりで、無意識に避けたのだろう。
合唱部の「七つの禍(わざわい)」とやらも充分、厨二臭いが、何を意味しているのだろう。
鏡の虚像が、一瞬、遅れて映る。
映像遅延……衛星放送……? いや、禍って……それの何が害になんの?
考え事をしていても、問題なく理科室に戻って来られた。
実験の邪魔にならないよう、そっと後ろの戸を開ける。
黒板の上にある時計に目を遣る。
出て行ってから、一分も経っていない。
「おっ……おぉッ? 蛍池(ほたるがいけ)、早かったな? 途中で誰か先生に任せたのか?」
「えっ? いえ、保健室、連れて行きましたよ」
理科教諭は首を傾げたが、授業の進行を優先し、それ以上突っ込まなかった。
「……えー、じゃあ、続き。二酸化マンガンと過酸化水素水をフラスコに入れて……」
実験の説明も、まだ、始まったばかりだった。
その日の帰り、念の為、誰も居なくなるのを待って例の鏡の前に立った。
夏の夕暮れ。下校時刻になっても外はまだ明るいが、ここは既に薄暗い。
何も起こらない。
拍子抜けする。
帰ろうと、背を向けかけた時、鏡が暗くなった。
目を凝(こ)らす。
古い木造校舎の中だ。長い板張りの廊下。突き当たりに扉がある。
その「何か」は七つの鍵で、経験者に扉が開く。
美術部の伝承を思い出し、肌が粟立(あわだ)つ。
最もあり得なさそうな話が、一番真実に近かったことに、頭を殴られたような衝撃を受けた。
飛び降りるようにして階段を駆け下り、逃げ帰る。
もしかすると、わざと話を分解して伝承しているのかもしれない。
七つ全てを知ることがないように……
その可能性に気付き、全力疾走以上に動悸(どうき)が激しくなる。
今の体験が、「二つ目」とカウントされるかどうかさえ、わからない。
蛍池(ほたるがいけ)が、その階段を使うことは、二度となかった。
臆病さは、身を守る為の最初の楯だということを、数々の怪談で学んでいたから。