■薄紅の花 02.森の家-01.おねしょ (2015年06月24日UP)

 双魚は、知らない寝床で目を覚ました。起き上ろうとして身じろぎし、蒼白になる。
 服が濡れている。それも、主に腰の辺りが。

 ……おねしょ……十にもなって……おねしょ……

 愕然とした次の瞬間、叱られる恐怖に身が竦み、思考が停止した。
 普段の双魚ならば、水を操る術で衣服と体、寝具を自分で洗えば、特に問題ないことに気付く。だが、この時は、何も考えられず、起き上ることさえできなかった。
 何もできない幼児(おさなご)のように寝具の中で、ただ縮こまる。
 「そろそろ、お昼にしようかね?」
 部屋に入って来た知らないおばさんの声で、双魚は自分がどこに居るか思い出した。
 更に小さくなって息を殺す。このまま消えてしまいたかった。足音が近付いてくる。
 「疲れてるだろうけど、なんにも食べないと却ってよくないからね。お昼食べてから、後でお昼寝しようね」
 穏やかな声と同時に布団を剥がされる。
 双魚は一層、身を固くし、縮こまった。
 一呼吸置いて、あたたかい手に抱き起こされる。
 「よしよし、怖かったんだね。もう大丈夫だから、安心おし」
 養母は寝台の傍らに身を屈め、養い子を抱きしめた。
 養い子は叱られると思ってか、身を強張らせている。
 その震える小さな背中をさすりながら、養母は声を掛けた。
 「よしよし、大丈夫だよ。こんなのすぐキレイになるんだから、心配いらないよ。さ、おいで、洗ったげよう」
 背中を軽く叩いてあやし、手を引いて寝床から降ろす。
 養い子は顔色を失い、声もなく涙を零し始めた。
 思わず貰い泣きしそうになるのを堪え、養母は養子を抱きしめた。
 「よしよし、怖くない、怖くない。よしよし、よしよし……」
 髪を撫でながらあやすと、養い子は声を上げて泣き出した。養母は養い子をしっかり抱きしめ、泣き止むまで、あやし続けた。

 双魚は、泣き疲れて泣き止んだ。
 養母に手を引かれ、丸木小屋の外に出される。
 既に日は高い。畑には、暖かな春の陽が注いでいた。
 そのまま手を引かれ、柵で囲まれた畑の隅に連れてこられた。
 養母が術で井戸水を起ち上げ、ぬるま湯に変える。首を竦め、ぎゅっと目をつぶる養い子をあやしながら、汚れてしまった体と衣服を洗う。
 「ほぉら、もうキレイになった。よしよし、さっぱりしたねぇ。さ、ごはんにしようね」
 洗い上がっても、表情を凍りつかせたままの養い子を抱きしめ、小屋に入るよう、促す。
 双魚は素直に従い、言われるまま、食卓についた。
 養父の六車星(むぐるまぼし)が、三人分のスープとパンを並べる。
 「さ、たんとおあがり」
 「遠慮しなくていいからね」
 養父母に勧められるまま、機械的に食事を口に運ぶ。空腹の自覚はなく、何を食べたか定かでないまま、ぼんやり皿を空けた。
 養母が畑に出、すぐに戻って来た。宙に井戸水を漂わせ、奥の部屋へ入る。
 養父が食器を下げるのを見ているのか見ていないのか、双魚は虚ろな目で座っていた。
 「さ、お布団もキレイになったよ。お昼寝しようね」
 水を片付けた養母が、肩を抱いて促す。双魚は首を縦に振り、椅子から滑り降りた。
 されるがまま、寝かしつけられ、目を閉じる。
 「一人でねんねできる?」
 双魚が小さく頷く。
 「お夕飯には起こしたげるからね。それまでゆっくりおやすみ」
 養母は安心して微笑み、寝室の扉を閉めた。
 一人になった双魚は、ゆっくりと息を吐き出し、頭から布団に潜った。
 粗相の痕跡は、なにひとつ残っていない。
 清潔であたたかい。役所の埃っぽいカーテンとは、比べるべくもない。やわらかな布団に包まれ、少し安心する。
 先程まで寝ていたのに、まだ眠い。体が重く、何もしたくなかった。
 外から、双魚の知らない鳥の囀りが、聞こえて来る。その陽気な歌を聞きながら、双魚はうとうと微睡(まどろ)んだ。

 足許が音もなく崩れ落ちる。
 闇に呑まれる感覚から逃れようと、双魚は跳び起きた。
 全力で駆けた以上の動悸。
 体の奥底から湧き上がる何かに喉を絞めつけられ、声も出ない。
 不吉な拍動が体の隅々まで広がり、手足が強張る。
 泣くことも、助けを求めることもできない。そもそも、誰を呼ぶのか。
 先程とは別の小鳥が、軽快な調子で歌っている。やや落ち着きを取り戻し、双魚は自分が布団の端を握って震えていることに気付いた。
 恐る恐る横になり、布団を被り直す。
 歌い終えた鳥が去り、静かになった。
 二人とも出掛けたのか、家の中では物音ひとつしない。
 双魚は細く息を吐きながら、目を閉じた。すぐに意識を失い、ここ暫らく、碌に眠れなかった夜を取り戻すように昏々と眠る。
 養母に起こされるまで、目が覚めなかった。
 夢も見ず、知らぬ間に、ただ時だけが過ぎている。
 畑の井戸で顔を洗う。膜一枚隔てたように、全てが遠い。
 傾いた日が森と畑を赤く染めていた。
 養母が、夕飯に使う野菜を籠に摘む。
 手を引かれ、丸木小屋に入ると、養父がパンを切り分けていた。
 夫婦が食事の用意をする様を、どこか遠くの出来事のように眺める。
 空腹感はなかったが、勧められれば、食事を腹に納められた。何を食べたのか、味も何も他所事(よそごと)で、上の空。何を考えるでもなく、現実感を失ったまま、いつの間にか季節が変わっていた。

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